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 朝ご飯の支度をしている私の背後、ダイニングテーブルの方から小さな声が聞こえた。

 包丁を置いて振り返る。

「なぁに? 慎之介さん?」

「あ。いや、別に」

 夫は、軽く首を振りながら新聞をめくった。


 仕事の何か……気になる記事でもあったのかな?

 まぁ、突っ込んで聞いても。研究職に就いている彼の仕事って、私には理解できない世界だし。



 そう考えて、刻んでいたネギをお味噌汁のお鍋に放つ。

「そろそろ出来上がるから、新聞は片づけてね」

「分かった。ご飯をよそおうか?」

「お願いできる?」

 新聞を畳む音を聞きながら、包丁を洗って。

 手を拭いている私の隣に並んでしゃもじを湿らせた彼が、炊飯ジャーへと向かう。



 結婚からそろそろ一年。二人で過ごす生活にも、一定のリズムができてきて。

「ほら、味噌汁も俺がするから。登美さんは座りなよ」 

「大丈夫よ? これくらい」

「見ていて怖いから、俺がやる」

 『一人の体じゃないんだから』なんて言いながら手を差し出す彼に、お味噌汁のお椀を渡すのも、毎日のことになった。



 年度末にわかった妊娠も、もうすぐ後期。だいぶんお腹が目立ってきた。

 子供時代に熱湯で大火傷をした経験のある彼は、夏を過ぎた頃からとても心配性になって。『お湯を零したら……』『手が滑ったら……』と、お腹に火傷しそうなことから私を遠ざけようとする。

 料理に関してはまあ、任せてくれているけど。



 その日の帰宅予定なんかを話し合いながら、手早く朝食を終える。

 私が身支度をする間に、彼が後片付けをしてくれるのも、いつものことで。


 慎之介さんの運転で駅まで送ってもらって、私も仕事へと向かった。



 出勤は、ラッシュを避けた早めの電車。オフィスビルの守衛室を覗いて、鍵の有無を確認する。

 今日は、私が一番のり。 

 鍵を片手に鼻歌まじりでエレベーターに乗って、三階へ。


 セキュリティの解除をしている私の横で、ゆっくりとドアが開く。

「おはようございまーす」

「おはようございます」

 こちらから掛けた挨拶に返ってきたのは、営業支援係の今田さんの声。

 私よりも一歳年上の彼女は、この春に産休から復帰してきた“先輩ママさん”で。どっちが早く出社できるかの競争をしているわけではないけど。

 なんとなく”勝った”気分。



 結婚まで総合職でキャリアを積んで、”営業のお局”なんて陰では言われていた今田さんは、始業時間のかなり前に出勤してきては仕事を始める人だった。

 その習慣は一般職に異動した結婚後も、保育所のお迎えの為に定時で上がるようになった産休明けも変わらなくて。

 数年前から経理部女子で最年長になってしまった私にとって、部署は違っても目標としている先輩だった。 


 この日も、カバンを置くのと同時にパソコンを立ち上げる……のだと、思っていた私の予想を裏切って。

 パーティションの向こうからは、いつまでたっても起動メロディーは聞こえず、椅子のきしむ音だけが聞こえてきた。



 少し気になって、自分のデスクへと向かう前に、営業部スペースを覗いてみる。

 今田さんは、組んだ手の上に顎を乗せるようにして、真っ暗な画面とにらめっこをしていた。


「あの、大丈夫ですか?」

「あー、うん」

 気の抜けたような返事をしながら、今田さんが紙カップに口をつける。見たことのないカップだけど、どこかの店のテイクアウトらしい。

「もしかして、朝ごはん、食べてないんですか?」

「それは、大丈夫」

 大丈夫、と言いつつも。ため息がまた一つ。



「いやぁ、自分がこんなにショックを受けるとは、思ってなかったわ」

 もう一口、カップに口をつけて。今田さんが独り言のような言葉を落とす。

 深刻そうな声に、修羅場の気配。 

「……夫婦喧嘩、とか……」

 恐る恐る尋ねると、小さく笑われた。

「あのね。好きなバンドが活動休止してね」

「はぁ?」

「笑っちゃうでしょ?」

「あ、いえ」

 笑うというより……意外。


 仕事と結婚しそうだった今田さんが、私よりも早く結婚したときにも、驚いたけど。

 今田さんと”好きなバンド”って。


 似合わなすぎ。



「今田さんって、何を聴くんですか? 普段」

 流れと好奇心で尋ねてみる。

「丹羽さん、織音籠(オリオンケージ)って……知ってる?」

 出てきた名前に、息が止まるかと思った。


「あー、学生時代に……」

「って、インディーズの頃よね?」

「そう、ですね」

「よく知ってたわね」

 感心したような声を出す今田さんは、私が濁した語尾を『聴いたことがある』もしくは『聴いていた』と、脳内補完したらしいけど。   



 織音籠は

 学生時代に付き合っていた彼氏のバンドだった。



「活動休止って。何があったんです?」

「メンバーの病気療養って、今朝の新聞には書いてあったわね」

 その言葉に、今朝のワンシーンが脳裏に浮かぶ。


 慎之介さんの小さな声。

 何かをごまかすかのような……返事。


 あれ、か。


 今田さんが言うには、夏ごろからおかしな気配はあったらしい。

「病気って、あの……誰が?」

「詳しくは発表されていないけど。多分、ボーカル」

 ああ、よかった。

 “彼”は、キーボードだ。 


 鍵盤を弾くことに特化したかのような、指の長い彼の手を思い出す。



 『話してすっきりした』と、今田さんがパソコンの電源を入れて。

 私も仕事を始めるべく、自分のデスクへと向かうけど。 


 すっきりしたという今田さんとは逆に、私の胸の底に冷たい塊が生まれた。


 活動休止って。

 それは、つまり……失業?


 (リョウ)は。

 彼ら(織音籠)は。

 この先、どうなるのだろう。



 仕事中は忘れていた、そんな思いは、帰りのバスで再び浮かんできた。


 数年前、慎之介さんとのデート中、ばったりと出会ったリョウは、人生を重ねる相手がいるらしく、幸せそうに笑っていた。

 高校時代は慎之介さんの後輩だったなんて話も、その時に聞いたっけ。

 そして『トミィ。丹羽さんに、幸せにしてもらえよ』って、去り際に言ったリョウ。


 決して、嫌いになって別れた訳じゃない。

 ただ彼にとって、織音籠が私よりも大切になってしまっだけ。

 それを私が、許せなかっただけ。


 私にとって最初の彼氏だったリョウは、別れた男達の中で一番、私の事を人として大切にしてくれた人でもあった。



 家について、夕食の支度をして。

 慎之介さんが退社時にかけてきた電話から考えれば、あと……二十分くらいで、帰ってくる。

 その僅かな時間に、朝刊を広げる。


 彼が見ていたのは、一面に近い方だったか、遠い方だったか。

 おぼろな記憶を辿りながら、小さな記事も見落とさないように、丁寧に紙面を追う。


 見つけたのは、真ん中近く。

 紙面の下半分を使った広告で、近いうちにリリースされるミニアルバムをファンへの置き土産として、活動を休止することが告知されていた。



 『自分がこんなにショックを受けるとは思わなかった』

 今田さんの今朝の言葉が、身に染みて。

 下腹部が固くなる。


 マズイ。お腹が張ってきた。


 ダイニングの椅子から、ゆっくりと立ち上がって、両の手でお腹を支えるようにしながらリビングのソファーへ。

 そろりと横になる。

 深呼吸をする。


 精神的な衝撃が、子宮を強ばらせている。

 固いお腹に触れた手に赤ちゃんの形が感じとれた気がして、子宮が赤ちゃんに密着している錯覚を覚える。

 

 赤ちゃんに酸素を送らなきゃ。

 赤ちゃんを締め付ける筋肉を緩めなきゃ。

 赤ちゃんが……苦しむ。

 


「ただいま」

 リビングに入ってきた慎之介さんの声に、横になったままで『お帰りなさい』を言う。

「登美さん、どうした? 具合悪い?」

「ちょっと、お腹が張って……」

 違和感はまだあるけど、落ち着いた。かな?


「夕食の支度は、できそう?」 

「中華丼にしようと思ってて。あとは炒めるだけ」

「それくらいなら、俺がする」

 脱いだジャケットをソファーの背もたれに掛けた慎之介さんはそう言って、ワイシャツの袖を捲る。

 私も起き上がって、キッチンへと向かう彼のあとから、ゆっくりとついていく。



「あ……これ」

 どっこいしょと、ダイニングの椅子へと座った私の横で、テーブルに広げたままの新聞に手を伸ばした慎之介さんが、困ったような声を出す。

「登美さん、見たんだ?」

「うん。職場の先輩から聞いて……」

 やっぱり。彼が妙な反応をした今朝の記事は、これか。 


 彼が無言で畳んだ新聞を受け取って、テーブルの足元にあるラックの中へと落とす。

 その間に慎之介さんは、大きなハイビスカスがプリントされた私のエプロンをつけて。シンクで手を洗っていた。



 その夜、寝るまでの間。夫婦の会話に“織音籠”の名前が出てくることはなく。

 夜中に目覚めたベッドの中で、夫の寝息を聞きながら、とりとめも無く考える。


 私とリョウの道ははるか遠くに別れてしまって、

 彼のためにできることなんて何もない。

 そもそも、彼の”今”を知る術すら、私にはない。



 翌日の夜、インターネットで調べてみた彼らのホームページにも、新聞発表以上の情報はなくって。“ファンクラブ限定ページ”なら何か……と思うけど。


 なぁんで、ファンクラブの募集が止まっているわけ?

 って、活動を休止してるからか。


 リョウらしいケジメなんだろうけど。

 こうなると、恨めしいなぁ。


 パスワードの入力を求めるポップアップを、睨みつける。リアルにある入口なら、ドアに爪を立てたい。ガンガンと、拳で叩きたい。


 慎之介さんがお風呂から出てくる音に、慌ててパソコンの電源を落とす。

 疚しいことをしているわけではないけど。

 なんとなく……彼には、見られたくなかった。



 その後、会社で今田さんと織音籠(彼ら)についての話をする訳でもなく、家で慎之介さんにモヤモヤをぶつける訳にもいかず。

 言いようのない重たい気持ちを持て余す。


 学生時代の友達には、織音籠のメンバーと付き合っていた子が他にも何人かいたけど。みんな結婚しているから、“昔の彼氏の話”をするためだけに電話をかけるのは……ダメだろうねぇ。逆に私のところに掛けてこられても、困ってしまうし?

 “メンバーの彼女”の一人が、卒業後も彼らと付き合い続けているらしいことは、数年前に見かけて知ってはいる。

 知ってはいるけど。あの子とは、仲良くなかったしなぁ。

 って、そもそも、連絡先どころか名前も知らないし。


 かといって。

 慎之介さんの目を盗むようにして検索をかけたネットでは、ファンのブログくらいしか見つけられなくって。



 彼らの現状が分からないことが、

 もどかしくって

 たまらない。

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