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丸一日かかったお産で、無事に女の子が生まれた。
『慎之介に口元が……』とか、『おでこの辺りが登美に……』とか。双方の“お祖母ちゃん”が好き勝手なことを言い合っているけど。
とりあえず元気で生まれてくれたことに、ほっとして。
彼女の人生が、暖かくて明るい希望に満ちたものになるように、“陽望”と名付けた。
自分の名前が古風だったから、今風の名前に憧れが……なかったとは、言わない。
初めての育児は、思わぬことの連続で、途方に暮れる日だってあるけど。
一足先にママになった友人たちは、こんなことを軽々とこなしたんだと思うと……負けてられない。
負けを覆す努力こそが、成長の原動力よ。
慎之介さんは、さすがに理系と言うべきか。
二週に一度、お風呂あがりに陽望の体重を図っては、嬉々としてグラフに書き込んでいる。
「このグラフ、間違ってない?」
「なにが?」
「だって、ほら。線が、点を通ってないじゃない」
母子手帳の成長曲線をお手本にしたかのように、きれいな線がひかれているけど。
これは、ズルイんじゃないかな?
「このぐらいの差は、誤差だよ」
「ええー。そう?」
点が線の上下にはみ出したみたいになっているのが……誤差ぁ?
「そうなの。むしろ、折れ線グラフみたいに、ガクガクしたグラフは書かないよ」
プロのデータ処理はそういうもの、らしい。
実際、陽望はよく飲んでよく寝て。
確実に、成長している。努力だの原動力だのといった、理屈は抜きにして。
そんな陽望と二人で初めて電車に乗ったのは、四カ月健診の時だった。
平日の午後で、慎之介さんは仕事中。
ベビーカーに陽望をのせて、マザーバッグを肩から下げての、大移動。
目的地は、保健所のあるターミナル駅。
エレベーターを探して遠回りしながらのお出かけは、なかなか大変で。
独身時代みたいなオシャレな格好では、キツそうだ。
とりあえず、妊娠中に慎之介さんに止められたハイヒールの出番は、しばらく先になるかな?
やっとの思いでターミナル駅に着いて。
健診が行われる保健所への地図が載った案内ハガキを片手に、信号待ちをする。
これを渡って、右側が市役所、よね?
で、駐車場を過ぎて……。
考えながら周りを見渡している間に、信号が変わる。
人の流れに逆らわないように、でも“安全運転”で、ベビーカーを押す。
向かいから来る人にも注意をして……見知った顔と、すれ違う。
リョウだ。
あれは……間違いなく
リ ョ ウ だ っ た。
春まだ浅い季節。
寒そうにコートのポケットに手を入れて歩く姿は、現実以上の寒さに凍えているようだった。
いつも自信に満ちて、楽しそうに世界を見渡していた色素の薄い眼は、どんよりと濁って。
足元だけを見て、歩いていた。
苦しい道を、歩いているんだろう。
虹を目指して、空を見上げることすらできないほど。
短くなった髪と痩せたような頬に、声を掛けることもできないまま私は。
思わず彼から
目を背けて……しまった。
目を逸らした罪悪感は、彼らのホームページを見るたびに蘇って。
陽望のお世話が忙しいから……と、ネットは触らなくなった。
実際、夏を迎えた頃には、ハイハイのようなことをするようになっていた。その上、なんでも口に入れるから、目を離せないし。
離乳食は始まるし、虫刺されは腫れるし。
ケガをさせないように、病気をさせないようにと考えると、のんきにネットサーフィンなんてしていられなかった。
慎之介さん似ていたら、陽望も傷跡の残りやすい体質かもしれない。
女の子だから、なるべくキレイなお肌のままで大人にしてあげたい。
お化粧の楽しみだって、まずはキレイなお肌からよね?
そして、産休の明ける冬に向けては、保育所の手続きだとか、予防接種だとかで忙しくなる。
その合間を狙うように、風邪はひくし、お腹は壊すし。
そんな産休期間を過ごして。
お産の時に『行きたーい』って心の中で叫んだ喫茶店に行けたのは、産休もそろそろ終わりに近づいた冬の入り口。保育所の慣らし保育の時間を使って、だった。
カフェインがお腹の陽望に影響したら……と怖くって、妊娠が判ってからずっと来れなかったお店は、二年ほどの間に少し、改装がされたような気がする。
前の道とのちょっとした段差にはスロープがついて、片引き戸のレールは地面に埋め込まれている。
バリアフリーというのは、大げさかもしれないけど。ベビーカーで来ても入りやすい造りになったような……?
いや、私が気にしてなかっただけで、前からだったのかな?
店内が狭いのは、変わらないし。
そして、コーヒーがおいしいことも、二年前と変わらなかった。
陽望もしっかり歩けるようになって、保育所にも慣れて。今年も春が来る。
ゴールデンウィークはどうしようか、なんて相談をしているうちに年度が改まる。
「水族館に行ってみない?」
慎之介さんに提案したのは、その日の夕方、陽望が見ていた幼児番組でイルカやペンギンが出てきていたから。
イルカが笑っているような顔でお辞儀をするのを見て、真似をする。”こんにちは”のつもりか、『ちゃ、ちゃ』と繰り返す陽望。
そんな話をしたら、慎之介さんも乗り気で。
「俺の行っていた高校の辺りにあるな」
とか言って、調べ始める。
慎之介さんの母校より二つ北の駅から、歩きで……って所らしい。バスに乗るのも微妙な距離で、バギーを持って行けば大丈夫だろうという話になった。
「車で行けば、良いんじゃない?」
「いや、多分。連休中は駐車場がいっぱいになりそうって」
公式サイトには、『なるべく公共交通で』と、注意書きがされている。
「早く出ればいいのかもしれないけど、逆に早めに行ったつもりで待たされたら、陽望も退屈しそうだし」
「そうよね」
どっちみち、館内でぐずられたら、バギーには乗せることになるだろうし。
慎之介さんの休みと陽望の体調を考えて、水族館に行くことにしたのは、五月の五連休の初日だった。
紙オムツの入った小さいリュックを背負った陽望は、意気揚々と”お出かけ”に出発する。
その小さな手を引く私と、畳んだバギーを転がす慎之介さんに挟まれて、ご機嫌でバス停まで歩く。
初めての水族館は、入り口の大水槽でまず、陽望の足が止まる。
水中をはばたくように泳ぐエイに、口が開きっぱなしだ。
そんな娘の姿を、嬉しそうな顔で録画している慎之介さん。近いうちに、お正月からの映像をまとめてディスクに焼いて、両方の実家に贈ろうと、計画もしているみたい。
結婚するまで、テレビ番組の録画すらしなかった人なのにね。
人間、変われば変わるものよねぇ。
残念ながら、イルカの居ない水族館だけど、代わりにラッコがいて。クルリクルリと回転しては毛繕いをしている姿に、私の方が、はまり込みそう。
「ハルちゃん。ほら、ラッコさん、お顔を洗ってるねぇ」
お水が顔に掛かるのが嫌いな陽望だけど、ラッコの真似をして、ほっぺを撫でている。
「ハルちゃんと、ラッコさん。どっちが上手かなぁ?」
今夜、お風呂で頑張ろうね。
ラッコ舎の隣、ペンギン舎で陽望のご機嫌は最高潮。
お土産屋さんで、陽望が握るのにちょうど良いサイズの縫いぐるみを買ってあげると、『ンペ、ンペ』と言いながら、羽根をパタパタさせていた。
はしゃぎ疲れた陽望をバギーに乗せて、駅へと向かう。
ペンギンさんは落としそうなので、私のバッグに入れてあった髪ゴムを首のリボンに通して手首に繋いであげたら、陽望はうつらうつらとしながらも、時々思い出したように、頬ずりをしたりして。
慎之介さんと『かわいいねぇ』って、目と目で語り合う。
そして。駅につく頃、彼女はすっかり夢の中。
『切符を買って来るから』と、先に構内へと向かった慎之介さんを追いかけるように、ゆっくりバギーを押していく。
券売機に並ぶ人達をさけて、少し離れた所で立ち止まる。
私たちの左側から、陽望と同じ年くらいの男の子を抱いた男の人がやってきて。
何気なく見上げた先。
視線が交わる。
そこには、私にとって一年ぶりの再会になる、リョウがいた。
去年に比べて、顔色は良いみたい。
リョウも、パパになったのね。
そんなことを断片的に思っている私の前で、つかの間足を止めた彼は。
昔、ステージの上で見せていたような表情で笑いかけてきて。
左手と腰で支えるように子供を抱いて、空いた右手を胸元でグッと握る。
そして、三本の指が立てられて……次に人差し指だけを立てて見せた。
それは、二人の合図。
『トミィ。ステージでも、お前を見ている』
恋人だった当時、ステージから私だけに送られていたサイン。
「亮か?」
言葉は交わさないままで立ち去った彼の後ろ姿に、券売機から戻ってきた慎之介さんが尋ねてきた。
「うん。元気そうだったわよ?」
「そうか」
一年前の一方的な再会は、慎之介さんには話していない。余計に心配するだろうことは判っていたし、言葉にすることが辛かった。
「織音籠も、大丈夫かも……」
「何か言ってた?」
「ううん。話はしなかったから、多分、だけど」
「そうか」
差し出された切符を受け取って、代わりにバギーのハンドルをバトンタッチ。
二人並んで改札へと、歩き始める。
リョウの、あの合図。
今の私は違う意味に捉えた。
『トミィ。ステージの織音籠を見ていろ』と。
きっと彼らは、苦しい道を登り切った。
彼らの虹は、すぐ近くにあるのだろう。
その翌月。
織音籠の活動再開と共に、新しいアルバムがリリースされた。
タイトルは“RE-birth”。復活。
織音籠が、生き返る。
END.