四話
彼女と「香」と言う存在。
薄暗い廊下は絶好の避暑地。
今日も晴天である。耳にはイヤホンをして、完全に周りからの刺激をシャットアウトして目を閉じる。少し火照った頬と冷たい壁のその温度差は、とても心地よく感ぜられた。
そうしてしばらく目を閉じていると、瞼の裏に闇が落ちてくる。余計な事は考えずに、今はBGMだけが頭を満たしている。
「美っ咲ぃー」
と、後ろの方から聞き慣れた声がした。目を空ける事すら億劫になった、弛緩した頭をのろりと声の方へ向けて(呼び間違いかなと思った)みると、そこには見知った友人がいた。大学に着いてもイヤホンを外さずに音楽に耳を傾けていたから、急に名前を呼ばれて少しびっくりした。
「おっすおっす」
食堂で買ったであろう菓子パンを頬張りながら、香かおるが歩いてくる。いつもながら府抜けた大型犬を思わせる雰囲気だ。今日は化粧をしていない。私もだけれど。
線を引いた様に、横にきゅっと伸びた一重の目は少し垂れていて、つい心を許してしまう安心感が彼女からにじみ出ている。
右手に握られている菓子パン(旺盛な食欲故、残り少ない)は、ストロベリージャムパンの様だ。無言で拝借しようとしたら、寸度の所で脇に避けられた。お気に入りらしい。
ちらと腕時計を見たら、10時15分。まだ時間がある。
目の前で菓子パンを貪る香を見て、少しお腹が空くのを感じた。それにしても美味しそうに食べる。今日は一人なのかと聞いたら、友達と違う時間割の日だったから。と言った。そう言いながらもパンを頬張る為、ストロベリージャムパンの残りは後わずかである。鞄から財布を取り出して、残金を確認する。
「美味しそうね、それ。まだ残ってた?」
香は無言でこくこくと頷く。口の端に赤いジャムが付いているが、面白いので黙っておく。
よほど美味しいのだろう。ちょっと羨ましくなってきた。
そう言えば「彼」は何が好きなのか皆目検討つかない。大事な事だけ切り貼りして繋がっただけの関係にそれは不粋なのかも知れないけれど、まず海月が好きな事は知っている。水生生物を見るのが好きなのか、海月そのものが好きなのか、正直分からないけど。
声を潜めて、それちょっとちょうだいと言ってみたら香はそれを差し出した。一口大にちぎって食べてみる。甘酸っぱいジャムと、ふわふわしたパン生地が口いっぱいに広がる。
「これは美味だわ」
「でしょ」
私にはまだ時間がある。
それまで退屈な彼の為に、色んな話をしてみるのもいいだろう。
次会う時には香の話をしてみたらいい。「そう言えばxxx君はジャムパン好き?」なんて、聞いてみよう。
香はまた一口パンを頬張って、嬉しそうに笑っている。