五話
彼女と「香」と言う存在。
「香、見て見て、ほらあれ、ジンベエザメ」
休日、香と水族館にやってきた。お互い時間が空いていたらしく、丁度、私が水族館に行きたいと提案したのだ。香は「何で今更水族館なの」と笑っていたけど、久々に来た水族館を楽しんでるみたいだ。
「でっかいねー」と言いながら、香は片手に持ったコーラを口に含む。その隣で私は自分の携帯電話で、悠々と飛ぶように泳ぐジンベエザメを撮る。
「飛んでるみたい」と私は小さく呟いた。大きな鰭はまるで翼の様で、沢山の水性生物の長と言った貫禄だ。巨大な水槽と言う空間を、まるで何時もの事であるかの様に横切っていく。飛ぶはずの無い鯨が、飛んでいるみたいだ。
ぼんやりした気持ちでジンベエザメを見入っていたら、香が手に持っていたコーラの瓶を差し出した。コーラはまだ8割ほど残っている。私は無言でそれを手に取った。
平日だからか水族館はいつもの様な賑わいは無く、ひっそりとしていて、少し異質な雰囲気を醸し出していた。それでも文句ひとつ言わない香が、私には誇らしかった。香は私に何があっても詮索しない。
ごくりと喉を通り抜けたコーラの甘い香りが、鼻を抜けていった。砂糖水のしつこい甘さが炭酸で中和されて少しお腹が満たされる。また瓶口を口に運びそうになったけど、全部飲み切ってしまいそうで止めた。
「ん、ありがと」
8割程残っていたコーラは半分を切って、持ち主の元に返る。近くにやってきたジンベエザメに驚いた子供達は、歓声をあげて通り過ぎていく。一団が通り過ぎた後、「何かあったの」とだけ呟いた。
否定も肯定も、私には出来ない。する資格がないとすら思った。私は何も答えず、水槽の中を泳ぐ魚達を見ていた。青く光る水槽だけを、見ていた。誤魔化す事すら、香への裏切りになるんじゃないだろうかと。
「…コーラ飲めないって言ってたじゃん、甘過ぎるからって」
しばらくの間私の顔色を伺っていた香が、水槽に目を向けたのが分かった。
「昔の事でしょ。今は飲めるよ、コーラ位」
そう言われて始めて、ちゃんと言葉を返した。それは嘘でも無くて。確かに甘過ぎるけどさ、と付け足した。
私達の斜め前で、一組の夫婦がデジタルカメラで記念撮影をしている。撮影を任された通行人が持っているそれはとても昔に発売されたタイプのものだ。
モップとバケツを持った水族館員がサッと前を通り過ぎる。香は手に持っていたコーラ瓶をサッと隠した。
その慌てた様子が可笑しくて破顔すると、香もつられて小さく笑った。