過去⑥
◇
翌日夜九時。待ち合わせに指定されたのは三駅先の駅前にある小洒落たバーだった。ここの駅に降りるのもここのバーに来るのも久しぶりで、懐かしい感じがする。いつもは専ら騒げる居酒屋で飲んでいるので、バーなんて場違いな気がして気後れするが、大人の余裕を醸し出しながら重いドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
出迎えの挨拶から居酒屋とはまるで違う。薄暗い店内と穏やかな洋楽のBGMにすでに酔いそうになりながら、バーテンダーさんに小さく会釈すると、カウンターの奥から「井上」と声がした。
「黒瀬くん」
銀縁眼鏡にきっちりした黒いスーツ姿。濃い青と白のストライプのネクタイにはネクタイピンが着いており、バーの雰囲気と相まって様になりすぎていた。これで同い年というんだから世の中不平等だ。隣の丸椅子に腰掛けるが、つま先を立てないと床に届かなかった。
「あれ、なんでスーツ?」
「当直からの日勤からの学会帰り」
「うわーごめん。疲れてるよね? 別日でも全然よかったのに」
「井上の顔見たら疲れ飛んだ」
それに明日休みだし、と微笑まれて不覚にもドキッとした。元々キザっぽかった節はあったが、東京に来てから黒瀬くんのキザっぷりには拍車がかかった気がする。多分田舎で暮らすよりも都会の方がしっくりくるタイプだったんだと思う。わたしはきちんと郷に入れているのだろうか。
「ジントニックとグラスのシャルドネで」
黒瀬くんは慣れた口調でバーテンダーさんに注文した。
「うわ、カクテルなんて久しぶり」
「ビールの方がよかった?」
「ううん。カクテルが良い」
ビールは昨日飲んだとは言いづらかったし、この雰囲気でビールは飲みづらい。しかもせっかくバーに来たのにカクテルを飲まないなんて勿体ない気がした。目の前でバーテンダーさんがシェイカーを滑らかに振る。
「つーか、二年ぶりくらいだよな」
「そうだね。あれ、もう研修医じゃないんだっけ?」
「そうそう。今年から専攻医として循環器科で働いております」
「おお、おめでとうございます」
お互いに小さく頭を下げる。
「こちらジントニックとシャルドネでございます」
バーテンダーさんがカクテルとワインをそれぞれの前にそっと置いてくれた。大きめの氷数個にシュワシュワと炭酸の泡が上がり、コップの淵にライムが添えられて見るからに涼しそうだ。
「お疲れ」と黒瀬くんがワイングラスを軽く持ち上げたので、同じようにロンググラスを持ち上げた。
「お疲れ様」
口に近付けるだけでライムの爽やかな香りが鼻孔をくすぐる。一口飲めばほのかな苦みと甘味が舌で感じられ、炭酸の爽快さが心地良い。ぷはぁ、と言えないのが残念。
「ずっと飛鷹総合病院?」
「そう。井上とは小児科で一緒だったよな」
「そうだね」
小児科という単語を聞いただけで二年前の出来事を思い出してしまう。心臓が抉られるような痛みを感じて、わたしはゆっくり深呼吸した。黒瀬くんは「元気だった?」と優しい口調で訊いてきた。
「うん。建築会社の経理部で頑張ってるよ」
黒瀬くんはワイングラスを傾けた。
「そっか。で、どうした? 何か用があって二年ぶりに連絡くれたんだろ?」
「あー、別に用があったわけじゃないけど、一応言っとこうと思って……」
正直めちゃめちゃ言いづらいけど、こうして時間を割いてくれてるので意を決して言う。
「今、夏樹と同じ会社で働いてる」
黒瀬くんの動きが止まった。店内には静かに洋楽が流れている。わたしは手元のグラスに視線を落とした。
「わたしが今の会社に入る前から広島の支社で営業として働いてたみたいで、異動で本社に来て、バッタリ、会った。家も、隣、だった」
最後は歯切れが悪くなる。なんでこんなに緊張しているのか自分でも分からない。クーラーの効いた店内は適温だが、額に汗が浮かんでいるような気がした。
「それでね、四人で同窓会がしたいって、言われた」
「…………」
コトンと音を立ててテーブルにワイングラスが置かれた。黒瀬くんはそれを見つめたままボソッと呟く。
「今更だな」
落ち着いてはいるが低い声だった。怒っているようにも聞こえる。わたしは「だよね」と肩を落とした。
「てか夏樹営業なの? 設計じゃなくて?」
黒瀬くんに言われて初めて気が付いた。確かにロボットを作りたいと言って理工学部へ進学したのに、なぜ新卒から営業で働いているのだろう。
「確かに……疑問に思わなかった」
「ま、どーでもいいけど」
黒瀬くんはそう言うと、残りのワインを一気に呷った。口元に付いたのか、手の甲で乱暴に拭う。
「俺、夏樹には会わないよ」
「……なんで?」
「夏樹と井上が一緒にいるところ見たくない」
「え」
「井上は今、彼氏とかいんの?」
黒瀬くんは頬杖をついてこちらを見た。眼鏡のレンズにわたしが映る。わたしはライムを絞りながら言った。
「ううん、いないよ。黒瀬くんは彼女は?」
相手に聞かれたらこちらも聞かないといけない気がして、何気なく聞いたつもりだった。
「…………」
黒瀬くんは無言でわたしを見る。え、なんで答えないの? いたたまれなくなってジントニックを一口飲むと、黒瀬くんは静かに口を開いた。
「二年前、俺は井上を止めることが出来なくて、もう終わりだって思ったんだ」
「黒瀬くん、その話は……」
掘り返されたくなくてやんわり首を横に振るが、黒瀬くんは構わず続けた。
「今でも後悔してるんだ。もっと井上に寄り添えばよかったって」
後悔。その言葉がわたしの胸に刺さった。
黒瀬くんはずっと感じなくてもいい自責の念を持ちながらこの二年を過ごしていたんだ。
そう思うと、わたしは息苦しくなった。ゆっくりと息を吐き、呼吸を整える。早くこの人を自由にしなくては。
「……わたしは、黒瀬くんには感謝してるよ」
あの時、黒瀬くんがいなければ今のわたしはいなかったかもしれない。
思い出すのも憚られる、二年前の出来事──




