温もり家族
アパートの二階にある一室に四人家族の中山家が住んでいた。
裕福な家庭とは言えないが一般家庭そのものだ。
ある雨の日、アパートの階段が元気よく鳴り響くと母の香織は長男の悟が帰ってきたのだと確信する。
勢いよく玄関のドアが開くとビショ濡れの悟が「たらいま〜」と声を張り、小学校から帰ってきた。
悟は六歳で小学一年生だ。
母は「おかえり〜」と夕飯の支度をしていた。
妹の理絵も幼稚園から帰って来ていた。
理絵は三歳で悟るとは三歳離れている。
悟がリビングの方に向かうが途中でキッチンにいる母に呼び止められる。
「悟ぅ〜、お前ビショビショやんけ」
母の顔が怒りに満ちていた。
「ちゃとる〜、ビチョビチョやんけ」
理絵も母の真似をして指を指してくる。
悟は洗面所へ行き、濡れた服をそのまま洗濯カゴに入れて着替える。
母は口が悪い。それとは裏腹に父は冷静沈着…ではないのだが母よりは静かに物事を見れる。
午後の五時を過ぎ、いつも通り玄関のドアが開く。
父、洋介の帰宅だ。中山家では四人揃っての晩御飯がこの家のルールだ。
「お父おかえり〜」
「パパおかーり」
悟と理絵が玄関で靴を脱いでいる父へ駆け寄る。
「おぅ、ただいま小人族よ」
父はたまに冗談を言うが大して面白くも何ともない。
四人は食卓を囲む。正方形の木製のテーブルに母と父が向かい合う形で座る。
悟と理絵も同様に座る。これが定位置だ。
食卓にはいつも作り立ての温かい料理が並べられる。
「香織、明日会社の人に呑みに行こって言われて断られへんかったから五千円くれへん?」
香織とは母の事である。
父は両手を合わせ目を瞑り、母に頼み込む。
「洋介ぇ、あんた汗水流すだけじゃ足りへんねんから鼻水も小便も垂れ流してきたら?」
そう言いながら母は渋々、五千円を父に渡す。
悟は思う、子供がいる前で何てことを言うんだ。
「あちぇみぢゅ、はなみぢゅ、ちょんべんみぢゅ♪」
ほれ、見たことか妹が変な歌を歌い出した。
「娘よ…幼稚園では歌わないでくれよ…」
父が半ば諦めて理絵に言う。
晩御飯を食べ終わると風呂に入って寝る。
寝る時は悟と理絵を真ん中に挟むようにして四人で眠る。
これが中山家の日常だ。
今日は土曜日で家族全員で近所の遊園地に行くことになった。
遊園地には土曜日と言うこともあり、家族連れや中高生で溢れかえっていた。
「洋介、はぐれないようにね」
「ん?え…そこオレなの?」父は自分に指を指し聞き間違いではないか確認する。
理絵が父の左手を取り、強く握ると「だいぢょぶ。りえがパパ、つれていく」
「あ、オレなのね…」この家の女性陣には敵わない。と右手で頭を掻く。
すると早速、悟の姿が見当たらない。
「おーい、悟〜」父が叫ぶ。
「ちゃとる〜」理絵が真似をする。
母も必死になり、探す。
その時「ピンポンパンポーン、迷子のお知らせです。黒のキャップに灰色のパーカーを着ている。中山洋介くん、友達の悟くんがお探しです…」
悟は、はぐれて迷子センターに駆け込み、父を呼び出したのだ。
「…あはははっ、ヒー、ヒー」母が大笑いし始める。
父が咄嗟に黒いキャップを外すと周りを見渡し赤面する。
「悟〜勘弁してくれ」息をひとつ吐く。
迷子センターまで迎えに行くとアナウンスのお姉さんは父親を呼び出した事に気付き、一礼して詫びる。
迷子センターからの帰り際、母が悟に「ナイスだったね悟!」と褒めていた。
家に着き、誰もいない家に四人が声を揃えて「ただいま〜」と言い放ちリビングでくつろぎ出す。
父は冷蔵から冷えた缶ビールを出し、テレビをつけてバカ笑いを始める。
母は雑誌を開きソファでくつろぎ出す。
悟はカーペットに寝そべりゲームをしている。
理絵はクレヨンで壁にピカソの様な絵を…
「あーーーーっ!理絵っ!」母のその唐突に放たれた声に驚いたのか理絵は振り返り、泣き始めた。
父と悟も声に驚き、入り浸っていた個人の世界から現実に戻される。
「泣かなくていいよ理絵」よしよしと理絵を宥める母。そして続けて言う。
「って事で、明日、パパに壁を綺麗にしてもらいましょうね〜」
「…ま、任せろ理絵」父がそう言うと理絵が泣き止む。
泣き疲れたのか、気付けば理絵は母の座るソファに横たわり頭を母の膝の上に乗せ、眠っていた。
父はそんな理絵を抱き抱え寝室に連れていく。
「悟、そろそろ寝るよ」母と一緒に寝室に行くと、缶ビールを呑んで眠くなったのだろう、父と理絵が寝息を立てて寝ていた。
悟と母も横になりその日を終える。
四人が起きたのは昼過ぎだった。
「お腹すいた~」悟が母に向かって言う。
「理絵もおなかちゅいた」
「ちょっと待ってな」母はボサボサの髪のまま眠そうに朝と昼兼用の食事の支度を始める。
父は眠たそうにソファに横たわりあくびをしながらテレビをつける。
その横で鼻水を垂らしながら理絵もテレビを見ていた。
悟は相変わらず起きて早々、ゲームのスイッチを入れる。
「ご飯出来たから並べてや~」母が言う。
「……」誰も一切、動こうとはしない。
「洋介ぇ~、悟ぅ~、理絵~ご飯の準備してや~」
『う~い』全員が気のない返事を返す。
勿論、動かない。
当然、母はぶち切れだ。
「お前ら全員、一週間、ゲーム・テレビ・ビール禁止な」三人をリビングで正座させて言う。
「ビールまで…」父はあからさまに落ち込んで見せた。
理絵は正座が疲れたのか、三角座りしていた。
四人が食卓に着くが、怒られた後での三人に会話はなく、静寂が場を包む。
そして静寂を切るように母が話し始める。
「悟はご飯終わったら宿題しなよ。洋介は理絵が描いた落書き、消してよね」
二人は揃って『はーい』と返事する。
「ママ、理絵は?」と米粒を口周りに付けながら理絵が聞く。
「理絵は大人しく、おままごとでもしてなさい」
「はーい」
とある平日、悟が下校途中にスーツ姿の父を発見した。
父は悟にまだ気付いていない様子だった。
悟は父の方に駆け寄り、父に話し掛ける。
「お父!」悟が声を張る。
驚いて振り向いた父が「なんだ、悟か。今、帰りか?」
「うん。お父、一緒に帰ろうよ」父も帰るものだと思い、誘う。
「今から、大人の事情でまだ帰れないんだ」父が手を合わせ謝る。
「あっそ」悟は不機嫌そうに言うと父は目の前のカフェに入っていった。
カフェはガラス張りの外観で外から店内が丸見えだった。
少しの間、悟はガラス越しに父の姿を追うと女の人と仲良く談笑しているのが目に入って来た。
「早く帰らないとお母に怒られるぞ」
悟は聞こえるはずのない声をガラス越しの父に向けて小さく漏らした。
悟が家に着くとまだ誰も帰ってきていなかった。
少ししてアパートの階段を上る音が聞こえ、母と理絵が幼稚園から帰ってきた。
「ただいま、悟。今からご飯作るから着替えて宿題して待っとき」
「はーい」悟は着替え、脱いだ服を洗濯カゴに入れ、宿題のドリルを開く。
「ただいま~」父が帰ってきた。
理絵はいつも通り玄関に駆けていくが、一緒に帰れなかった事に対して、まだ拗ねている悟は父の元には行かなかった。
母はそんな普段とは違う悟を見逃さなかった。
玄関に向かった理絵が「パパおかーり」と両手を開いて抱っこをせがむ。
父はそれに応え、「ただいま~」と理絵を片手に抱き寄せ、理絵の頬に自分の頬を擦り付ける。
「ん~…パパ、くちゃい」と嫌がる理絵に父は大袈裟にがっかりする。
それでも理絵を右手で抱きながら、左手には黒いビジネスバッグを持ち、リビングへと向かうとキッチンにいる母が「おかえり、洋介。遅かったわね」と言葉を投げる。
「ただいま………ん?まぁ、いつもこんなもんだろ」父は挙動不審にそう言った。
母が晩御飯の支度を終え、飯を運ぶように促す。
食卓には温かい飯が並べられ、四人でそれらを囲うように座る。
母が元気の無い悟に話し掛ける。
「悟?元気ないやん、どしたん?」優しい口調の母はどこか心配そうな表情をしていた。
この時、悟は父の運命を揺るがす言葉を放つ。
「あのね。今日学校から帰ってる途中に、お父を見つけて『一緒に帰ろ』って誘ったのにお父が『大人の事情があるから無理』って言って僕を放置して、女の人がいるお店に入っていったから怒ってるんだ」なんともまぁ、子供の説明力は断片的で恐ろしい。
父はそれを聞いて唖然として言葉も出ないでいると母も父を一瞥して悟に答える。
「怒っているのは悟だけじゃないからね~」悟に語り掛けるその表情は優しさの裏に怒りを秘めていた。
「ねぇね、おんなのみちぇってなぁに?」女の店…。空気を読めないのも無理はない。なんせまだ三歳児なのだから。それでも、女の店って……おっさんみたいな言い方しやがる。
「女の店ってなんだろうね~。パパに聞いてみよっか?」母が嫌味な言い方で父を責める。
父は心配に思う…そんな事ばかり覚えていく娘の姿を…。
「いやぁ、悟は説明が下手なんだよ…ハハハ」父が母に弁明を始める。
父はカフェで仕事の後輩の悩みに乗っていただけだと母に伝えるが、母はまだ疑っているようだった。
「ねぇね、おんなのみちぇってなぁに?」理絵がしつこく無意識に父の弱った心にジャブを打ち込む。
「女の店って言うのはねぇ~………」母の言葉を遮る様に父が被せてくる。
「わーわーわー、香織、理絵が変な言葉、覚えるだろ!」
母は父を睨みつけ攻める様に言う。母の怒りは静まる事を知らない。
「ってことは、洋介は変な店に行った自覚はあると?」
「何故、そうなる!俺はただ………」
悟はこれから起こる夫婦喧嘩を察知したように食器をそそくさと片付け、理絵を連れ、逃げるようにリビングへと退散する。
争いの火種を産んだ悟だったが大人同士の争いには参加できない。
次の日、悟が起きて、リビングに行くと父と母は普段通りに接していた。
仲直りをしたんだと悟は安心する。
やはり、父と母がぎくしゃくしていると子供は落ち着かないものだ。
まぁ、事の元凶は悟自身にあるのだが…
二日後、いつも通りに家に帰ると、父と理絵は既に家にいた。
だが、そこには母の姿はなく、帰宅したばかりの悟に父から思わぬ事実を聞かされる。
「悟、香織が倒れたらしくて…今すぐ病院へ行くから準備しなさい」父も冷静さを欠いて動揺していた。
小学生の悟でも父のその動揺っぷりから大事だと気付かされる。
能天気な理絵さえも事の重大さは分からないまでも不安気な顔で目には涙を溜めながら「ママ、ちんじゃうの?」と父に尋ねていた。
父は理絵の言葉も耳に入らないほどいそいそとボストンバッグに衣服などを詰めていた。
次第に理絵が泣き出す。
理絵の鳴き声が悟にも移りそうになるが、悟は何故か泣いてはいけないと思い、ぐっと涙をこらえて父の支度が終わるのを待つ。
父が運転する黒のファミリーカーに揺られながら、悟と理絵の三人は母のいる病院へと向かう。
さすがに泣き疲れたのか理絵は目を閉じ、眠っていた。
「なぁ、お父、お母はなんで倒れたん?」悟は後部座席の真ん中から顔を出して、運転している父に訊く。
「お父さんもわからへん」父は真剣な面持ちで運転していた為、これ以上話し掛けてはいけないと思い、悟は大人しく後部座席に座りなおす。
しばらくして父が運転する車は病院に着いた。
父が後部座席で寝ていた理絵を起こし、三人は病院へと入っていく。
理絵を抱きかかえた父が受付カウンターで母の病室を訊き、走ってエレベーターに乗り込む。
悟も父についていく。
母の病室に着き、父が乱暴に扉を開くと母が白いベッドの上にいた。
母が父に気付くとベッドを起こし「私……末期のがんらしい……」父は固まっていた。
母は涙目になりながらも我慢していた。
悟と理絵には何のことかさっぱりと言う感じだった。
「なぁ、お父、まっきのがんてなに?」父は悟の言葉に正直に答える。
「ママ死んじゃうんや……うっ!」父が本当の事を言うと母が父に掛け布団の間から蹴りをかます。
「ママがちんじゃう……わぁぁぁぁぁぁあん」理絵は衝撃の事実に泣きわめく。
悟は声を押し殺して泣くのを我慢していた。
ほら見たことかと母はやれやれと言った感じで父を睨みつける。
理絵の泣きわめく声が耳につく。
母が父に「まぁ、私が死んでも悟らの事頼んだよ。例の浮気した女とくっついてもええけど子供の事はしっかりな」言い残すようにして父に言う。
「まだその話してんのか。いや、だから、あれは悟の勘違いで俺が愛してるのは香織だけや!」真剣な面持ちで父がそう言うと医者が病室に入ってくるなり話始めた。
「お母さんは過労ですよ。ちょっと頑張り過ぎたみたいですね」父の顔が間の抜けた顔をする。
医者が悟と理絵に向かって言う。
「ママは死なんよ~」悟と理絵の頭を撫でて言うと医者は病室を去る。
理絵は泣き止むが悟は安心からか我慢していた涙が静かに流れ落ちる。
父は母に確認するように訊く「え、嘘なんか?」母が頷くと父は安堵感から腰が抜ける。
母が父の頭を撫でて「私も愛してるで」と満面の笑みで言った。
「悟も理絵もこっちおいで」母は悟と理絵を抱き寄せて慰める。
母は悟と理絵のお母さんである前に一人の女性なのだ。
その為に父の愛をこういった形で証明したに過ぎない。
小学生ながら悟は父と母のこんな姿を美しくも思った。
悟は自分も大人になったらこういう愛に飢えない家族を築きたいと。