第2話:イブニング
ブライアンがベアトリクスの隣の椅子を引き、腰掛ける。そして彼女の耳の側で囁いた。
「ビー……。また人の課題をやらされているの?」
甘いテノールは脳を蕩けさせるよう。ベアトリクスは耳が熱を持ったのを感じる。
彼女が僅かに頷くと、ブライアンは机の上のレポートの下書きとそのメモを手にした。
『先代皇帝レナード陛下の北東戦線親征が帝都において与えた影響』
『演劇が帝国の安定のために果たした役割と今後』
『魚人国との休戦条約についての考察』……。
彼は笑みを浮かべて言う。
「おかたいレポートだね。官僚志望の男子生徒って感じだ。歴史学の先生も驚いてしまうのでは?
ふーん……セオドラ・エザートンねぇ。ミア・キャンベル。こちらはキャンベル商会の娘か。ほう……」
途中からブライアンの声が低く、冷たくなる。
彼はそのレポートたちに書かれた名前を脳裏に刻み込んだ。
「あなたが特に手を打つ必要はないわ。
それにね、歴史学のレポートせっかく何個も書けるの楽しいもの」
ブライアンは、はぁとため息をつく。
「……それを本気で言えてしまうのがビーの恐ろしいところだよ。まだかかりそう?」
「調べたいところはもうすぐ終わるわ。残りは寮で書くからちょっとだけ待ってね」
ベアトリクスは話している間も書物を捲る手を止めない。
銀縁眼鏡の奥で琥珀の瞳が忙しなく動く。
ブライアンは彼女のこの表情が好きだった。
紅茶を蒸らすほどの時間が過ぎてベアトリクスが本を閉じたとき、ブライアンは先程と同じ姿勢でずっとこちらを見ていたのだった。
「お待たせ、ブライアン」
「もっとゆっくりでもいいのに」
ブライアンは立ち上がると、彼女が幾度も往復して積み上げた書籍を全て抱え上げる。
「さあ、どこに戻す?」
「あら、ありがとう」
ベアトリクスは筆記用具を鞄へとしまい、2人は書架へと向かった。
図書館を出ると、太陽は西の空低くへと傾き、蒸気の霧に覆われた街をぼんやりと朱に染めている。
ブライアンは左腕を差し出し、ベアトリクスは彼の硬く冷たい腕を取った。
2人は腕を組み、図書館から伸びるマロニエの並木道をゆっくりと散歩しながら寮の方へと向かう。
すれ違う生徒たち、特に下級生の男子たちは監督生たるブライアンの姿に憧憬を抱く。女生徒たちは熱の籠った眼差しを送る。
そして者によっては、その隣にいるベアトリクスを憎々し気に見るのであった。
ブライアンは尋ねる。
「本当に大丈夫なのかい?」
「レポートは問題ないわよ」
「いや、それ以外の嫌がらせとかもさ。こう見えて僕は君の婚約者だし、監督官でもあるんだよ」
ベアトリクスは彼の腕、袖口の銀ボタンを撫でる。
「ふふ、ブライアンは誰が見ても立派な監督官様だわ。……まあ、嫌がらせが無いとは言わないけどね」
じっとブライアンはベアトリクスを見つめ、彼女は眼鏡に両手を当てて持ち上げながら言う。
「気にしてないもの」
「……ビー、僕は君に頼られる方が嬉しいんだ」
ベアトリクスはちょっと困ったように眉を寄せた。
「でもほんとに大したことではないの」
「その大したことないものでも積み重なれば君の心を苛むだろう」
「んー……、我慢できなくなったらもちろん言うわ。じゃあね、ブライアン」
男子寮と女子寮の分かれ道が近づき、ベアトリクスは別れの言葉を告げた。
マロニエの木陰にて、ブライアンはさっとベアトリクスの肩を抱くと、くるりと彼女の身体を入れ替えて抱き寄せ、彼女の額に口付けを落とした。
「……もう!」
ブライアンはベアトリクスの栗色の髪を撫でつつ笑みを浮かべる。
ベアトリクスはため息をつくと、一度彼に身を預けた。
「また週末」
「ええ、また週末」
2人の影は離れ、ベアトリクスは改めて寮へと歩き出す。
彼女はブライアンの姿が並木の向こうに隠れてからそっと呟いた。
「ブライアン……まだ負い目を感じているのね。
わたしより素敵な人、いくらでも捕まえられるでしょうに」
ブライアンは手を振り、ベアトリクスの背を見送った。
彼女の姿が並木に隠れて見えなくなってから、ブライアンは歩き出す。そして呟いた。
「ビー……意地っ張りめ。7年前のあの日から、僕の命も心も君のものだと言うのに」
バーテンベルク伯爵家令息ブライアンとボーデン伯爵家令嬢ベアトリクスは幼馴染である。
両伯爵家の領地は近くはないのだが、帝都にあるタウンハウスは隣接しており、春告げの祝祭日より始まる社交シーズンにおける良き隣人であった。
2人は帝都に連れられてくるようになった5歳から、帝都にいる間の友人として親交を深めている。
どちらも利発であったゆえに、領地にいる同年代の少年少女とはあまり話が合わなかった2人はすぐに仲良くなった。
そしてその関係が変わったのは今から7年前、彼らが10歳の時。
そう、機械神より『表裏無き歯車』を賜る日のことだった。