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美咲の見た悪い夢の終わり、そして始まり。
心の傷を抉って生きた少女(美咲)と彼女に訪れたごく平凡な、ありふれた夜明け。
朝、目を覚ますと香はいなかった。
私だけが部屋に取り残されて、置時計は八時を指していた。
今から出ても講義には間に合わない。香のせいで朝寝坊だ。
何故起こしてくれなかったの、と言いかけて口を噤んだ。
朝、一人で時間を過ごしたのは同じ事で、香は眠っている私を気遣って、起こさないように出て行った。きっと明朝の眩い光も降り注がない、しんとした青い空で満たされた部屋を、何も言わずに出て行った事だろう。私はその時どんな風に見えていただろうか。
軽率にも他人の家に上がり込む、無神経な人間に見えただろうか。それでも友達だからと許してくれたのだろうか。
それは香だけが知っている事だ。私が無理に詮索する必要は無い様に思われる。
結局はそれが知りたかったのだ、と腑に落ちる。私は、そう言う人間。
裸足のまま歩み出したフローリングの床は、差し込む日光で少し暖かくなっていて、鮮明に焼き付いていた、あの人との冷たい交わりを、ほんの少しだけ無かった事に出来た様な気がした。私の足の指に居場所を作ったそれは、水族館の広場でくるくると踊る子供達の笑顔を思い出させる。何の意味も成さない、日常のありふれた、けれど大切な光。
あの暗闇に閉じ込められた時、私にはそうするしか道が無いと思っていたのに、そして自分自身にそう思い込ませていたのに。
それは本当に、こんな簡単な事であっさり更新されてしまうものなのだ。
酷い事をされて、愛しても愛されてもいなかった筈なのに、忘れて行ってしまうであろう彼を、少し可哀想に思った。彼なりの愛を、私は受け止める事が出来無かった。
でも、それは決して幸せな事では無かった。私自身がそれが自分の幸せだと、そう思い込んでいただけだった。だから、香は「こっち側」に私をわざわざ連れてきた。
彼は幸せそうだった。誰も見ないであろう、ぶよぶよした水母を「綺麗」と形容した。
その時だけ、私は彼の水母になれた気がしていた。ただの逃避、そして綺麗な水母には後ろ暗い過去は必要無い。水槽で何も考えずにふよふよと浮かんでいる、可愛らしい水生生物。でも本当に、私に降りかかった不幸な事実。ちょうど衝撃的な一言を言った時に、舞台が暗くなって何も見えなくなる様に。
そんな風に愛されても尚、彼を忘れて生きてしまうのも、きっと私と言う人間の一部分。分かってもらえなくていい、だって私はあなたじゃない。水母でも無い。
水母として愛される私より、我儘で自分勝手な、それでいて無責任な私がただただ「私自身」だったから。暗闇に閉じ込められた時に見つけた自分自身を、今更誤魔化す事は出来なくて。
それはきっと、抵抗もせずに男に体を許した弱い私を、なるべく遠くに遠ざけたかったのかも知れない。
無言で台所へ向かう。勝手に借りているけど、使わないと何も作れない。
ポットはコンセントが抜かれていて、中の水は冷えていた。若干雑にコンセントを挿し直して冷水がお湯になるのを待つ。静かな部屋に、水が温まる音と経過する時間が流れていた。
ちゃんと会って直接伝えるべきなのだろう。シンプルな食器の底に、コーンポタージュの粉末が溜まっていくのを見ながらそう思った。こうやって、私を犯した「あの時の彼」も、呑気にドーナツを買いに行っていたのだろうか。何の罪悪感も抱かずに、呑気にお菓子を買いに行っていたのだろうか。口笛でも吹きながら、上機嫌に。
重大で致命的なその傷を思い返しても、もう痛まない事実が却って私を淋しくさせた。
誰もいない部屋は、こんなにも静かで無意味な空間なんだと思うと、自分の心の中に逃げ込んだ様な気がする。そうしたかった筈なのに、誰かに意図されたかの様に思えるのは、そのせいなんだろう。彼からの連絡を待つだけの携帯は、もうここには無い。理不尽に侵されたと言う事実を確認する、病的な手段も手元から消え去って行く。
砂のお城の様に、消えて無くなってしまう許しがたい過去の傷跡。それはもう思いだすべきでは無い筈なのに、火傷の様に痛みを残して行く。
風に吹かれて静かにカーテンが揺れる。今日はもう休んじゃおうかな、と思うと少しだけ笑みがこぼれた。それは私にとってとても重要な事で、当然に存在していて、でも知らなかった事の様だ。ガラスに区切られた向こう側の世界は、もう燦々と輝いていた。
香、早く帰って来てね。いってらっしゃい。
光の射しこむ小さな空間には、私とそれらの言葉が形を無くして溶け合っていた。