過去⑦
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二十五歳の十二月。初雪が観測されいよいよ冬になった頃。看護大学を卒業し国家資格も取得したわたしは、飛鷹総合病院の病棟看護師として小児科で働き始めて三年目だった。
「今日から小児科で一ヶ月間研修をさせていただきます黒瀬冬弥です。よろしくお願いします」
六年制の医大生の黒瀬くんとは四年制の看護科を卒業してから二年会ってなかったので、同じ病院でさらには同じ科で会ったときはかなり驚いた。白衣姿が異常なほど似合っていたのを今でも覚えている。院内回診で先頭を闊歩する姿が容易に想像できた。
「いつから研修医だったの? てっきり大学附属病院にいると思ってた」
「今年の春。大学病院よりここの病院の方が心臓病の症例が多かったから」
黒瀬くんは変わらずに循環器科医を目指しているようだった。わたしは循環器科を希望せず小児科へ希望を出してそこで働いていた。
「井上こそ小児科にいるとは思わなかった」
小児科を希望した理由なんて特にはない。ただ何となく心臓に関する科は嫌だった。多分夏樹を思い出してしまうからだと思う。
黒瀬くんが小児科病棟に研修医としてやってきて二週間。日勤だったある日、八歳の男の子が入院してくるということで、主治医は小児科の谷本先生、担当医は黒瀬くん、受け持ちはわたしになった。
「岡崎颯太です。よろしくお願いします」
八歳にして整った顔立ちに礼儀正しさを兼ね備えていた颯太くんは、他院で入退院を繰り返し、飛鷹総合病院に転院してきた子だった。元々先天性の疾患を持っていて、手術をするために来たようだった。
「夏樹と一緒の疾患だな」
昼休憩、社員食堂で一人黙々と鮭定食を食べていると、前に親子丼をトレイに乗せた黒瀬くんが座った。
「うん」
誰がとはお互いに言わなかった。
「手術するんだね」
「ああ。まぁ、この病院では何回もしてる手術だよ。井上は心配すんな。あの子の不安だけ取り除いてやって」
「うん」
黒瀬くんは常にわたしを気にしてくれていた。別にわたしが何か不安などを吐露したわけではなかったが、なんとなく緊張していたのが伝わったのかもしれない。夏樹と同じ疾患なだけで颯太くんは夏樹ではない。当たり前のことだが、言い聞かせないと颯太くんにも緊張が伝わってしまうかもしれなかったので、わたしは気合を入れた。
「あ、井上さんと黒瀬先生だ」
わたしと黒瀬くんが病室に顔を出すと、颯太くんは笑顔を見せた。担当看護師と担当医ということでしょっちゅう様子を見に来ていたわたしと黒瀬くんに、彼は懐いてくれた。
「検温の時間だよ」
「井上さんが来たから発熱しちゃったかも」
「どういう意味?」
「鈍感!」
はじめましての時は礼儀正しくていい子だなと思ったが、慣れるとキラーぶりを発揮していた。
「発熱したなら下剤入れなきゃな。ケツ出せ」
「井上さん、黒瀬先生の嫉妬心で、幼気な八歳の僕に攻撃してくるよぉ」
甘えたような声を出す颯太くんだが、とても八歳の言葉とは思えない。
「黒瀬先生、大人げないよ」
わたしが黒瀬くんに言うと、颯太くんは勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
「やーい怒られてやんのー」
「颯太くんも、からかわないの」
「やーい颯太も怒られたー」
「こーら」
シュンとうなだれる二人は、兄弟みたいで可愛かった。
手術二日前の午後十時、準夜勤だったわたしがナースステーションで作業していると「井上さん」と声を掛けられた。振り返ると、不安そうな顔をした颯太くんが受付に立っていた。消灯時間は過ぎていたので、ナースステーション以外の電気は消えていた。
「どうしたの?」
「……怖くなっちゃって」
普段は大人ぶっていたが、やはり八歳だった。黒瀬くんが『あの子の不安だけ取り除いてやって』と言っていた言葉の意味を、ようやく理解した。
「よし、じゃあ少し話そっか」
颯太くんは四人部屋に入院していたため、プレイルームに移動する。そこだけの電気を点け、二人で中に座った。向かい合わせに座ったが、颯太くんは周りを見て誰もいないのを確認すると、わたしの膝の上に移動した。
「怒る?」
「ううん。今日は特別」
頭を撫でると、颯太くんは気持ちよさそうに笑って静かに話し始めた。
「先生には『大丈夫だ』って言われたけど、今動いてるこの心臓を、少しだけ止めちゃうって聞いて、怖くなった。お母さんも帰っちゃったし、寝たら心臓が動いてるかなんて分かんないから、寝られなくて」
「うん」
「僕、いなくならない?」
不安げに見上げる颯太くんの頭を撫でながら、わたしは優しく微笑んだ。
「うん、大丈夫。今ちゃんとここにいるし、手術前と手術後、わたしが送り迎えしてずっとそばにいるから。安心して?」
「本当? 約束だよ?」
「うん、約束」
わたしは小指を颯太くんに差し出した。颯太くんは小さな小指をおずおずとわたしの小指に絡ませる。
ゆーびきーりげーんまん、と小さな声で歌う颯太くんの顔から不安の色は消えていた。
「井上さんとお話したら眠たくなっちゃった」
颯太くんはそのままわたしの膝の上に頭を乗せて、目を閉じた。
しばらくトン、トンとゆっくり颯太くんに触れていると、スース―と寝息が聞こえ始めた。わたしはようやくホッとする。




