静愛(超短編 800文字)
私の母は今年で九四歳であり、認知症もかなり進行していた。そんなためか、母は周囲のことには殆ど関心を示さず、ホームの天井を眺めて一日の大半を過ごしていた。母が関心を示すのは、いつも腕にしている腕時計だけであった。痩せてこけて力のない母であったが、誰かが時計を外そうとすると、驚くべき力で抵抗をみせるのだ。時計そのものは、高級でもなく、古物としての価値もない。なんの変哲もない腕時計だ。そして、何よりもう時を刻む事はなかったのだ。
母に頼まれ一度だけ修理に出した事があったが、結局、直る事はなかった。私が知る限り母が一時でもそれを手放したのは、この時限りであった。その腕時計は父の物だった。
父は、もう三〇年も前に他界していた。厳格で何事にも妥協をしない父に、母は常に苦労ばかりさせられていた。そんな2人の間に愛など欠片も無いように思えた。父は生前、母の誕生日や、結婚記念日を祝ったことはなかったし、そもそも母に何か贈ったところさえ見た事がない。だが、そんな父が死ぬ直前に母に手渡したのがその腕時計だったのだ。
施設に預けた当初は、よく足を運んだが、最近は娘に孫が生まれた事もあり、めっきり足が遠のいてしまっていた。今日は、私の六七歳の誕生日だ。そう、父が死んだ歳を迎える。私は、久方ぶりに母の元に足を運んだ。
私が母の個室に入ると、母はゆっくりと振り向いて私の顔を見つめた。そして、急に満面の笑みを浮かべたのだ。母は笑顔まま、細いその指で腕時計をゆっくりと外すと、
「あなた・・・」
そう言って、私に差し出した。あっけにとられながら腕時計を受け取ると、母は笑顔のまま目を閉じ、その頬を一筋の涙が伝った。
二時間後、母は静かに息を引き取った。
私は母の葬儀の際に、この時計を一緒に燃やしてもらおうかと何度も悩んだが、結局時計は今も私の礼服のポケットで眠っている。
フィクションです。