第8話:サムデイ・ワンデイ
男子教室の中、授業が始まるや否や、ガタリ、と椅子がずれる音が響いた。
ブライアンが何の前触れもなく立ち上がったのだ。
「どうしました、ミスタ・バーデンベルク」
「すみません、ジョーンズ先生。急用ができました」
「ふむ?」
教室が騒めく。
ブライアンは立ち上がり、つかつかと窓の方へと歩む。
「理由は?」
「我が婚約者に不測の事態が」
制服のジャケットを脱ぎ捨て、窓際にいる生徒に渡す。
「頼んだ」
「おいおい、ブライアン」
渡したのは銀のボタンの縫い付けられたジャケット、監督官の証と言えるようなもの。
ブライアンは窓を開けると立ち幅跳びをするように屈み込む。左足首、ズボンの裾からカチリという音と蒸気が漏れる。
彼は次の瞬間には窓の外へ。
窓に駆け寄った生徒たちが見たのは、3階の高さから着地して何事もなかったかのように走り去るブライアンの姿であった。
「ふむ、ブライアンは早退……と。監督官代理はゴードン君か」
「先生、良いのですか?」
「これがサボりだとしたら大問題だろうとも。監督官が窓から脱走したなんてセント・アマネー始まって以来の珍事ではないだろうか。
ただそうだね。実際に彼の婚約者、ミス・ボーデンだったか。彼女に問題が発生しているならだ。何を置いても女性の元に駆けつける彼の姿勢は紳士として模範的であろうよ。さ、授業に戻ろう」
ブライアンは校舎を抜け、並木道を走る。
ベアトリクスのくれた左脚は、普通の脚としての機能以上に加速や衝撃に対して優秀である。だが、彼女にも伝えていないもう1つの機能がある。
それはベアトリクスの居場所がなんとなくわかるということ。
今、彼女は明らかに校舎の外にいる。授業ではなく、授業で教師に命じられ何かを取りに行くなどあったとしても決していかないであろう位置。
「あちらは噴水か……?」
裏門へと向かう小道、そこからさらに少し外れた位置にある噴水。
こちらに背を向けてベンチに座る、栗色の髪の人影は今にも消え入りそうに見えた。
ベンチに座り、ぼーっと噴水が飛沫を上げるのを眺めていたベアトリクスは背後でがさりと音がしたかと思うと、反応する間もなく身を拘束された。
「きゃっ……!」
目に入るのはシャツと手袋の白。背後の気配は彼女が最も良く知っているもの。
「ぶ、ブライアン?どうしてここに?」
「こっちのセリフだよ。……ああ、良かった」
ぎゅうぎゅうと強く抱きしめられる。
「良くないわ、あなた授業はどうしたの?」
「僕が君に聞きたいよ。何か嫌がらせでも受けたの?」
ブライアンはベアトリクスの手を握ると、ベンチの隣に移動する。
そして彼女の顔をじっと見つめた。蒼い瞳がベアトリクスの表情を映す。
ベアトリクスは目を逸らし、あいている方の手で眼鏡の位置を直しつつ言った。
「……逃げないわよ」
ブライアンは逆に手を引き、ぴったりと身を寄せて腰を抱き寄せた。
ベアトリクスはため息をつく。
「ちょっとね、この後で大聖堂に行くじゃない?それで神経質になっているだけなのよ」
「ふむ。……ビーは僕たちが新たな歯車を得られないと心配している?」
彼女はゆるゆると首を横に振った。
「いいえ、貰えると確信はしているわ。そうではなくて……。逆に今までわたしは無能と言われても自分を抑えてきたんだけど、そうじゃなくなるかもと思ったらね、ちょっと感情が溢れてしまって」
ベアトリクスは朝、ミア・キャンベルに暴力を振るいかけたことと、セオドラ・エザートンらがこちらを揶揄したことに対して耐えきれずに教室から飛び出したという旨をぽつぽつと伝えた。
ブライアンは言う。
「ビーは我慢しすぎだったんだよ」
「そう……かもしれないわね」
「もう大丈夫だよ、それともまだ不安?」
「ブライアンは……いや、なんでもないわ」
ブライアンはベアトリクスの頭を胸元に抱き寄せて囁く。
「ビーはひどい。これだけ僕が愛を示しているというのにまだ疑うんだから」
「……ごめんなさい」
「ブライアン・バーデンベルクはベアトリクス・ボーデンへの愛を誓う。君が悪い子になっても、いつか君が年老いても。その愛を違えぬことを誓うよ」
「貴族でなくても……?」
「貴族でなくても」
「あの日……わたしがあなたに脚を与えたことがあなたの人生を縛ってはいないかしら」
「ない。その前から僕はビーが好きだった。
僕の方こそ、ベアトリクスという才女の人生を縛ってしまったと思っているというのに」
ベアトリクスはがばりと身を起こす。
「そんな!あの時あなたがわたしを突き飛ばしてくれなかったらわたしは死んでいた!」
「うん、僕がいなければ君は死んでいて、君がいなければ僕は死んでいた。それだけのことじゃないかな」
ブライアンは立ち上がり、ベアトリクスに手を差し伸べた。
「さあ、行こうか」
ベアトリクスは首を傾げる。
「大聖堂に歩いて行こう。途中、どこかでランチでも食べようよ。それにほら、僕ジャケット置いてきちゃったしさ。どこかで代わりの買わないと」
ベアトリクスはくすりと笑い、彼の手を取って立ち上がった。
2人はそのまま学校を抜け出し、買い物と食事を楽しんでから、大聖堂へと赴いた。