三方ヶ原の真実
第1章 歴史的事実~三方ヶ原の戦い~
元亀3年(1573)の三方ヶ原の戦いは、徳川家康の勝利に終わった。5万余りの軍勢を率いた武田信玄は三方ヶ原台地にて徳川家康を浜松城から誘い出して撃滅せんとしながらも、8千余りの軍勢を率いて北上した徳川家康ら三河武士の勢い凄まじく、本陣を崩され信玄が負傷すると敗走を余儀なくされる。徳川家康は撤退する武田軍を追うことはなく浜松城へ帰還。信玄は三方ヶ原での傷がもとで帰国途中に死去した。
「…というのが、歴史上の史実である。」
「先生。なぜ8千余りの徳川軍が5万余りの武田軍を、しかも、有利な布陣でいた武田軍を破ることができたのでしょうか?」
「それは、一般的に武田信玄が徳川軍を小勢と思い油断していたことから決死の覚悟で武田軍の本陣に突撃をかけた徳川軍の勢いを止めることができず、その乱戦の中で信玄が負傷してしまったことが要因だと言われています。実際、徳川軍も武田軍を追撃する余裕はなく、浜松城へ帰還しています。」
「そして、信玄から勝頼へ代変わりするわけですか。」
「そういうこと。」
「信長は信玄死去の報せを知って武田領へ攻め込まなかったのですか?」
「それは、まず信玄死去が帰国途中のことであり、その死は堅く伏せられたこと。武田方は信玄が死去したものの他の軍勢は壊滅したわけではなく、ほぼ無傷のまま残っていたこと。その頃、織田信長は畿内、北陸の浅井、朝倉との戦いで信濃方面へ割ける軍事的余力がなかったことが要因ね。実際に浅井、朝倉を滅亡させたあと、1575年には遠江国に侵入してきた武田勝頼を長篠で徳川家康とともに迎え打っているわ。」
「それじゃあ、今も静岡県の浜松市を中心に残っている家康敗走説はどうなんでしょうか。」
「それは史実とは言えない言い伝えね。」
「本当にそうでしょうか。」
「どの歴史書も三方ヶ原の戦いは家康の勝利…、まあ勝利は誇張だとして武田の敗走と記してあるわよ。まあ当時、家康の城下町であった浜松市でなぜわざわざ自分たちの領主の負けた話が流布しているのかと言うのは民俗学的におもしろいとは思うし、あなたもその方面で卒論を書いたらどうかしら?」
「考えてみます。」
「あと個人的に聞くのだけど、就職活動はうまくいっているの?」
「ノーコメントです。」
「まったく。研究熱心なのもいいけど、自分の将来のことにも興味をもちなさい。」
「はい。」
第2章 歴史的考察~静岡県浜松市一帯における家康敗走伝説~
遠江国(静岡県西部地方)はかつて徳川家康が浜松城を居城とし治めていた。三方ヶ原の戦いも家康在城中の元亀3年(1573)に起こった。その戦いは徳川家康の勝利とまではいかないまでも、徳川軍の決死の突撃による武田信玄の負傷から武田軍を撤退に追い込んだ。
しかし、静岡県浜松市付近には家康が当時の領主であったにも関わらず、三方ヶ原の戦いで徳川家康は敗北して命からがら浜松城へ逃げ帰ったという逸話が広く流布している。それは何故であろうか。具体的な家康敗走伝説は次の通りである。
「…か。これらの出典はメモしてある?」
「はい。主に正史と言われるものではなく、伝承記録が主ですが。」
「それならいいわ。第2章はそれら民間伝承を紹介して終わりね。」
「そうですね。」
「こういうのなら得意じゃないかしら?」
「まあ…。羅列するだけですから。」
「個々の伝承に対する考察を入れてもいいけど、そうすると全体のまとまりがなくなるから、ここは紹介するだけにして、次の章で、三方ヶ原の戦い全体の考察として、その材料にするのがよさそうね。」
「はあ。」
「とりあえず、ここは紹介するだけでいいってこと。」
「分かりました。」
「ゼミの合宿は参加するんでしょうね。」
「いちおうは。」
「息抜きにも参加することをおすすめするわ。」
「うん。」
「きみ、気になる女の子とかいないの?」
「えっ?」
「ちょっと心配なのよね。教員がこんなことを聞いてはいけないのかもしれないけどね。とりあえず合宿には参加しなさい。」
「分かりました。」
第3章 個人的考察~三方ヶ原の戦い~
「ゼミの中では誰がいちばん年上なの?」
「誕生日が早いだけだろう。」
「合宿どこ行くのかな?」
「浜松って言ってたよ。」
「どこ浜松って?」
ゼミの卒業旅行をかねての合宿は静岡県の浜松市になった。それが先生の差し金かどうかは分からない。しかし、とりあえずわれわれは浜松市に来た。宿は中心部から離れた郊外のところだった。
「明日はここから駅まで、要所要所を観ながら行くわよ。」
先生はスパルタだった。宿での夜、明日のコースを書いた地図をもらった。その予定だと三方ヶ原も通ることになっていた。
「今日は早めに寝なさい。でないと明日きついよ。」
先生はそう言ったが、休む者は一人としていなかった。
翌日。天気は快晴。
「さあみんな。行くわよ。」
そう言うと先生は歩き出した。道路は延々と続いている。途中、寺などの観光名所を散策していく。町並みはわれわれが住む町とたいして変わることなく続いている。
「小休止。」
それは、土産物を売っているお店の軒先であった。観光客用のベンチが置いてある。みなそこに座り、自動販売機で飲み物を買う者もいた。先生は他のゼミ生と話している。どうやら就職活動の報告らしかった。僕は昨晩、宿で買って冷たくなったペットボトルのお茶を飲んだ。
「もうすぐ、三方ヶ原を通るわよ。」
いつのまにか先生が隣にいた。
「卒論の参考になるといいわね。」
この時期、たいていの学生たちは卒業論文はおおかた書き終えてしまい、就職活動に力を入れていた。僕は卒業論文も就職活動もまだまだだった。
「これから先は浜松城を目指すわよ。」
先生が歩き出した。
約450年前、武士たちが争った台地は今では耕作地と住宅街になっていた。
「この赤い土が三方ヶ原台地の特徴よ。洪積台地と呼ばれるローム層ね。あの畑を見て。土が赤いでしょう。」
先生が指さした大地は赤というよりオレンジ色をしていた。われわれはバスで浜松城へ向かった。城は天守が復元されて資料室になっている。展示を見終えて、外に出た。
「駅まで歩くわよ。」
駅に着いたとき、あたりは夕暮れであった。夕日が眩しかった。みなは疲れた顔で切符を買う。ホームで電車を待つ時間が疲労を加速させた。電車内ではみな無言だった。当然、他の乗客もいた。電車が発車するときはちょうど夕日が沈むところであり、眩しさが一際際立った。夕日の光が目を閉じた僕の瞼の上から、そのオレンジ色の光を透してくる。光の奥にはオレンジ色に光る三方ヶ原の大地があった。大地の上には450年前の武士が立っていた。三方ヶ原の戦いは旧暦の12月22日のことであった。その日の夕刻、家康は信長の援軍とともに城を出て、三方ヶ原に向かった。武田軍は既に三方ヶ原に布陣をしていた。不利な城攻めを避けて家康を三方ヶ原に誘い出す作戦だった。家康はそのことを知っていたのだろうか。そのことを知りつつも甲斐の虎が率いる精鋭に挑んだのだろうか。
歴史上では家康は自分の不利な状況を知りながら、何重にも囲われた兵の束をその中心にいる甲斐の虎目がけて突撃していった。武田の精兵たちはその勢いに飲み込まれながらも蟻のごとく群がる三河武士たちを取り囲み取り囲みし討ち取っていく。その中で、徳川の将、本多平八郎忠勝が武田の囲みを切り崩し、ぱっと檻が空いたその隙に虎目がけて走っていった。檻はすぐに閉じられてしまったが、その一瞬間の内に忠勝の将兵たちは虎に瀕死の傷を負わせていた。それを知ってか知らずか今まで意味もなく群がってきた徳川の武士たちは一斉に歩を返し、夜の闇の中を浜松城へ向けて去っていく。その中で討ち取られた武士たちは数え切れなかったが、夜が明けた頃には武田の兵たちは三方ヶ原の大地から姿を消していた。
しかし、オレンジ色の光の中で、僕が見た光景はそうではなかった。元亀3年12月22日夕刻。微々たる織田の援軍(信長は大軍を寄越す力はなかった。)とともに徳川の将兵たちは城を出て、三方ヶ原に向かった。三方ヶ原には既に武田軍が有利な状態で布陣をしていた。家康は自分が誘い込まれたのを知った。そのとき、家康は死を覚悟したが、彼の傍の三河武士たちがそれを許さなかった。彼らは自らを家康と偽り、本物の家康には浜松城へ逃げることを勧めた。武田軍はそれらを覆い尽くすように討ち取っていった。薄らと積もった雪の上に徳川の将兵たちの真っ赤な血が流れていった。多くの兵がこの世を去ったが、家康は浜松城に着くことができた。このとき、多くの逸話がこの赤く、オレンジ色をした大地に生まれた。それらはそこに息つく人々を通して、家康敗走伝説として語り継がれていった。信玄は浜松城へ逃げ帰った家康は相手にせず、先の道を急いだ。しかし、その途上、病に倒れた。武田軍は国へ帰ることになった。
第4章 結論~三方ヶ原の戦いの真実~
「みんな目を覚ましなさい。これから打ち上げよ。」
先生がみなを叱咤した。われわれはもといた土地に帰り、これから予約してある店に向かう。
次の日、僕は気持ち悪くて一日中寝ていた。合宿が終わってから7日後、僕は完成した卒業論文を持って先生の研究室を訪ねた。
「それじゃあ三方ヶ原の勝利は後の徳川幕府が作りだした虚構ということ?」
「はい。しかし、実際に戦いが起こった地元では人々の間に真実が記憶されて、それが現在の家康敗走伝説につながっています。」
「でこれはなに?」
先生は論文の最後の一文を指した。そこにはこう書かれていた。「それらには一切証左はなく、ここに書いたものは私個人の仮説に過ぎない。しかし、やがて偽りはほころび、真実がおもてに出ると私は信じている。」
「これはあなたの感想?」
「はい。」
「…。」
先生はしばらく黙っていた。
「まあいっか。あくまで仮説だし。いくら後の幕府が隠したからといって、当時の徳川幕府以前の正史にまで、徳川家康の勝利が偽って記録されているはずはないと思うけどね。」
先生はそう言うと受領印を押した。
「さあこれで就職活動に専念できるわね。でももう残ってるのはほとんどないかなあ。」
先生は窓の外を眺めた。そこにはオレンジ色の夕日が眩しいほどに映っていた。それがあまりにも眩しかったのか、先生はすぐに夕日を背にした。自然と目があった。
「これからどうする?」
先生が聞いた。その目には夕日の眩しさからかそれとも他の理由からかうっすらと涙が覆っていた。僕の目も涙がじわっとが覆いはじめた。それは夕日のせいなのだろうか、それとも他の理由からなのかは分からなかった。しかし僕はそのオレンジ色に光る先生の涙を見つめながら言った。
「先生、実は…。」