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春夏秋冬カルテット  作者: 音吹
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四角関係③

 その思いが揺らいだのは、夏休みの補習中だった。国公立志望の人たちを対象にした、受けたい人が受けられる試験対策の補習で、夏樹と参加していた。留学する秋菜と予備校に通う黒瀬くんは不参加だった。わたしはA判定をもらっていたが、みんなが頑張っているのでわたしも受けていた。


 その日は昼から参加予定で、夏樹も病院に行ってから来ると言っていた。早めに学校に着いてしまったので、自習室として開放されていた一年二組の教室へ行ったが誰もいなかった。クーラーがついていて教室は天国のように涼しい。他に行くところもないので、窓際の一番後ろの席で問題集をペラペラとめくって時間を潰していた。


 窓の外のグラウンドからは熱気が見え、ジーワジーワと鳴く蝉の声がより一層暑苦しく感じさせる。喉の渇きを覚え家から持ってきた水筒の麦茶を一気飲みすると、教卓側のドアがものすごい勢いで開かれた。


「春香! 朗報じゃ!」


 ひとりの男子生徒がズカズカと入ってきて、わたしの前までやって来た。その顔は満面の笑みで、思わず眉をひそめた。


「夏樹。どしたん?」


 すると夏樹は「なおったんじゃって!」と自分の心臓辺りを指差し、ワントーン高めの声でそう言った。


「は?」


 最初、意味が分からなかった。何がなおった? 制服のボタンでも取れていたのだろうかと思った。反応が薄かったのか、夏樹はじれったそうに「だーかーらぁ」と机を軽く叩く。


「俺の心臓、完治したんじゃって!」


「……え?」


 きちんと聞いても理解できなかった。夏樹の心臓が完治した? 難病が? え、どういうこと?


「あれ? 喜んでくれんのん?」


 思った反応と違ったのか、夏樹は首を傾げた。


「いや、嬉しいんじゃけど、ちょっと、分からん」


 わたしは一生懸命頭を働かせた。先天性の難病で『長くは生きられないかもしれない』と言われ、激しい運動をすれば発作が起き、何種類もの薬を服用している心臓病。それが急に完治するとはいったいどういうことだろう。


「俺、嬉しくてさぁ。芹澤と冬弥にも伝えんと」


 夏樹がスマホで電話を掛けている間、わたしは夢でも見ているんじゃないかと思った。だって、普通にあり得ないのだ。手術を迫られたこともあった病気で、それはなんとか免れたが、またいつどうなるか分からない病だった。完治するなんて現実であるはずがない。


「もしもし冬弥? あのさ、心臓の病気なんじゃけど……いててててっ」


 夏樹の頬を思いっきり引っ張った。ベタだけど、これ以外夢か現実かの判別方法を知らなかった。


「何すんじゃもう……あ、ごめんごめん。なんか春香にほっぺた引っ張られてさぁ。あ、そう、で、心臓の病気、完治した」


 部屋の温度は適切なはずなのに、冷や汗が背中を伝う。


 え? だからぁ、と言う夏樹の声も外から聞こえる蝉の声も全てが遠くで聞こえた。


 この時の感情はあまりよく覚えていない。嬉しいはずなのにどこかでショックに感じていた気がする。看護師になりたいと思わせてくれたのは夏樹で、夏樹のそばにいるために看護師になりたいと思ったのも事実で、不純な動機だとは分かっていたけどそれ以外目指せるものはなかった。病気が完治したということは、すなわち、看病する必要はないということで。


 ──春香はもう必要ない。


 遠回しにそう言われた気がした。


 その日の夜、わたしの家に黒瀬くんが来た。予備校帰りらしく、黒い大きなリュックを背負っていた。とりあえず部屋に上がってもらった。


 丸いローテーブルを挟んで向かい合わせに座る。黒瀬くんはわたしのお母さんが入れてくれた氷入りの麦茶を一口飲むと、口を開いた。


「夏樹のあれ、どう思った?」


 あれと言うのはその日の発言のことだということはすぐわかった。


「嘘はついてないようには思えたけど、信じられんかった」


 夏樹は手放しで喜んで色んな所に電話を掛けていた。あれが嘘だとは到底思えない。


「でも、有り得んじゃろ、治るなんて。どこのヤブ医者じゃって話よ」


 黒瀬くんの言うことも分かる。誤診じゃないか、とも思ったけど。それよりもわたしが思ってしまったのは。


「……もう、近くに()ったらダメなんかな」


 呟くつもりなんてなかったけれど、声になって鼓膜を震わせた。心を許した黒瀬くんという幼馴染が目の前にいたからかもしれない。黒瀬くんは驚いたようにわたしを見た。


「井上……」


「なんかさ、夏樹にもう必要ないって言われたみたいで、どうしたらいいんか分らんくなった」


 開いた窓から夏の虫の鳴き声がした。微かに吹いた風が、乾いた夏の田んぼの匂いを連れてくる。麦茶の入ったコップの氷がカランと音を立てた。


「……じゃあ、俺と一緒に東京行かん?」


 銀縁眼鏡の奥の瞳がわたしを捉える。


「ここから……夏樹から、離れようや」


 夏樹から、離れる。


 生まれた時から隣の家で、クシャッとした顔で笑う夏樹が大好きで、でも夏樹は秋菜が好きで、わたしが看病したくて看護師を目指して、でも夏樹は秋菜が好きで、秋菜は海外に留学して、でも夏樹は秋菜が好きで、そんな夏樹を好きなわたしはもう必要なくて。


 夏樹への想いに、蓋をする。ついでに鍵も掛ける。


 ……わたしは、ゆっくりと頷いた。


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