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春夏秋冬カルテット  作者: 音吹
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過去①

 忙しい月初めを乗り越えて、一週間が経った。夏樹ともあれから会うことはなかった。もともと四ヶ月間もお互いに気が付かなかったのだから、会うことの方が珍しいのかもしれない。


 午前八時半。身支度を終えさぁ出発するかとテレビを消した時、ピンポーンと呼び鈴が鳴った。こんな朝早くに誰だろうとモニターを確認すると、スーツ姿の隣人だった。


『おはー! 一緒に出勤しようで!』


「……宗教勧誘なら間に合ってます」


『違う違う、家買いませんか』


 モニターを切って玄関を開けると、夏樹は「よっ」と軽く手を挙げた。着崩していないスーツ姿を見るのは初めてだった。なんとなく着られている感が否めない気がする。多分童顔のせいだろう。三階建てのアパートにはエレベーターがないので階段で下りる。歩道に出ると、街路樹から蝉が起きたてのような声で鳴き始めた。


「営業もこの時間の出勤なの?」


「いや、いつもはもう一時間早く出るけど、昨日残業したけぇ今日は遅くても大丈夫」


「ふーん」


 自宅から会社まで徒歩十分と田舎ではありえないような好立地に住んでいた。少し歩けばコンビニもあるし、地下鉄もある。つくづく都会っていいよなぁと思わせる。


 横断歩道の信号に引っかかった。色々な人が同じように信号待ちをしている。高校生、サラリーマン、OL、犬の散歩中の婦人、スポーツ自転車に乗った人。その中の一人に混ざれていることに、ひどく安堵した。喧噪の中で生きていることを実感し、確かめる。わたしはちゃんとこの中にいる。隣で前を見ている夏樹もまた、ちゃんと存在している。それだけでホッとした。


 信号が青に変わり、一斉に渡り始める。前からも後ろからも人が来るが、ぶつかったりはしない。慣れない頃は縮こまって何度も「すみません」と繰り返していたが、堂々としていればいいと気付いてから衝突することはなくなった。


「経理部って楽しい?」


 横断歩道を渡り終えて会社のビルが前方左側に見えたとき、ポツリと夏樹が聞いてきた。質問の真意は分からなかったが、わたしは素直に答えた。


「仕事は楽しくないことばかりだけど、いい人たちばっかりだからそれなりに楽しいよ」


 数字ばかり見ながらパソコンに打ち込んだりしているので、金額をただの数字でしか捉えられなくなった。百円も百万円も安いのか高いのか分からない。そんな楽しくない仕事を楽しくやれているのは、やっぱり経理部六人が和気藹々としているからだと思う。後ろの財務部なんか一人が怖いお局さんだとかで、人がしょっちゅう入れ替わっていた。


「そっか」


 階段に差し掛かった。たくさんの人と同じ会社への階段を上っていく。


「なぁ、方言っていつ抜けたん?」


 わたしの方が二段早く上がっていたので、後ろから唐突にそう聞かれて立ち止まった。


「大学入ってわりとすぐだったかも」


 同期が東京の人たちばかりだったし、方言で喋るとからかわれることもあったので、早めに方言を封印した記憶がある。夏樹は同じ段に立ってわたしを見下ろした。


「なんか、寂しいわ」


 それだけ言ってまた階段を上り始めた。


 方言が抜けた頃、母と電話で話した時も同じような事を言われたことがある。そうやって帰って来んくなるじゃね、と言われてどう返したかはもう覚えていない。全てが過去になっていることは確かに寂しいことかもしれない。


「夏樹」


 階段を上り終えたとき、前を歩く夏樹の背中に声を掛けた。振り返ると同時に茶色に染められた猫っ毛が揺れた。


「なに?」


「ほかに何か言いたいことがあって同じ時間に出勤したんじゃないの?」


 もともと十八年間一緒に過ごしてきた幼馴染のことは、十年も会っていないがなんとなく分かる。今日の夏樹は本題を隠しているような口振りだった。夏樹は立ち止まり、イタズラがバレた子どものように小さく笑った。


「さすが。春香には隠し事出来んね」


 わたしは左腕に着けた腕時計を見た。時刻は八時四十分。長話できる時間はない。夏樹も同じように自分の腕時計を確認して言った。


「率直に言うと、四人の同窓会の件、一緒に幹事して欲しい」


 覚醒した蝉の鳴き声が耳に届く。わたしははっきり答えた。


「……無理、他当たって」


 わたしはスタスタと歩き出した。後ろから「もう待ち伏せせんけぇ考えてみてや!」と方言丸出しで叫ばれた。他人のフリ他人のフリ。薄情なわたしは夏樹を置いて会社の自動改札を抜け、開いていたエレベーターに「乗ります!」と乗り込んだ。


「あっ! ちょ、春香っ!」


 扉が閉まり、間に合わなかった夏樹を置いて、エレベーターは上昇した。ざまあみろ。


 四階で何人か降りた中に、理佳子先輩がいた。今日も見目麗しいお姿だ。心の中で合掌する。


「理佳子先輩、おはようございます」


「おはよう井上ちゃん。さっき乗れなかった人、この間の幼馴染?」


「いやー、一緒にならなくてよかったです。あんなのと一緒に乗ったら理佳子先輩が(けが)れちゃう」


「なにそれ」


 理佳子先輩はクスクスと笑った。その左手薬指の指輪が眩しい。


「あ、井上先輩! おはざまっす! ちょっとコレ教えてください!」


 経理部区画へ行くと朝から元気な小西くんが、自席のパソコンを見ながら紙切れをヒラヒラさせた。


「おはよ。なになに~……」


 今日も猫本建設工業本社、経営管理本部経理部での七時間四十五分のお仕事が始まった。


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