中
晴れぬモヤモヤを抱えながら、月が変わる。
そろそろ入院の準備もしないといけないし、産休のための引き継ぎもしなきゃ。
そんな日常のあれこれを算段しながらお風呂に入っている私のお腹を、赤ちゃんはドカドカと蹴ってくる。
女の子、のはず。なんだけど。
今田さんの息子さんは、生まれる直前に一度、『男の子……じゃない? かも?』なんて言われたらしいから、この子も実は……?
「ヒヨちゃん、大人しくしてね」
お腹が張ったらしんどいのは、あなたですよぉ。
独り言のように話しかけると、ぐにゅぅと肋骨の下の辺りを通る小さな足の感触が、返事のように返ってくる。
踵かな、なんて思いながら、ちょいと摘まんでみたりして。
結婚後、“にわ とみ”なんて、ニワトリみたいな名前になったことと、妊婦向け雑誌のキャラクターに影響されて、お腹の赤ちゃんのことを“ひよこのヒヨちゃん”と、私は呼んでいる。
高校時代、友達から“ピヨ”と呼ばれていたらしい慎之介さんは、聞くたびに微妙な顔をしているけど。
まだ名前を決めかねているから……仕方ないよね? ヒヨちゃん?
お風呂を上がって、髪を乾かして。
美容院にも行かなきゃ、とか考えながら冷蔵庫を開ける。
取り出した牛乳を注ごうとしたグラスの向こう。慎之介さんが、ダイニングテーブルに一枚のCDを置いた。
「これって……?」
「今日、帰り道に買ってきた」
牛乳パックを手近に置いて。代わりにCDを手に取る。
織音籠、だ。
「最新、のミニアルバムよね?」
ジャケットでは、男女らしき二つの手が、指切りをしていて。
淡いフォーカスが、幸せな約束や未来を感じさせる。
「うん。登美さん、最近あいつらのこと、気にしてただろ?」
「そんな……どうして?」
分かったの?
「パソコンの履歴から」
「はぁ!? 履歴?」
「うん。ちょっと自分の調べモノをしててさ。履歴を辿ろうとしたら……」
毎日のように織音籠を検索していたのが、そんなことでばれるなんて。
うわぁぁ。
信じられない。
恥ずかしい。
というか……居たたまれない。
手にしたCDを、なんとはなしに、裏返しては表を向けてと弄ぶ。
久しぶりに彼らの曲を聴いてみたい気持は、検索を繰り返す毎日で育ってきてはいた。
でも。
「うちって、CDプレイヤーが無いじゃない」
慎之介さんは、テレビもほとんど観ない人で。結婚するまでビデオデッキも持っていなかった。そういう私自身も、あまり音楽は聞いたりしないから……。
「買っても、意味ないのに」
なんて、内心の聴きたい気持ちをごまかすように、わざと嫌な言い方をしてしまう。
そんな私に慎之介さんは。
「意味は、あるんじゃないかな?」
と言って、牛乳をなみなみと注いだグラスを差し出した。
小さく『ありがとう』を言って、受け取る。
牛乳はあまり好きじゃないんだけど、ヒヨちゃんのため。カルシウム補強だ。
「CD一枚なんて、ささやかなモノだけどさ。あいつらに対して『応援している。ガンバレ』って、意思表示になると、俺は思うよ」
「うーん?」
「そばにいて声援を送るだけが、応援じゃないだろ?」
「……」
「違うかな?」
そう言って、彼の指が私の喉のくぼみを指さす。
『頑張っている登美さんの傍に、いつもいるから』なんて言葉とともに、慎之介さんがプチダイヤのペンダントをくれたのは、私が真正面から仕事に取り組もうと、もがき始めた時のこと。
今田さんみたいな、“デキル女”に成りたいと、努力を始めた時のこと。
さすがにお風呂に入る時には外してあるけど。
鏡を見る度に目にする輝きは、私のやる気を掻き立ててくれている。
「それに、CDなら聴けるよ」
おいでおいでをする彼のあとについて、リビングへと向かう。
牛乳は飲み干して、グラスはシンクへ。
「パソコン?」
パソコンデスクの椅子に座るように言われて。
私を後ろから抱え込むようにした慎之介さんの長い腕が、パソコンを立ち上げる。
「データの読み込み用に、CDドライブがあるからさ。アプリケーションが入っていれば……ほら」
「あーっ」
本当に、動いた。
っていうか。これ、もしかしてパソコン教室で習った? かも?
再生リストには、四曲のタイトルが並んでいて。
一番目と三番目、二番目と四番目が同タイトルのアレンジ違いらしかった。
一曲目、英語の歌から順に聴いていく。
慎之介さんも、私の座る椅子の横で床で胡座をかいて、聴いている。
英語の歌詞は、聞き取れないし、意味不明だけど。
大人の落ち着き、かな?
私がライブに行っていた学生時代に比べて、なんとなく曲が優しい感じがする。
これはこれで、胎教によかったりするかも?
なんて、考えていての……三曲目、だった。
「これは……」
唸るような声が、隣から聞こえた。
私は上げかけた悲鳴を飲み込んで、口を押さえる。
ボーカルの声が、掠れる。
聞きづらいほど、儚い歌。
『体調を崩したのは多分、ボーカル』
今田さんの言葉の意味が分かった。ボーカルが歌えなくなったんだ。
そしてきっと。今田さんたちファンは、夏ごろからその事に気づいていた。
「あいつは、どうしてこう……致命的な……」
慎之介さんがため息交じりに呟いたのが、間奏と重なるようにして聞こえた。
「致命的、よねぇ」
「バレーをしていて、膝は壊すし。歌を歌って、今度は喉か……」
織音籠は中学・高校時代の友達同士が集まって生まれたバンドで。ボーカルもリョウと同じく慎之介さんの後輩だったらしい。
『先輩として思うことが、いろいろあるんだろうなぁ』なんて思いながら目を向けると、彼は左手で頬を撫でていた。
指先が、傷痕を辿る。
結婚の前の年、仕事中の事故で顔に傷を負った慎之介さんは、何かに気を取られた時には、こうやって傷痕を撫でる癖があった。
そんな彼の右手にあるCDケースを見て、日本語の歌詞だった二曲目はプロポーズっぽい歌だったなぁと、考えて。
なんでリョウたちは、こんなジャケットデザインにしたのかと、疑問が浮かぶ。
指切りをしている二つの手には、シンプルな指輪が薬指で光っていて。
一見して、夫婦の手だと思わせる。
ファンへの置き土産が、プロポーズで……結婚?
それとも、夫婦の約束?
「うーん……」
四曲目を聞き終わって。慎之介さんの手が頬から離れる。
「仕方ない、か」
「何が?」
「俺にできることなんて無いなって」
諦めまじりの声を上げて、慎之介さんが天井を仰ぐ。
「高校時代の誰か……から、繋ぎをつけて、とか考えたけど」
部活内の人脈から、リョウやボーカルの子に連絡を取れるか、考えていたみたい。
「まず、あいつらが部活内の誰かと繋がっている可能性が、低い」
「そうなの?」
「うん。あの学年は、全員が市内には住んでないみたいでさ。俺の同級生と飲みに行っても、噂以上の話題が出てこない」
私にとっては、意外だったけど。
慎之介さんの同級生に、リョウが崇拝していた”先輩”がいたらしい。
「リョウが崇拝? してたの? されてたんじゃなくって?」
デビュー前の学生時代でも、”織音籠のリョウ”として、性別を問わずに固定ファンがいたような男だったのに。
「普通、後輩を崇拝しないんじゃないの?」
「そう?」
「うーん。男のプライド、かな? 登美さんは、すごい後輩がいたとして、崇拝なんてする?」
「いや、すごい後輩なんて、居ないし」
学生時代は、他学年と交流しなかったし。
仕事の後輩は……止めておこう。考えただけで、なんだか情けなくなる。
慎之介さんと出会うまで、楽な方へと流されるように生きてきた自分を省みて、肩が落ちる。
「で、だな。もしも誰か、連絡先を知っていたとして」
「うん」
「それを俺が訊いてもいいのか?」
「ダメ、なの?」
「個人情報だろ? 」
慎之介さんの自問自答は、この前まで私自身が悩んだ道の少し先をいく。
個人情報なんてこと、考えなかったなぁ。
「その相手とあいつらのことを話すのも、さ」
「なぁに?」
「憶測と噂話の混じった、無責任な話になるのは、どうかと思う」
それを無責任と言って嫌がるあたりに。
“慎之介”の名前に恥じない、彼の誠実さを感じる。
「それに。あいつらと連絡がついたところで、何かができるのか? 俺に?」
「……そうなのよねぇ」
製薬メーカーに勤めている慎之介さんだけど、ボーカルが再び歌えるようになる薬を魔法のように作り出せるわけじゃない。
『できることなんて……』と言いながらも、やっぱり気になるのだろう。慎之介さんの手が再び頬へと触れる。
そんな彼の意識を少し紛らせたくって、さっきの疑問を彼に投げてみる。
「ね、どうしてリョウたちは、こんなCDを出したのかな?」
びっくりしたような顔で、慎之介さんが私の方を見た。
ふふふ。なんか、成功! って感じ。
「こんな?」
「結婚とか、プロポーズとかのイメージじゃない?」
一曲目は、よくわからないけど。
「うん。一曲目は多分、恋心を現している感じだったかな?」
「すごーい。慎之介さん、聞き取れたんだ」
いやいや、そんな。と、照れて赤くなる彼に、こっちの頬が緩む。
うん。なんか私も、さっきから変な力が入っていたみたい。お腹が張らなくって良かった。
ごめんね、ヒヨちゃん。
「たまたま、作っていた曲が……っていっても、このジャケットはないか。普通は」
「でしょ? バンドとしては生きるか死ぬかの瀬戸際よね?」
そんな時に、愛だの恋だのって浮ついたCDなんて、ファンは怒らない? 不謹慎だとかって。
「リョウなら、それくらいのファン心理とか、計算しそうなんだけど……」
「ああ、あいつなら、確かに。そうかも」
何かを思い出したように、慎之介さんが小さく笑う。
その笑いが、ふっと固まるようにして。
剥がれ落ちた。
「覚悟、か?」
呟く慎之介さんの手が、頬を撫でている。
「覚悟?」
「生きるか死ぬかの瀬戸際だけど、織音籠はファンと人生を共ににするぞ、とか?」
「はぁ?」
「だから。ほら約束」
「うーん?」
人生を、共に……の、約束。で、結婚?
「それとも……結婚相手は音楽か?」
「歌えなくなったのに?」
「だから、人生をかけて音楽やファンのところに戻ってくるって、覚悟じゃないかな?」
『もう無理だ』と、新しい仕事を探して、人生をやり直すべきなんだろう。そして、その方が彼らも、きっと楽なはずだ。
でも、それをしない“覚悟”を、公にしたのなら……。
「リョウたちは、厳しい人生の山を選んだのね」
「そうだな。どれくらいの勝算で、選んだ道なんだろうな」
困難な道を登り切った先には、美しい虹がある。
それが、私の名前の由来らしいけど。
私たち夫婦とリョウでは、登っている人生の道も、目指している虹の色合いも、全く違っていて。
昔の先輩だとか恋人だとかの過去の繋がりは、
あまりに儚すぎた
そして。ファンですらない私たちは、
あまりに無力すぎた。
祈る以上の応援ができないまま、日が過ぎる。
産休に入って、ゆっくりと家事をしながら、”その日”を待つ。
産まれるのは明日かもしれないし、来週かもしれない。
そんなある昼下がり。
テレビからあの、掠れたような織音籠の歌が流れてきた。
横になっていたソファーから、身を起こしてテレビを見る。
チャペルを歩く花嫁の映像に、歌が重なる。
活動は休止していても、こうやってCMに曲が使われることってあるんだ。
ささやかな出来事かもしれないけど。織音籠の覚悟に世間が応えてくれたような、気がする。
一生、守るから。
そんな意味のサビに、お腹からヒヨちゃんが、反応する。
「はいはい。ヒヨちゃんのことはお父さんとお母さんが、ずっと守るからね。大丈夫よ」
ドン。
「そうね。お父さんみたいな、カッコイイ彼氏が守ってくれるかもしれないわよね?」
ドン、ドン。
「うんうん。楽しみだよねぇ」
ヒヨちゃんは、どんな子に育って。どんな人生を歩くんだろう。
そう思いながら撫でたお腹が、キューっと固くなる。
おっと。陣痛の練習がきた。
習った呼吸法を思い出して、お腹から力を抜く。
壁掛け時計で、時刻を確認して。
波が過ぎる。
産気づいたのは、翌日の朝早く。
慎之介さんの車で、病院へと送ってもらって。彼はそのまま、出勤していった。
入院の手続きをして、実家にも連絡を入れて。
一人、ベッドの上で陣痛の波と向かい合う。
お昼前に、丹羽のお義母さんとお義父さんが、お見舞いに来てくれた。
「日付が変わる前に、生れるかな? って言われてるんですけど……」
日付が変わるまでって、あと何時間?
半日の陣痛でも、もう疲れ切った感じで伝えると
「まぁね。初産だしね」
と、お義母さんが仕方なさそうに笑う。
「稲本のお母さんは? 来られる?」
「あ、はい。午前中に電話は掛けたので、夕方には……」
「じゃぁ、その頃にでも。もう一度ご挨拶に来るわね」
「すみません」
「何か、ほしいものがあったら、買ってこようか?」
お茶? ジュース?
と尋ねられて、内心では『コーヒー!』と叫ぶ。
慎之介さんの実家からすぐの所にある喫茶店。コーヒーがおいしいのに、しばらく行けてない。
なんて、お義母さんの顔を見たら、思い出してしまった。
でも、テイクアウトなんてしていそうにない、こぢんまりしたお店だし。産婦がコーヒーを飲むわけにもいかないから。
産んだら。
退院したら。
絶対に飲みに行こう。
心の叫びを宥めて蓋をしたところで、次の陣痛がやってきた。
時計を睨む。まだ、間隔は縮まらない。
『じゃぁ、頑張って』の言葉を残して、お義母さん達が部屋から出ていく。
陣痛の波も過ぎたので、ベッドに起き上がって二人を見送ってから、枕元のお茶を手に取った。
その夜、慎之介さんは夕食を済ませてから、病院へと顔を出した。
「明日は、休みを取ったから」
「取れたの?」
「うん。産休」
「はぁ? なんで産休?」
子育て支援の一環とやらで、男の人にも産休がある会社もあるらしい。
「二日とれるから、あと一日は、退院の日にって。所長にもリーダーにも話は通してあるから」
「仕事は、大丈夫?」
「うーん。明後日は、泊まり込み、かも?」
研究の進み具合によっては、研究所に泊まり込むこともあるのは、付き合っている間から知っていた。だから毎日彼は、仕事が終わったら職場から連絡をいれてくるわけで。
最近は、そんなことはあまりなかった気がする。
「仕事の調整とか、していた? 最近は」
「いや? 別に」
と言いながら、彼の左手が頬を撫でている。
うーん。これは、ごまかし、に気を取られているのかも?
まぁね。『一人でいるときに産気づいたら……』って考えたら、彼が早く帰ってきてくれていたのは、正直ありがたかったけど。
仕事にしわ寄せは、して欲しくないなぁ。