No. 2
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七月二十二日。水曜日。
クラスメイトの柊さんから、僕が通っているこの高校のグラウンドに関する噂を聞いた翌日の朝。僕のクラスの担任、織原宗也が教室へ入室してくる中、僕は柊さんの口から語られた噂を思い出しながら考え事をしていた。
織原先生はいつも気だるげで、ホームルームなんて聞き流しても大して支障が無いようなことしか話さない先生である。昨日のホームルームでは、また名前を宗也と間違えられたという話をしていた。よく名前を間違われることが悩みらしい。心底どうでも良かった。
彼の特徴についてもう少しだけ付け加えるなら、彼は日の光を基本的に浴びたがらない、ということだ。彼は入室して最初に、絶対に言う言葉がある。
「はい、窓側~。カーテン閉めろ~」
この言葉から僕の学校は始まる。今日も一字一句たがわず、まるでそう言うのが決められているかのように完全に同じ言葉を彼は口から吐き出した。
……っと、こんなことはどうでも良いことで、彼の行うホームルームもどうでも良いことで、僕の意識は昨日の放課後、彼女と交わした会話へと向けられていた。
全ての授業が終わり、部活というものに所属していない僕は、家に帰るために教室から玄関へと直行していた。
「あ、室戸くんだ~」
誰もいない廊下を歩いていた僕に、透き通るような声で話しかけてきた人物、柊さんが駆け寄ってきて僕の隣に並ぶ。
「柊さんは部活とかには入ってないの?」
「入ってないですな~。室戸くんは? 部活には入らないの?」
「入らないですな~」
数ヵ月前に僕はこの町へ引っ越してきた。つまり、僕は転校生である。今の時期は七月であるが、僕は高校二年生。それがまだ高校一年生だったとしたら部活にも馴染んでいきやすいだろうが、二年生となるとなかなかそうもいかない。しかもただの二年生ではなく、転校してきた二年生。
僕達はそのまま横並びで歩き、玄関へと辿り着くと男子用と女子用で下駄箱が分かれているので必然的に僕達も左右へと分かれていく。
「あ、そうだ。室戸くんに話したいことがあるんだった」
下駄箱に脱いだ上靴をしまい、外靴を取り出した僕は声に反応してそちらへ体を向ける。
柊さんは背伸びして自分の靴を手に取ると、雪のように真っ白な美しい髪をなびかせながら振り返る。その姿はキラキラという擬音が聞こえてきそうなほどに綺麗なものであった。
「ん? 私に何かついてる?」
「いや、何でもないよ」
かわいい。背伸びしないと下駄箱に手が届かないところとか特に。
「で、話したいことって?」
僕は置いた靴に足をいれる。
「あぁうん、えっと……あれ……?」
しゃがんで手に持った靴を置いた柊さんは、不思議そうな声でそう呟くと立ち上がってう~んとうなり始めた。
「ん? どうかした?」
「いや、ちょ、ちょっと待ってね室戸くん」
広げた左手を突きだし待ったというジェスチャーをしながら、彼女は右手で額をおおって何かをブツブツと呟きだした。
「だ、大丈夫柊さん? 頭が痛いならとりあえず保健室に」
「ありがとう室戸くん。でも違うの……大丈夫だから……これは頭痛とかじゃなくて、違うものだから、大丈夫……」
「そ、そうか。大丈夫なら良いんだけど……」
僕は柊さんのことを心配しながらも、それ以上踏み込んで何かを聞こうとはしなかった。言われてみれば確かに、痛がっているだとか苦しんでいるだとか、そういった様子ではないようであった。ただ、強いて言うなら、何か焦っているような、そのような感じ。
「……そうだ、思い出した……あ、あはは、最近どうも忘れっぽくてさ~」
柊さんはそう言って照れくさそうに笑う。笑う彼女は先程とは違って、いつもと同じような雰囲気へと戻っていた。
「ねぇ室戸くん。君はあの噂を聞いたことがある?」
「ん、何、噂? 何の?」
「グラウンドの噂だよ。室戸くんは聞いたことはある? ──この学校のグラウンドの広さが変わるって、そんな噂を……」
「グラウンドの広さが、変わる……?」
正直言って、初耳だった。数日前までは別の噂が広まっていたりしたのだが、また新しく噂が流れ始めたようだ。この学校の生徒は皆噂好きなのだろうか。
「……いや、聞いたことないな。どういうものなの? その噂って」
「なんでも聞いた話ではね、話が食い違うらしいんだよ」
「食い違う?」
「そう。これは生徒会の友達が言っていたことなんだけれどね。ほら、この前の学校祭の時とかにグラウンドにテントを立ててたりしたでしょ? ああいうやつの準備の時に話し合う機会があったらしいんだけどさ」
「そこで、話が食い違った……?」
「そうらしいんだよね。お互いの言ったグラウンドの広さに違いがあったみたいでさ、それで他の人にも話を聞いたりしたら更に食い違っていって……」
「グラウンドの広さが変わるって噂になったってわけか……」
なるほど。まぁ、確かに、そういう話になってもおかしくはないかもしれない。普通に考えたら、誰かの答えた広さが正しくて、それ以外の人物が勘違いしていただけ、とか、そういった話に落ち着くのだろうけれど。
そうならないのはきっと、そうじゃない方が面白いから。不可思議で原因不明で、謎めいていた方が素直に現実を見つめて真実を知るよりも面白いから。週刊誌などに書かれた有名人の根も葉もない噂を取り沙汰するように、不確かでない情報と知っておきながら騒ぎ立てるように。その方が面白いから、そういったことになり、こういったことになる。
僕はそういった証拠の無い噂をネタに有名人を貶めたり嫌いになったりとかはしないたちなので、そういう人の気持ちや考えはいまいち理解できないのだが、今回の件に関して言えばいくらかわかる気がしないでもない。無くても別に困らないが、例えば七不思議のような、そのような噂話があれば胆試し等のネタに、いや、ネタにできなくともタネにはできるかもしれない。話のタネ程度には、できるかもしれない。
「で、僕にその話をしたかった、ということは……」
校門まで一緒に歩いてきたところで、僕は彼女に視線で問いかける。話しをしたかった、その理由をほぼ確信しながら。
僕の視線を受けた柊さんは微笑んで返事を返す。
「そう! そういうこと!」
「え~、それじゃあホームルームは終わりなんだが~……誰か宇賀神の遅刻、または休みの理由を知ってる奴はいるか~?」
「……」
僕はホームルームの間ずっと、めくったカーテンの向こうにある空の様子なんかを見ながら、これから僕がすべきことを考えていた。つまり当然、必然的に織原先生の話は聞き流していたのだが、宇賀神という名前に反応した僕はカーテンを戻して教室の中を確認し始めた。
おや、確かにいないようだ。宇賀神さんにしては珍しいことである。……いや、話したこともなければ観察なんてことをしたわけでもないので、珍しいとか珍しくないとかは判断できないわけだが。
「誰も知らないのか~? はぁ……それじゃあ、今日のホームルームは終わりだ。号令を」
「ちょっと待ったぁ!」
いきなり大きな声が聞こえたかと思えば、教室前方の扉が勢いよく開け放たれる。
荒くなった息を、膝に手をつきながら整える彼女は、少しすると一つ大きな深呼吸をしてこう言い放った。
「ギリギリセーフ!」
「アウトだバカ」
「ふがっ」
宇賀神さんは織原先生のデコピンをくらってのけぞった。
「何するんですか先生!?」
「うるさい。少しは声のボリュームを抑えろ……ほら、遅刻なんだから遅刻届け書いてこい」
「それならここに」
宇賀神さんはそう言うと……どこかから遅刻届けらしき紙を取り出した。どこから出したんだ今の……動きが見えなかったぞ今……!?
「それじゃあ、私は座らせてもらいまー」
「おいちょっと待て宇賀神」
目の前を通りすぎようとした彼女の首根っこを織原先生が捕まえて目の前に引っ張り戻した。
「何なんだこの理由。『冒険者じゃなくなってしまったから』って……お前は中二か」
織原先生の突っ込みに返す彼女はとても言い顔で、哀愁漂う姿で言い放つ。
「膝に、矢を受けてしまってな……」
「どこの衛兵だよ! あ~……もういいわお前……さっさと座れ……」
敗北を喫した織原先生は、よりいっそう気だるげな姿で教室から出ていった。
「……」
僕は、今の一連の流れを記憶から消し、気にしないことにした。彼女が異常なのは今に始まったことではない。それよりも今の僕にはもっと大事なことがあるのだ。
「……そうだ。昼休みに山田にでも話を聞いてみようかな」
噂好きの友達である彼なら、グラウンドの噂についても何か有益な情報を持っているかもしれない。
「……僕は、別に調べる必要は無いと思うんだけどなぁ……」
一時間目の授業の準備をしながら、僕は柊さんが昨日、去り際に言い放った言葉を思い出しため息をついた。
柊さんは満面の笑みで言う。
『グラウンドの噂の真相、また一緒に解明しようよ!』