再会②
◇
約十時間前。
二年前に転職した、大手住宅メーカー『猫本建設工業』の本社経理部で残業した夜八時。
「あー終わったー」
月末ということもあり、明日から忙しくなるのでそれの準備等をし終え、解放感に満ち溢れていた。長時間パソコンとにらめっこをしていたので、コンタクトが渇いて目が痛い。
「お疲れ井上ちゃん。この後、どう?」
目をシパシパしていると隣で同じく仕事を終えた、黒髪美人の池内理佳子先輩が飲む仕草をして誘ってくれた。理佳子先輩はわたしと三歳しか違わない──三十歳相応のセクシーさを持っており、出るとこ出て引っ込むところは引っ込んでいる、女性が憧れる女性だ。仕事もできるし気配りもできる完璧超人の理佳子先輩のことがわたしは大好きだった。
「いいですね、行きましょう」
残業をした日はこうして理佳子先輩に誘われることがままあった。残業自体は頻繁にある訳ではなく、月に一回か二回ほどのホワイト企業で、基本的には午前九時から午後六時(休憩七十五分)の定時できっかり上がれる。前職は経理とは全く無縁の職種だったのだが、色々あって辞めた。前職の話をすると長くなるのでここでは割愛。
「いつもの居酒屋でいい?」
「飲めるならどこでもいいです!」
いつもの居酒屋というのは、会社から歩いて五分ほどの駅前の飲み屋街にある小さな焼き鳥屋『八十郎』のことだ。一本八十円からというリーズナブルかつ美味しいがウリで、よく行っているところだった。
経理部はビルの四階にあるのでエレベーターで一階に下り、社員証を自動改札機にかざして会社を出る。
「外は暑いですね」
自動ドアを抜けると、ムッとした空気に包まれた。梅雨が明けた七月末の夜は太陽が沈んでいるにも関わらず三十度近く、日中より下がるとしても基本エアコンの効いたオフィス内で悠々自適に過ごしている身としては、堪える暑さだ。キンキンに冷えたビールが喉を通ることを想像して、ゴクッと唾を飲み込んだ。
さぁ行こうと歩き出すと、歩道に繋がる階段の手前に人が立っているのが見えた。紺色のスーツのジャケットを腕にかけ、赤いネクタイは結び目を下ろしてワイシャツのボタンは三つほどだらしなく開けている。長袖シャツの袖口は二の腕付近まで上げて、持っているスマホを団扇のように顔に向けて扇いでいた。
見た事のある顔だな、と思ったと同時に、彼がこちらを振り向いて懐こい笑顔で手を振ってきた。
「春香!」
呼ばれた瞬間、自分は幼い頃に戻ったのかと錯覚した。田畑が広がる畦道、太陽の光を反射しながら流れる川のせせらぎ、ダイヤモンドやルビー、サファイアが散りばめられた夜の星空……
あの頃は自分の町しか知らなくて、一生ここで生きていくんだと幼いながらも心に決めていた。澄んだ空気を肺に入れ、二酸化炭素を吐き出してもまた綺麗な空気が吸える。
高校を卒業して実家を出て大学生、社会人と大きくなるにつれ、都会に慣れたわたしは何もない田舎町に嫌気がさした。綺麗な空気よりも人ごみの中で揉まれる方が生きている気がして、帰らなかったのに。どうして思い出させる。
車が行き交うアスファルトの道、下水の臭いが上がってくるドブ川、漆黒の空が広がるだけの街灯だらけの町。ここは、故郷から遠く離れた都会だ。静寂の田舎を捨ててまで残った、喧騒の都会。
「どちら様ですか」
意識を戻し、なるべく冷ややかな目でそのスーツ男を見た。彼は嫌になるほどパッチリした二重を瞬かせ、わたしを凝視する。
「どちら様って……俺のこと忘れた? 夏樹じゃん、友川夏樹。幼馴染じゃろ? 生まれたときから十八歳まで隣の家じゃったが」
「知らない。理佳子先輩、行きましょう」
スーツ男の前を通り過ぎ、階段を下る。
「え、いいの?」
「いいです。知りませんもん、あんな方言丸出し男」
せっかく美味しいビールが待っているのに、あの男のせいで不味くなるのは避けたい。知らないフリをして逃げるのが賢明だ。理佳子先輩は心配そうに「本当にいいの?」とチラチラ後ろを振り返りながら聞いてくれるが、わたしは「見てはいけません。先輩の目が汚れてしまいます」と言い切った。なんなの、なんでここにあいつがいるの。