なんとなく、姉孝行しようと思った
前半重そうに見えて見せかけだけです。
思えば、姉貴はいつも鬱陶しいほどに俺の世話を焼きたがった。
一番古い記憶は幼稚園の頃。鼻水を垂らして歩く俺を捕まえてはティッシュで鼻をかませ、学年の違う俺を自分の教室に連れてきたと思ったら隣の席の女の子を退かせて俺をそこに座らせた。そんなことが毎日続くものだから、しまいには俺専用の椅子が姉貴の教室に用意されることになった。
姉貴が幼稚園を卒業してから俺が卒業するまでの一年間、姉貴の世話焼きは一旦なりを潜めたが、俺が小学校にあがるとそれまでの鬱憤を晴らすかのように姉貴の世話焼き加減は程度を増していった。毎朝俺をベッドから引きずり出すところから始まり、まだ寝ていたいとぐずる俺の顔を洗わせ歯を磨かせたらダイニングに連れていき、登下校を共にし、昼休みには俺を学校中連れ回し、宿題の面倒を見て、晩ごはんを食べさせ、一緒に風呂に入って身体を洗い、歯を磨こうとしない俺の歯まで磨き、夜更かししたいと駄々をこねる俺を無理やり寝かしつけ――と、枚挙に暇がない。おそらく姉貴の小学校生活は俺の世話を焼くことで、俺の小学校生活は姉貴に世話を焼かれることだけで構成されていたと言っても過言ではない。
姉貴が中学校にあがったとき、少しだけ変化があった。と言っても変化があったのは俺の方で、単純に姉貴と風呂に入るという行為に恥じらいを覚えるようになったのである。これを皮切りに俺は少し早めの反抗期に突入し、俺は徐々に姉貴が世話を焼こうとするのを拒むようになった。
しかし俺が姉貴を拒絶し始めてからも姉貴は俺から離れようとはせず、自分の青春そっちのけで隙あらば俺の面倒をみようとした。その執念たるや、鍵をかけていたはずの風呂にまで突入してまで俺の背中を流そうとするほど。一方の俺はそんな姉貴に反発して、なんとしても世話を焼かせるまいと生活態度を改めていった結果、何ともうまい具合に品行方正な優等生になってしまった。
そんな俺の変化を面白く思わない姉貴は、今度は俺の精神面の面倒をみようとするようになった。ことあるごとに「悩み事はない?」などと聞いてくる姉貴だったが、俺が何もないと答えるとつまらなそうに肩を落として自分の部屋に戻っていった。
そんな生活が何年か続き、いつしか姉貴は俺の世話を焼こうとしなくなった。代わりに、今度は俺に姉貴の世話を焼かせようとするような言動が少しずつ増えていった。
家に帰って部屋に戻ると姉貴が俺の布団で寝ていたり、悩み相談と称して俺の部屋に入り浸ったり、怖い映画を観たから眠れるまで枕元にいろと言ったり。もう高校生なんだからしっかりしろと言っても姉貴はまるで聞こうともしなかった。それどころか、ますます手間をかけさせる行動が増えた。
結局、俺はそんな姉貴を相手にしないことを選んだ。
それでも姉貴はしつこく俺に構ったが、それすらも相手にしないでいると、姉貴は見るからに悄然として自室に戻り、しばらく部屋に籠もるようになった。流石に胸が痛んだが、これで俺の手を煩わせることもなくなり、姉貴も独り立ちできるようになるのならばと拒み続けていた。
――そんな折のことだった。
きっかけ、と言うほど大したものではなかった。
学校から家に帰る途中、寂れた公園で仲良く遊ぶ幼い姉弟がいた。弟の世話を甲斐甲斐しく焼く姉。鼻水を垂らしてよたよたと歩く弟の鼻を姉がポケットから取り出したティッシュで拭き取っていた。
なんとなく――本当になんとなくだけれど。
無性に、姉貴と話がしたいと思った。
*
「ただいま」
家に帰ると既に姉貴の靴はあった。二階からドタドタと物音が聞こえる。どうやら自分の部屋にいるようだ。
手を洗うことも忘れて、はやる気持ちを抑えながら階段をのぼる。
「姉貴、入るぞ」
姉貴の部屋をノックし、一言声をかけて勢いよく扉を開け放つと――
「あ、あれ?」
そこにあるはずの姉貴の姿は、不思議なことに影も形もなかった。おかしい、さっき確かに物音がしたはずなんだが。
首を傾げながら、取り敢えず荷物を置くかと自分の部屋に入る――と。
「えっと……姉貴?」
どういうわけか、姉貴は俺のベッドで眠っていた。ご丁寧にすっぽりと頭まで布団を被っている。俺よりもずっと背が小さくて痩せ気味の姉貴は嵩が低く、布団はうっすらとだけ盛り上がっていた。最近はこんなこともなかったので、しばし懐古の情に浸る。そういえば最近姉貴の寝顔も見てなかったなという考えに至り、そっと枕元の布団をめくった。
なぜか可愛らしい小さな足が目に入った。
「ん?」
どうやら姉貴はあべこべで寝ているらしい。珍しいこともあるもんだと思いながら反対側の布団をめくろうと手をかけると、何やら強い抵抗があった。
「んん?」
どうも姉貴が布団の端を強く握っているらしかった。経験則でわかる。というか別に経験則じゃなくてもわかる。これは狸寝入りである。
「何してんだ、姉貴。起きてるのはわかってるぞ」
もうすっかり姉貴が起きている前提で警告文を突きつけると、姉貴は観念したのか布団の下からにゅっと顔を出した。
「……おはよう、そしておかえり」
顔から下半分は未だ布団の中のまま、姉貴はくぐもった声でそう言い放った。と思ったらものすごい勢いで布団にくるまると、一言「おやすみ!」と叫んでベッドの上で小さくなった。
「いや何がしたいんだよ」
「取り敢えず出てって」
「は?」
不可解な言動と要領を得ない姉貴の指示に疑問符を浮かべるしかない俺。そんな俺に再度「良いから出てって!」と理不尽な叱咤がとんでくる。未だかつてなかった姉貴の鬼気迫る拒絶にショックを受けて立ち竦んでいると、
「……お願いだから今は何も言わず出てって。ほんとにお願い」
なかなか出ていこうとしない俺に焦れたのか、半ば泣き縋るかのような懇願を耳にして、俺はようやく「わかった」と返事をし部屋を出た。
そのとき、俺は目にしてしまった。
丸まった布団の端から、姉貴の下着がちらりとのぞいていたのを。
「嘘、だろ」
目を見開き、思わず口から声が漏れる。その言葉が聞こえたのか、姉貴は一瞬びくりと身体を震わせると、もう一度だけ、蚊の鳴くような声で「出てって」と絞り出した。
我に返った俺は後ろ手に扉を閉めると、そのままもたれかかってその場で蹲り息を吐く。
まさか、そんな、嘘だろうと頭の中で否定しつつも、俺の意識しうる限りのありとあらゆる血管は異様な速度で脈打っているのがわかった。脳が灼けるように熱い。眼がチカチカする。乾いた喉が水分を求めてゴクリと音を鳴らした。
「――嘘だろ?」
もう一度、声に出した問いかけは、静まり返った家の壁に吸い込まれて消えていった。
訪れた静寂。自分の心臓の音だけがガンガンと響いてうるさかった。
こんなはずではなかった。ただ俺は姉貴ともう一度昔みたいに話が出来たらと思って、それで――ああ、何も考えたくない。そう頭を抱え込むが、考えたくないという意思に反して俺の頭は勝手に思考を始めてしまう。
不意に昔のことを思い出した。最後に姉貴と風呂に入ったときの記憶だ。よくよく考えればあの頃から姉貴はほとんど変わっていない。小さくて、まだ中学生と言われても何の違和感もない、二次性徴というものがほとんど感じられない細い身体。
少しだけ見えた下着は、それでも歴とした大人の女性用の下着だった。それがはみ出ていたということは、あの時俺の布団の中にあったのは、姉貴の――そこまで考えて俺は無理やりその考えを振り払った。
俺は何を考えているんだ、相手は実の姉だというのに。俺の理性的な部分は必死にそう訴えるが、どれほど痛烈に批判しようとも感情はまるっきり言うことを聞かない。それどころか、姉貴と過ごした日々の記憶の詳細を次々と呼び覚ます。
姉貴はよく俺に触れた。柔らかくて少し体温の高い姉貴の手が俺の額に、頬に、首に、肩に、腕に、胸に、腹に、手に――その感触がまるで今まさに触れられているかのように蘇ってくる。
姉貴はよく俺に話しかけた。普通よりも高くて、でも芯のある声だ。聞くだけでどこか安心する、優しい声色だ。しかしさきほどその声は失われた。思い出すだけで涙が溢れてしまいそうなほどの、哀しげな声だった。原因は、俺だ。呼吸が止まりそうなくらいの苦しみに、俺は胸を掻きむしった。
姉弟だ――俺と姉貴は生まれたときからずっと姉弟だった。どれだけ仲がこじれようとも、例え世界のありとあらゆる法則が覆ろうとも、その関係だけは絶対不変であると誓えると思っていた。だというのに――それなのに、どうしてこれほどまでに俺の心をかき乱すのだろう。
扉の向こうから微かに衣擦れの音が聞こえた。それだけで俺の見たものが見間違いや勘違いの類いではなかったのだと確信させられた。
やがて、永遠に続くかと思われた静寂は、他ならぬ姉貴の声によって破られた。
「入っていいよ」
「あ、ああ……入るぞ」
どうして自分の部屋に入るのにこれほど緊張しなければならないのか。そんなどうにもならないことを考えながら慎重に扉を開く。
果たして、姉貴はヨレヨレの燻んだ赤いジャージを身に付けてベッドの縁に所在なさげに座っていた。まるで消えてしまいそうなほどに、あるいは消えてしまいたいとでも思っているかのような希薄さだった。
「ごめんね」
俺が入るや否や、姉貴はポツリとそう零した。
「私、気持ち悪いよね。こんなお姉ちゃん、嫌だよね。ごめんね。私、もうどうしようもないよね。いっつも迷惑ばっかりかけて、その上弟でこんなことしてさ……」
懺悔のように紡がれる言葉は途切れ途切れで、ぽろぽろと涙を零しながら吐き出される声は、まるでもうじき消えそうな蝋燭の灯火のように、小さく、儚く、震えていた。
昔の姉貴の姿がふと頭に浮かんだ。確かに姿はあまり変わらない。だが昔の姉貴はもっと溌剌としていて打たれ強かった。それなのに、今俺の目の前にいる少女は、そんな強さなどどこにも見当たらないほどに脆く、弱々しかった。一体姉貴はいつの間にこんなに弱くなったのだろう――いや、違う。自分の浅はかな考えを即座に否定する。弱くしたのは俺だ。俺が彼女を拒んだせいだ。いつも俺を気にかけてくれた姉貴を邪険に扱い、手を振り払う俺の言動ひとつひとつが彼女を切り裂き、削り、抉り、傷付け、そしてここまで弱らせたのだ。
恩知らず。そんな言葉が脳裏をよぎる。自分を罰する言葉はいくらでも頭に浮かんだ。
最初に彼女を拒んだのはいつだ。小学生のときだ。同級生から六年生にもなって姉と一緒に風呂にはいるのはおかしいと言われた。それがとても情けないことのように思えて、俺は妙に意固地になって姉貴を拒んだ――そうだ、姉貴と呼び始めたのもちょうどこの頃だ。それより前は、姉ちゃんと呼んでいたはずだ。初めて姉貴と呼んだときの彼女の顔を思い出せるか――ああ、思い出せるさ。今ならわかる、きっと彼女の苦しそうな表情を最初に見たのはあの瞬間だ。優しくて繊細な少女を深く傷付けた瞬間だ。それを見て見ぬふりをしたのは誰だ――他でもない、俺だ。誰よりも彼女が大切に思ってくれていた、この俺だ。最低だ、チクショウ。
中学に入って、彼女に何を思った。さっさと弟離れしろよ、とでも思ったか――思い上がるなよ、クソが。姉離れ来ていないのはお前だったじゃないか。どんなに酷いことを言われてもお前の言うことなら赦してしまう彼女の優しさに甘えていただけじゃないか。今だってそうだ、どれだけ彼女を拒んでも彼女のことだからいつか大人になればお互いわかりあえるとでも思っていたんだろう。それがこの様だ。彼女は泣いている。嫌われてもおかしくないほど愚かな真似をしたお前に嫌われることを憂いて涙を流している。やめてくれよ。嫌われるべきは俺だろうが。何でそんなに――これほどまでに俺のことを好きでいてくれるんだ。
姉弟だってことは、そんなに強いものなのかよ。
そのとき、俺の右手に何か触れるものがあった。柔らかくて温かいそれは、いつの間にか固く握り込んでいたその手を、じんわりと溶かし、ほどいていく。
「何でアンタは、こんなときでも自分を責めるのよ。悪いのは私じゃない」
俺の手をそっと包み込んだのは、泣いていたはずの彼女の手だった――いや、涙は今でも流れ続けている。けれど、その顔に浮かんでいるのは、優しい微笑みだった。
「やっぱり、アンタは優しいね」
「そんなわけないだろっ」
ありえない言葉に思わず声を荒げて言い返す。
「俺、今までどれだけ姉ちゃんに酷いこと言ったと思ってんだよ。それが優しい? んなわけあるかよ。何でまだそんな風に思えるんだ……目、覚ませよ」
「……目は、覚ますべきなんだろうけどね」
どこか自嘲するように呟き、彼女は言葉を続けた。
「こんなでもお姉ちゃんだからね、わかるもん。酷いこと言ったとき、アンタはいっつも泣きそうな顔してた。本心じゃないってすぐにわかった。本当は傷付けたくないのにって、そんな言葉が聞こえてきそうなくらいだった」
「―――」
「それを見るたびにさ。ああ、私また迷惑かけちゃったなって。辛い思いさせちゃったなって思って。でもアンタが本当に私のことを大切に思ってくれるのが伝わるから、お姉ちゃん、それが嬉しくって」
「……姉ちゃん」
そのときようやく、俺がいつの間にか彼女を昔の呼び方で呼んでいることに気がついた。眼の前で淡く微笑む彼女は、それに気付いていたのだろうか。
「――やっぱり、アンタのこと大好きだなって。そう思っちゃうんだ」
瞬間、弾かれたように体が動き、気付けば俺は彼女を抱きしめていた。小さい小さいと思っていたが、いざ自分の身体の中に収まってみれば、彼女は自分が思っていたよりずっと小さかった。ともすれば腕の中で砕けて消えてしまいそうなほどに儚い体躯を、壊れないようにそっと抱きすくめる。
「な、何してるの? え、え、ちょっと――」
焦ったように慌てふためく彼女を離さないように俺はより彼女との密着度を上げる。胸の中で彼女が声にならない悲鳴をあげたのが聞こえた。段々と普段の調子を取り戻してきた彼女の様子に少しだけ頬が緩む。
「ごめん、姉ちゃん」
手遅れにならないように――いや、ひょっとしたらもう手遅れかもしれないけれど――俺は彼女の頭上でそう囁いた。
「ごめん」
繰り返す。
「ごめん。本当にごめん、姉ちゃん」
何度でも繰り返す。こんなことで償えるわけではないけれど。きっとただの自己満足に過ぎないけれど、どこまでも自分勝手な俺は自分勝手に叫び続ける。
「ごめん、ごめん、ずっと酷いことばっかり言って、傷付けて……」
「だから、アンタは悪くないって言ってるじゃない」
彼女は恐る恐るといった具合で俺の背中に手を回すと、右頬を俺の胸に押し付けた。
「姉ちゃん、ごめん――好きだ」
「―――っ」
一際大きく跳ね上がった心臓の音は、きっと彼女にもしっかりと伝わったはずだ。彼女は一瞬身体を震わせ何かを言おうとしたが、言葉は不要と判断したのか、黙って俺の胸元に顔を埋め身体を預けた。今まで心にぽっかりと空いていた穴が次第に埋まっていくような感覚を覚える。深く息を吸うと、一層早く満たされていく気がした。
本当はもっと伝えたいことがあった。姉弟だけど、とか。彼女がここでしていたこと、とか。彼女に伝えておきたいことは山ほどあったのに、いざ一番伝えたかったことを伝えたら、それだけで精一杯になってしまった。落ち着いたらまた話せばいいと、今はただこの充足感に浸る。
ふと今日の出来事の遠因を思い出す。今日もしこの出来事がなかったら、俺は一体彼女とどんな話をするつもりだったんだろう。しばし思考を巡らせてみたがわからなかった。ただ少なくとも、これほど多くを一度に得られるような結果にはなっていなかったように思う。今となってはどうでもいい話だが。
彼女と抱き合うことしばし。俺達はどちらからともなく離れると、まるでお互い初めて対面するかのようにおろおろと向き合った。目が合いそうになるとつい逸らしてしまう。そんなことを続けているうちに思わぬ拍子に目があって、同時に吹き出した。やがて彼女がいつもの調子で口を開く。
「ふっふー、そっかー。アンタもお姉ちゃんのこと好きだったんだー、いやーお姉ちゃん照れちゃうなー。あれだけウザいとか言われてたのが全部アンタの照れ隠しだったのかと思うと、いやー照れちゃうなー」
「台無しなんだけど」
雰囲気とかその他諸々があっという間に崩れ去った。いや、いつもの調子に戻り過ぎだ。そうだった、そういえばここ数年の姉ちゃんはかまってちゃんのただのウザいやつだった。いやそれはそれで可愛いと思っていた節もあったりはしたけれど、先程までのどシリアスからの落差を考えるとがっくりというか、何ならどんがらがっしゃーんという効果音まで聞こえてきそうなまでの急降下だった。
もう本当に台無し。
「もう本当に寂しかったんだからね。昔は何かにつけては姉ちゃん姉ちゃんって後を着いてきたのに、アンタと来たら突然、アネキ、なんて呼び出すもんだからお姉ちゃんは悲しくて悲しくて」
「ここで思い出話に花を咲かせるのかよ」
しかもよりにもよってこちらの心をかなり抉る話題を。
「姉弟喧嘩、仲直りと来たらその後は昔話と相場が決まってるじゃない」
「決まってねえよ。少なくとも今ここですべきことは過去を懐かしむことじゃない」
「じゃあ何の話をすればいいのよ」
「……それを俺に言わせるのか」
「え? えっと――あ」
どうやら思い出したらしく、彼女は途端に顔を真っ赤に染めて挙動不審になった。下手くそな口笛を吹いて明後日の方向を向いているが、その方角にあるのは件のベッドだけだ。完全に墓穴を掘ったな。見ると彼女の顔色はたちまち青になった。本当に忙しい人である。
「えーっと……忘れて?」
「無理だ」
「お小遣いあげるから」
「へえ、いくらだ」
「百九十八円」
「そんな安い記憶じゃねえよ!」
おまけに妙に現実味のある価格設定。ひょっとしたら記憶という情報は本当にその程度の価値しかないものなのだろうか。そういえば個人情報は安いものだと百円を下回ると聞いたことがあるし、案外記憶もそのくらいが妥当な値段なのかもしれない――って、そんなわけないだろ。少なくとも俺にとっては価値ある記憶である。
「アンタってば、お姉ちゃんのうっふーんでアレな記憶がそんなに大事なの? 嬉しこと言ってくれるなー、もー」
「……別に大事じゃない」
「またまた照れちゃって。いいんだよ、今晩のオカズにしても」
「オカズとか言うな。ていうかしねえよ」
「それにほら、生のお姉ちゃんを包んだお布団がまだあそこに」
「生々しい言い方やめろ。あれは後で捨てる」
「使った後で?」
「今すぐ捨ててくる」
「ごめんごめんからかいすぎたって。そんなに冷たくしないでよ、もう」
冷たくさせているのは誰だよと苦言を呈したくもなるが、一方でこれじゃいつもと同じじゃないかと焦る自分もいる。ついさっき謝ったばかりだというのに、舌の根の乾かぬうちから同じ轍を踏むというはいかがなものか。実際、記憶うんぬんに関してはそもそも下着の一端しか見ていないからともかくとして、布団の方は割と使う気満々だっただけに、すでに俺の心の中は前言撤回したい気持ちでいっぱいである。あーあ、真空パックに詰めて永久保存したかったなあ。でも今更言えない。あとでこっそりやるか、バレないように。
どうやら長年の習慣で染み付いた言動の癖は、そう簡単には抜けないらしかった。
「まあもし忘れてくれるっていうなら、このスーパープリティキュートなお姉ちゃんが直々に何かしてあげなくもないけれど? そうだねー、例えば……キス、とか?」
唇をやたら強調しながらニヤニヤと主張する彼女の姿を見て、無性にその鼻を明かしてやりたい衝動に駆られた。きっと彼女は俺がまた素直になれずに一も二もなく断るとたかをくくっているんだろう。実際今までそうやってウザったく絡んできたことはあったし、俺も当然のごとく振り払っていたが――これからは違うのだと思い知るがいい。
「ほらもう、ぶちゅーっと来なさいよ! お姉ちゃんの唇はずーっとアンタにキスされるのを待ってるんだぞ、って――んむっ」
頬に手を添えて素早く唇を奪う。目を大きく見開いて固まる彼女の様子を薄目で確認しながらしばらく唇を重ね続ける。
やがて彼女の顔が茹でダコのように真っ赤になった頃合いを見計らって、俺はようやく触れた唇をゆっくりと離した。
「あ、あわ、あわわわわ、キ、キキ――!」
どうやら効果は抜群だったようで、思った以上の成果が得られたことにほくそ笑む。ようやく自分の態度を改善するための糸口を見出した俺は、未だ言語化できない意味不明な言葉を口走りながら取り乱している彼女を眺めてにんまりと笑った。
「一応言っておくけど、初めてだからな」
「そ、そりゃあ私だってこんなこと初めてっていうか、まさか本当にしてくれるとは思わなかったっていうか……!」
その他何やらぶつぶつと呟いてはだらしなく頬を緩める様子を見て、ますます笑みを深める。俺はトドメを刺すことにした。
「で、スーパープリティキュートな姉ちゃんは、俺にキスしてくれるんだったよな」
「え」
「あれ、もしかして今ので記憶飛んだのか。それならなおのことキスしてもらわないと」
「え、え、だって今キスしたばっかりで」
「俺の記憶が吹っ飛ぶくらいのキスじゃないと意味ないだろ」
「きお……きゅー」
「ちょ、姉ちゃん! 嘘だろおい、トドメってこういう意味のトドメじゃなかったんだけど――」
――と、色々と締まらないことばかりではあったが。
こうしてかつての仲の良さを取り戻し、それまで以上に仲を深めた俺たち姉弟は、けれどもやはり姉弟なわけで。前途に立ちふさがる障壁は山ほど、どころか山よりも遥かに高いものであるということは重々承知しているけれど。そんなことは一旦わきに置いて、ひとまず俺は今まで散々世話になった姉の世話という世話を焼き、そして嫌というほど甘やかすことにした。
いわば、姉孝行である。
続きが書けたらひょっとすると連載にするかもしれません。