第5話:ミッドナイト
夜の帝都、眠らぬ街は蒸気に包まれて夜霧のように街路を白く染め上げ、街路灯は霧の海に浮かぶ漁火のように光を投げかける。
帝都の東端、貧民街を女が一人、霧の海を掻き分けるようにヒールを鳴らして走っていく。
街娼だ。令嬢の着るようなコルセットとバッスルスカートのようでありながら、零れんばかりの胸元、スリットを入れて太ももまで見せる扇情的なドレス。いっそ毒々しい程に紅い唇、左手には小ぶりのバッグ。
街娼にしては若く、そして美しい女だった。高級娼婦と言うならともかく、貧民街の街娼には似合わぬ女。
しかしその女の表情は今や恐怖に歪んでいた。ときおり背後を振り返り、追手のいないことを確認しつつ走る。
狭い路地の奥へと女は迷い込んでしまった。あるいはそう追い詰められたのか。袋小路の壁に手をつき、息も絶え絶えに女が口を開く。
「切り裂き……ジャック……」
背後からかつかつと足音、霧の中から現れるのはナイフを手にする男の影。男が声を放つ。
「追いかけっこはおしまいか」
ひっ、と息を呑む女。ゆっくりとバッグに手を入れながら言う。
「お、お金なら差し上げますから……」
「金なんざどうでもいいんだよ、俺はお前を切り刻みてぇんだ」
男がこれ見よがしにナイフをちらつかせる。暗い路地の奥、遠くからの街路灯の明かりと月光を受けて煌めく白刃。
愉悦の浮かぶ中年男性の顔。
「き、切り裂きジャックは、もう過去の事件よ」
「捕まってはいねぇだろう」
切り裂きジャックとは帝都黎明期の伝説の殺人者の名前だ。娼婦連続殺人の未解決事件。
そして今、この帝都の貧民街で再び街娼たちが刻まれる事件が起こっていた。毎週末の深夜。女が殺され、皮が剥がれ、腹が裂かれ、臓器を晒し路上に打ち捨てられる。
切り裂きジャックの再来として新聞を沸かせ、王都を震え上がらせているのだ。
「……邪神の尖兵」
街娼が呟き、男がびくりと身体を震わせる。
「なぜそう思った?」
「廃油のような臭いがするわ」
どぶの臭いがそのまま上がってくるような貧民街の悪臭の中、男の香水の香りに紛れてふと過ぎった機械油の廃油のような臭い。邪神の瘴気に侵されたものの気配だった。
「勘の良い女だなぁ。まあどのみち殺すから関係ねぇが」
男はにやりと笑う。男のナイフを握る右手が漆黒に染まり、手にしていたナイフも融けて5本の鋭いメスのような鉤爪となる。
「当たり、ね」
いつの間にか女の顔には恐怖の表情はない。理知的で冷徹な瞳が男を見つめている。
街娼はバッグの中に入れていた手を鋭く前へ。その手には試験管が握られており、男に投げつけられたそれは軽い音とともに割れる。
「ぐあぁぁぁっ!……な、なにをしたクソアマっ!」
「なにって……濃硫酸よ」
男は痛みに蹌踉めき、薄く汚れた壁に手をついた。
男の身体が悪臭を放つ煙を上げて溶けていく。しかしそれは酸によって身体が溶けているという訳ではない。人間に扮していた邪神の尖兵の偽装が溶けているのだ。
人型が崩れ、中から現れたのは漆黒の鋼線を束ねたかの如き身体。無数の女の皮をアクセサリーのつもりか身に纏っている。
街娼はその顔に嫌悪の表情を浮かべた。
邪神の尖兵は腐敗臭のする息をまき散らして叫ぶ。
「ぶっ殺す!」
「今よブライアン!」
彼女がそう言った刹那、男が手をついたあばら屋の薄い塀が爆発した。
轟音と共に逆の壁に叩きつけられる男。
塀に開いた穴から人影が覗く。左腕を掌打の形で突き出した男。赤銅色に輝く機構の左腕を持ち、右手にコートを抱えた男が、瓦礫と化した塀を越えて路地裏に足を踏み出す。
落ち着いたテノールが街娼へと投げかけられる。
「無事かい?ビー」
「ええ、もちろん」
白皙の美青年。壁の向こうから出てきた男はブライアン、そして街娼はそれに扮しているベアトリクスであった。
「邪魔を!するなぁっ!」
邪神の尖兵が鉤爪を振るう。いつのまにか左手も鉤爪となり、腕はワイヤーが解けるように触手となっていく。
10の鞭と化した両腕が縦横に振るわれ、無数の斬擊が青年を襲う。
しかし響く音は肉を刻む音では無く、金属同士が衝突する音。
無数の斬擊を左腕のみで受け、払い、止める。
「女しか殺せないような刃が、通ると思うな」
彼がいつもしていた手袋。その下にあった手は機械神より賜ったもの。
そして、そう言い放った青年が左脚で股間を蹴り上げる。金属同士がぶつかったかのような異音。こちらもまた機構の脚であるのだ。
「ぐあっ……!」
邪神の尖兵が苦悶に頭を下げたところに、ブライアンは左手の拳を添える。
「じゃあな、ジャックもどき」
赤銅色に鈍く輝く左腕内でカチリと音。安全装置の外れた音だ。
ブライアンが拳を突き出すと同時に、肘のあたりから激しく蒸気が噴出し、轟音と共に拳を射出。
邪神の尖兵の腹を穿ち、真っ二つにへし折った。
吹き飛ぶ男。壁を破り、瓦礫が崩れる音。上がる砂埃。
「ふぅ……」
「お疲れ様、ブライアン」
ベアトリクスの労いの言葉に、青年は彼女へと振り返り、頰を染める。
「ああ、ビー……目の毒だよ」
ブライアンは地面に落ちた左手を嵌め直すと、抱えていたコートを彼女に差し出した。
彼女はバッグに手を入れるといつもの銀縁眼鏡を取り出し、妖艶に微笑んだ。普段の彼女が絶対にしない真っ赤な紅をのせた唇が言葉を紡ぐ。
「ふふ、ブライアン……お気に召さない?」
ブライアンは彼女を抱き寄せるようにして、肩にコートをかける。
ベアトリクスはコートを羽織り、手を差し出す。その繊手を取りつつ、ブライアンは困ったような表情を浮かべて言った。
「お気に召すけど、君のその姿を他の男の目に晒すのはちょっとね」