過去⑧
「あれ、井上、準夜?」
後ろから声を掛けられ振り返ると、白衣姿の黒瀬くんが立っていた。わたしの膝元に視線を落として苦笑する。
「幸せそうな顔しやがって……ベッドまで運ぶ」
そう言って黒瀬くんは颯太くんの首元と膝裏に自分の腕を入れると、軽々と持ち上げた。
「不安だったみたい。少し話したら安心してそのまま寝ちゃった」
「そうか。ありがとな」
子どもの不安を取り除くということは、決して簡単なことではない。看護師三年目のわたしでさえもちゃん子どもに寄り添えているか分からなかった。でも、黒瀬くんにお礼を言われて初めてこれで良かったんだと分かってわたしは救われた。
そして颯太くんの手術日当日になった。
日勤だったので夜勤の看護師から申し送りを受けている時だった。
「誰かっ! 看護師さんっ!」
ナースステーションに女性の叫び声が届いた。みんなで声がした方向を見る。そこには青白い顔をした颯太くんのお母さんが鬼気迫る様子で受付から身を乗り出していた。
「颯太くんのお母さん。どうされました?」
「颯太がっ颯太がっ!」
かなり取り乱しているようで、颯太くんのいる病室の方向を指差して息子の名前を連呼する。わたしは近くにいた同期の看護師と顔を見合わせて、すぐナースステーションを出て病室へ向かった。
入ってすぐ右手のベッドの上で、颯太くんが細かく痙攣していた。
「颯太くん!」
駆け寄って名前を呼ぶと颯太くんの痙攣は止まった。
「颯太くん! 分かる!?」
両肩を叩きながら大きく声を掛けるが、反応はない。わたしは颯太くんの口元に耳を近付け、胸を見る。息が頬に当たらなければ胸の上下動も確認できなかった。呼吸が停止している。颯太くんの首筋に触れるが、拍動を感じられることは出来なかった。わたしは同期の看護師と駆け付けたほかの看護師に声を飛ばした。
「CPAです! 救急カートとスタットコールをお願いします!」
CPAは心肺停止、スタットコールは院内で緊急事態が発生したことを知らせる緊急コールのことで、手すきの医師や看護師を呼び出すために用いる。一刻の猶予を争う事態だった。
「モニター付けます!」
後輩の看護師がモニター心電図をつける準備をする。
「八時二十分、心肺蘇生開始します!」
わたしは颯太くんの前開きのパジャマのボタン部分を力いっぱい左右に引いて胸を出すと、両手を組んで直角に押し始めた。胸骨圧迫──心臓マッサージだ。
──スタットコール、スタットコール 東病棟十階小児科
院内放送が響いた。あと数十秒で医者や看護師が集まるが、それを待っている余裕はない。今わたしが出来ることは、リズムよく胸を押すことだけだった。
「十、十一、十二……」
「救急カート持ってきた!」
同期が音を立てて、頼んでいたものを持ってきた。まだ医師は到着していない。モニター心電図の電極が颯太くんの体につけられた。
「二十一、二十二……」
「颯太くん、頑張って!」
「井上! 状況は!?」
心電図の電源が入れられたところで、黒瀬くんが飛び込んできた。
「細かく痙攣した後止まりました! 心肺停止です! 八時二十分心肺蘇生開始しました!」
モニター心電図の液晶画面を見た黒瀬くんは、近くにいた看護師に「カウンターショック持ってきて!」と指示を出し、「代わる」とわたしと心臓マッサージを交代した。
「アドレナリン静注して!」
「はい!」
同期が救急カートから必要な薬剤を取り出し、颯太くんの腕に付いている点滴ラインの側管へシリンジを刺す。わたしは心臓マッサージをしている黒瀬くんの隣で「颯太くんしっかり!」と声を掛けることしかできなかった。
「カウンターショック持ってきました!」
「黒瀬先生!」
看護師と主治医の谷本先生が来てモニター心電図に目を向ける。
「心室細動か。チャージして」
心室細動。不整脈の一種であり不規則に心室がブルブルと震える状態を指す。この状態になると心室が正常に機能しなくなり、全身に血液供給を行えなくなる。全身への血液供給が行えなくなると、いわゆる心停止と呼ばれる状態になるのだ。
「チャージ完了しました!」
カウンターショックのパドルが谷本先生に渡される。わたしは黒瀬くんとともにベッドから離れた。パドルが颯太くんの右胸と左わき腹に当てられ、ボタンが押し込まれる。
颯太くんの体がベッドの上で跳ね上がった。
その場にいた看護師と医師全員がモニター心電図の液晶画面を注視する。しかし、正常な波形になることはなかった。
「くそっ」
黒瀬くんが舌打ちをする。
その後のことはあまり良く覚えていない。
覚えているのは、何度も心臓マッサージや電気ショックを続ける医師と看護師がいる中で、青白い顔をして目を開けない颯太くんと、泣き崩れる颯太くんのお母さんの姿だけだった。




