表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

静愛(超短編 800文字)

作者: いのそらん


 私の母は今年で九四歳であり、認知症もかなり進行していた。そんなためか、母は周囲のことには殆ど関心を示さず、ホームの天井を眺めて一日の大半を過ごしていた。母が関心を示すのは、いつも腕にしている腕時計だけであった。痩せてこけて力のない母であったが、誰かが時計を外そうとすると、驚くべき力で抵抗をみせるのだ。時計そのものは、高級でもなく、古物としての価値もない。なんの変哲もない腕時計だ。そして、何よりもう時を刻む事はなかったのだ。

 母に頼まれ一度だけ修理に出した事があったが、結局、直る事はなかった。私が知る限り母が一時でもそれを手放したのは、この時限りであった。その腕時計は父の物だった。

 父は、もう三〇年も前に他界していた。厳格で何事にも妥協をしない父に、母は常に苦労ばかりさせられていた。そんな2人の間に愛など欠片も無いように思えた。父は生前、母の誕生日や、結婚記念日を祝ったことはなかったし、そもそも母に何か贈ったところさえ見た事がない。だが、そんな父が死ぬ直前に母に手渡したのがその腕時計だったのだ。

 施設に預けた当初は、よく足を運んだが、最近は娘に孫が生まれた事もあり、めっきり足が遠のいてしまっていた。今日は、私の六七歳の誕生日だ。そう、父が死んだ歳を迎える。私は、久方ぶりに母の元に足を運んだ。

 私が母の個室に入ると、母はゆっくりと振り向いて私の顔を見つめた。そして、急に満面の笑みを浮かべたのだ。母は笑顔まま、細いその指で腕時計をゆっくりと外すと、

「あなた・・・」

 そう言って、私に差し出した。あっけにとられながら腕時計を受け取ると、母は笑顔のまま目を閉じ、その頬を一筋の涙が伝った。

 二時間後、母は静かに息を引き取った。

 私は母の葬儀の際に、この時計を一緒に燃やしてもらおうかと何度も悩んだが、結局時計は今も私の礼服のポケットで眠っている。



フィクションです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 介護の会社で働いています。自身の現場を経験しています。とても心に響きました。他のスタッフにも教えてあげたいと思います。 [気になる点] 痴呆症は、今は使ってよいのかなと思いました。物語なの…
2021/07/30 09:09 退会済み
管理
[良い点] もう一つの作品も読んでいますが、短編が追加されたので、サイドストーリーか何かと思って、読んでみましたが、驚きました。思わず泣きました。ミゥちゃんの活躍も楽しみにしています。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ