過去④
しばらく何かを考えていた小西くんだったが、チャームポイントの二本の犬歯を見せて「ささ、食べましょ」とサーモンが乗ったお皿を差し出してきた。
「あ、うん。ありがとう」
小西くんはそれ以上前職について聞いてくることはなかった。ホッとした半面、あれだけの説明でわたしの過去を知った風になってもらっても困る。でもこれ以上聞かれても答えたくないので、わたしも何も言わなかった。他の話題を振る。
「小西くんは経理部で困ってることとかない?」
「いや、みんないい人たちばかりなんで、特に困ってはないですけど……」
「なんでよ困ってよ。たまには先輩面させてよ」
「たまにでいいんすか。井上さん面白すぎでしょ」
くだらない話やくだらない話やくだらない話で盛り上がり、解散したのは午後九時だった。三時間も後輩二人と飲んで食べたが、話がメインになっていて三杯しか飲んでいなかった。
小西くんは本当におごってくれて(お手洗いに行っている間に支払いを済ませるという粋なことをしやがった)それならもっと飲めばよかったと後悔した。まぁ楽しかったからいいか。
小西くんとは家が反対方向なので魚蔵家の前で別れて、アパートに帰ってきた。飲み屋街のある駅前から徒歩十五分。車を必要としない生活を自分が送るなんて、高校を卒業するまで思ってもみなかった。
「えーと鍵鍵……」
カバンの中に入れた家の鍵を探していると、誰かが階段を上る音が聞こえた。足音が近付く。
「春香?」
ジャケットを腕に掛けた夏樹だった。十年ぶりに好きだった人に会うなんてのも、思ってもみなかった。
「まだ忙しいん? 経理部」
「ううん。今日は後輩と飲みに行ってた」
「あー、明日公休か」
鍵を見つけたので鍵穴に差し込む。その言いようだと夏樹は出勤なのだろう。営業は会社休みの土曜日も出勤することがあるようだ。
「じゃあ、おやすみ」
ドアを開けて部屋に入った。週末だから疲れた。シャワー浴びてとっとと寝よう。手探りで玄関の電気を点けてドアの方を振り向くと、電柱が立っていた。ヒッと声にならない音が喉から出る。
「ちょっと、怖いんだけど!」
「あ、ごめん」
幼馴染とはいえ妙齢の女性宅に無言で入って来ないでほしい。まぁ女として見られてないってことなんだろう。わたしははぁ、とため息をついた。
「なに? 幹事ならやらないよ」
昔から耳と尻尾を下げている夏樹を見ると、手を差し伸べたくなる性分だったが、なるべく夏樹と距離を置きたくて突き放した。『春香はもう必要ない』と暗に言われたあの日から、わたしは夏樹への想いに蓋をしたのだ。今更頼られても困る。夏樹は小さく首を横に振った。
「ひとつだけ聞きたくて」
「なに?」
首を傾げて促すと、夏樹はためらいがちに口を開いた。
「上京してから、冬弥に会った?」
名前を言われてドキンと心臓が跳ねた。同時に彼の言葉を思い出す。
『俺はこんな形で看護師を辞めさせるために井上を東京に誘ったんじゃない!』
「……会ったよ」
ここで嘘をついても仕方ないので正直に答える。東京は思ったより狭く、黒瀬くんとは幾度か会っていた。
「でも、当分会ってないかな」
ある時を境に会うことはなくなった。黒瀬くんが今どこで何をしているのか、何となく分かるけど確かかどうかは分からない。それくらいには会っていなかった。
「そっか」
その答えで満足してくれたのか、夏樹は「ごめんな、ありがとう。おやすみ」と言って自室に帰っていった。
今のごめんは何のごめんだろうか。驚かせたことに対しての謝罪? 再会してから夏樹はわたしに謝ってばかりのような気がする。
黒瀬くん。
口の中で呼んでみる。
わたしはスマホをカバンから取り出し、電話を掛けた。数回のコール音の後『もしもし』と低い声が応答した。
「忙しいのにごめんね。明日、時間ある?」




