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鼠の目3

作者: 土成 謹造

鼠の目1 http://ncode.syosetu.com/n4350c/

鼠の目2 http://ncode.syosetu.com/n4350c/


からの続きです。


<主な登場人物>


オレ=初老のフリーランス便利屋、通称、鼠。説教多し

オカマのマリー=オカマバーの女将、陸上自衛隊OB

ケンスケ=オレの助っ人、仏外人部隊脱走兵

山下=定年前の所轄の刑事

和田さん=事務所の雑用を請け負ってくれている素敵な女性

和田洋子=和田さんの一人娘

川崎真知子=オレの依頼人。川崎徳一の孫

川崎真理子=真知子の妹

徳永高男=波動研究会の会長、川崎徳一の嫡外子

後藤=徳永の部下、事務方、対外折衝部門の長

宮崎一平=和田洋子のサークル仲間。波動研究会の末端メンバー

長田=波動のメンバー、徳永の非公然活動を担う

滝川順平=靴屋の隠居、川崎徳一の戦友

川崎徳一=本名・李光徳、川崎姉妹の祖父

川崎聖一=川崎徳一の息子であり、川崎姉妹の父。徳一の死後、失踪

上島上等兵=滝川、川崎の上官。こすからい古参下士官

川崎徳一には信念があった。

東アジアの覇権は朝鮮族が握るべきだ、という信仰にも近い確信だった。

ブリヤートほか北方民族、女真ほか満州族、漢民族、日本、それらの中心は朝鮮でなくてはならないというものだ。

いってみれば大東亜共栄圏の朝鮮版だろうか。

敗戦まで徹底して差別されたことに対しての怨念が、狂信に代わったともいえる。

その荒唐無稽はさておき、川崎は渡海民たるべし、ということを述べたという。

単純に東アジアに朝鮮の覇権をたてるのではない。

東アジアの文化をすべて統合し、その接着剤たるべきだ、と力説したという。

つまり東アジアの祭祀を司ることを企図したのだ。

果たしてその目論見が今のネット社会に受容されるか否か、はなはだ疑問な気がする。

しかし、川崎には直感があった。

東アジアの民には、得体の知れぬこと、あるいは不明なことは、なんらかのメタな現象に置き換えようとする抜きがたいDNAを持っていると睨んだのだ。


たとえば血液型占いという非科学的事象への無条件な依存。

宗教、カルト、霊的世界、スピリチュアルの曖昧からくる判断停止的行動。

現在、将来の不安を霊的過去に付会しようとする自助努力の欠如。

性善説に基づくインチキ占い師への無邪気な帰依。

簡単にいえばこういうことだ。

血液型による性格判断や傾向をいうのは世界の中でも、東アジアだけだ。

性格が四つであるわけがない、ということは三歳児でも理解できるはずだ。

またいおう。

今ある不安が過去の霊的世界の因縁であると納得してしまうこと。

またそれを煽って金儲けをたくらむ「ヒーリング」や「スピリチュアル」に名をかりたインチキやカルト。

それを許す幼稚であなたまかせな相互依存の甘えた精神構造。

科学用語で韜晦するあざとい非科学的世界。

これらすべてが東アジア人民に当てはまるわけではなかろうが、全体を通底する主旋律になっていることは間違いない。

川崎はここに目をつけた。

精神世界。

あるいはカルト。

あるいは科学に立脚させるようにみせるチープトリック。

それは基本的に祭祀の世界である。有無をいわせぬ物理量で圧倒し、得体の知れぬものへの畏怖の強制だ。原始世界から刷り込まれた東アジア人民のDNA操作だ。

そのことを担保するものはなにか。

川崎の結論は、血、だった。

日本の最高祭祀と朝鮮の最高祭祀。

すなわち皇室と朝鮮王族の血、である。

そしてその双方の血を受け継ぐ一衣帯水の民、すなわち渡海民たろうと志したのである。

川崎は戦後すぐ、没落した朝鮮王族の末裔を探し出す。

朝鮮戦争の勃発直前、闇市でなした財にものをいわせ、半島北部から日本へ女を連れ帰り娶った。

女のいう系譜はなるほど筋目正しいものであった。

ただ、それを事実と確認するには、混乱の続く半島では不可能であったが。


数年後、川崎夫婦は一子をなす。

川崎の死後、忽然と姿を消す一人息子である。

名を聖一という。

川崎は聖一の誕生に狂喜した。

聖一の幼少時、川崎は環境や教育に徹底した注意を払い、それこそ溺愛という言葉が相応しいほどの愛情を注いだ。

またそれをバネにビジネスに精励した。

しかし在日という見えざるハンディキャプが、どうしても闇社会や脱法事業への傾斜を深めることになる。

規模を拡大し、猛烈に展開すればするほど、表に出す事業とそれを支えるダーティビジネスとの乖離が広がった。


聖一は不思議な少年だった。

川崎は後に、不気味だ、と評したが、いつも遠くを眺めているような少年だった。

一見、玲瓏白皙な少年だったが、寡黙で、厭世的な表情があり、老成した印象を与えていた。

聖一は川崎の期待するギラつくようなモチベーションとは無縁だった。

それこそが川崎の不満であり、出来が悪いと嘆息せざるを得なかった原因である。

しかし聖一は抜群に頭がよかった。

難関中学、高校を飄々と突破すると、もっとも難しいとされる大学にも楽々とパスした。

川崎もその点は誇らしい息子であったに違いない。

ところが入学して間もなく、聖一は部屋に引篭もるようになる。

大学へ通うこともなく、いつの間にか大学中退の形になった。

川崎は焦った。

聖一に引き継がれた朝鮮王朝の血と、天皇家に繋がる血を聖一の次世代で結実させねばならなかったからだ。

具体的にいえば、川崎が密かに進めていた廃宮家の娘との婚姻である。

この婚姻がなされ、次の世代が誕生したときこそ、川崎の生涯をかけた東アジア最高司祭の誕生になるはずだった。

祭祀の海を渡る渡海民となるはずであった。

聖一に事業を後継する技量はない、と川崎は判断していた。

それはいい。

有能な番頭がいれば済む話だ。

ただ、廃宮家の娘との婚姻だけは成就させなくてはならない。

川崎はツテとカネにものをいわせ聖一の回復を図った。

結論からいうと聖一は、最終的に誰にも心を開くことがなかった。

聖一の思いとしては、川崎への義理として婚姻を了解しただけだった。

結婚し、子供を作りさえすれば、父親への義理は果たしたことになると考えていた。

事実、川崎真理子、真知子の双子が誕生した後、聖一は燃え尽きたようになった。

自らの世界にこもったまま、部屋から出ることも稀になる。

聖一が世間の空気に久しぶりに触れたのは、川崎の葬儀のときだった。

これが父親への最後の義理、そう宣言したのち、聖一はそつなく父親の葬送を行った。

そして四十九日の法要を行ったあと、忽然と川崎家から姿を消すことになる。



さて、もう一人、触れなくてはならない人物がいる。

徳永高男。

聖一と異母兄弟であり、波動研究会の会長である。

徳永高男は、聖一から三年遅れて誕生した。

母親は川崎の秘書だった女である。

川崎は畜妾は男の甲斐性くらいにしか考えていなかったが、子をなし、それが男であったことを素直に喜んだ。

聖一の母親、つまり川崎の妻は独特のプライドの高さからか、その事実を知っても一切黙殺した。

川崎家の敷居さえ跨がなければよしとする態度に終始した。

高男は聖一とうって変わり、アグレッシブな性格だった。

子供の頃から、常にリーダーシップを取りたがった。

川崎は経済的に不自由をさせない援助を行った。

しかしカネはすべてを解決しえない。

どこかに潜む片親、在日という無形の差別が高男を荒れさせた。

喧嘩、喫煙、暴走とお決まりのコースをたどり、少年院に送致される。

出院後も、荒んだ生活が続いた。

いつしか高男は在日系の暴力団と親交を深めていった。

高男自身の羽振りのよさ、それが川崎の財力、人間関係へと続くものだと認識されたとき、組内での存在感は一気に高まった。

暴力団内部での力とは、畢竟、カネだ。

任侠でも腕っぷしでもない。

持てるものがすべてであって、持たざるものはどこまでいっても三下チンピラでしかない。

カネを生み出すために、知恵と腕っぷしが必要なのであって、のべつ腕力を誇示するような知恵のないチンピラは、カチコミの鉄砲玉がせいぜいでしかない。

徳永高男にはカネだけでなく、知恵もあった。

子供の頃から発揮していたリーダーシップも度胸もある。

それだけの才能があれば、実社会でも伸していけるはずだし、無論、それは闇社会でもまったく正しい。

いや、むしろ法的なバックアップがないのだから、生な形で人間の度量が問われる。

すなわち、高男が暴力組織のヒエラルキーを昇りあげることは自明の理だった。

ところが高男は突然、闇社会から一定の距離をとり始める。

非公然活動が高男のすべてであったのが、そこから降りた、といったらいいだろうか。

具体的には倒産整理、手形サルベージ、管理売春、覚醒剤、ノミ行為、ミカジメ料などおよそ暴力団の行う非合法行為からである。

降りるにあたって、高男はその権利にさらに金をつけた。

金で解決するのが一番ベストである、これが高男の哲学だった。

なに、また稼げばいい、そして使えばいい、高男には屁でもなかった。

高男が非公然から足を洗ったことは、当時の闇社会で憶測を呼んだ。

ためにする噂もあれば、まるでトンチンカンな推量もあった。

それらを高男は耳にしても、笑い飛ばすばかりで相手にしなかった。

所詮、ヤクザの頭はその程度か、と心中バカにしていた。

ただ一点、高男は保険をかけた。

いつか非公然が必要になるときが来る、と高男は踏んでいた。

高男はある三下チンピラに目をつけた。

長田。

その頃、長田は末端組織のさらに末端のチンピラだった。

高男が長田に目をつけたのは、その品性のなさだった。

制御のきかない暴力性だった。

頭の悪さだった。

こいつならなんの逡巡もなく非合法がやれる、と踏んだからである。

捨扶持で飼い殺しておけば、パンを与えられた野良犬のように媚態を示すだろう。

そうして一旦、ことがあれば噛み付かせればいい。

もし、その非合法が成就できないならそれまでだ。

野良犬は野良犬として惨めに震えればいいだけだ。

そもそもこんな野郎は、チンピラ組織の野良犬くらいしか生きちゃいけまい。

いってみりゃ、長田を生きさせてやることはオレの慈悲みたいなもんだぜ、と高男は思った。

事実、長田は高男から声をかけられると、まさに米搗きバッタ状態で擦り寄ってきた。

高男は閉口しつつも、エサをまいてやった。

長田は腐りかけた肉でも喜んでくらいついてきた。

そして非合法活動におあつらえむきの傲岸不遜な増長ぶりを示した。

長田は周りに対して、オレは高男の身内だ、とすごんだ。

高男の闇社会での位置は、まだまだ揺るぎないものがあったからだ。

本当の実力、無論それは腕力を含めてだが、長田にはまさにチンピラ程度の力しかなかった。

クラゲなみの知力はいわずもがな、幹部としてのしあがるだけの属性をすべて欠いていた。

であるからこそ高男にとって都合がよかった。

三歳児以下を相手にするように絵を描けば、長田はその通りに動く。

寸分の違いもなく行動する。

要は長田の矮小な脳に動機付けさえ与えれば、意のままなのである。

高男はこのゴミタメのような男の増長を黙認した。

闇社会のクレームはこっそり金で処理した。

それがお互いにベストなチョイスだからである。

それに、とにかく非合法から撤退した高男には、ヤクザが重んじるメンツに縛られることもなかったからだ。

実際のところ、長田は高男が処理しなければ何度か殺されている。

対立組織構成員とのトラブルは日常茶飯事だった。

やった、やられたということにプライドをかける闇社会では、大言壮語して肩で風を切る長田は目障り以外のものではない。

それだけならいいのだが、高男をいう威を借りた長田の増長は手がつけられなかった。

末端のチンピラに難癖をつけて袋叩きにする、風俗店やパチンコ店からミカジメ料を巻き上げる、飲み屋で暴れる、などなど、これらすべて相手組織にとっては暴力団のレゾンデートルをないがしろにされるものだ。

長田に対し、個人的に暴発しそうな若い連中はいくらでもいた。

懐に拳銃を呑んだ連中が、長田を追跡したことも二度や三度ではない。

それを防ぎ、なんとか抑えたのは高男の法外な解決金だった。

そのことを長田はまったくしらない。

自分を過大評価し、ありもしない腕っぷしに酔っていた。

どうしようもない夜郎自大だな、と長田は苦々しい思いだった。

しかし保険料は高いほうが、いざというときに役立つ、役立たねば見捨てるだけだ、とこれ以上ない組織の論理を高男は貫徹した。

高男はほどなく波動研究会を立ち上げた。

彼は父親、川崎徳一の考えを評価していた。

なんでもいい、とにかく人を不安に駆り立てること、それが金儲けの手段として最強だ、と睨んだのである。

そのきっかけは彼が少年院から出院するときの光景だった。

高男が出院するとき、同時にもう一人の少年が出院した。

高男には川崎がさしまわした会社の人間、その少年には少年の母親が出迎えにきていた。

出院手続きは簡単に終わった。

そのまま四人で院外へ出た。

少年が高男に近づき、いった。

「おう、そのうち会うこともあるだろう。そん時はよろしく頼むぜ」

「ああ。同じ少年院の釜の飯を食ったんだ。こっちこそな。ところで、これからどうするんだ」

「オレか。オレはひとまず先輩んとこにワラジをぬぐ。四、五年はパシリ生活だろうが、ドンとデカイことやって男をあげるぜ」

「そうか。楽しみだな」

ワラジを脱ぐなんて、一体コイツ、どこまで時代錯誤なんだ。

現代ヤクザはもっとスマートにいけよ。

時代に迎合しないシノギなんてあるわけないじゃねぇか。

しょせん、こいつもチンピラどまりだな…。

高男は腹の中でその少年に唾をはきかけた。

すると横で少年の母親が涙を流しながら呟いた。

「ワラジを脱ぐなんて…。どうして、この子は…。やっぱり教祖様のいわれる通りかねぇ…。因縁は治らないのかしら…」

「うるせぇんだよ、ババァ。先輩んとこ行きゃ、いい目ができるんだ。いつかババァにもいい目させてやっから、黙ってろ」

高男は苦笑するしかなかった。

「おい、高男。聞いてくれよ。このババア、おれをカタギにするために貯金どころか家屋敷まで売っぱらってよ、そいつを拝み屋の教祖様とやらに差し出してんだぜ。なんでも献金しねぇと過去の宿縁がどうとかこうとか。アホらしくってハナシにもなんねぇ。いつかその教祖様とやらにネジ込んで返してもらわにゃな」

「なんてこというの。バチが当たるわよっ!」

「バチ?少年院送りでもうもらってら。ババァもいい加減、目ぇ覚ませや。いいように金むしられているだけだぞ」

鬱陶しい。

しょせん、こいつはチンピラにしかなれないクズだ。

鬱陶しすぎてヘドがでる、高男は思った。

これ以上、バカな親子の口論に付き合う時間はない。

高男は少年と母親の会話に軽く手を挙げ、じゃあな、と言い残しその愁嘆場を去った。

この手のインチキが一番銭になる、とさらに確信を強めることは、高男が闇社会で徐々に頭角を現すようになってからだ。

闇社会はその性質上、エセ右翼を装うことが多い。

なぜか在日が多い暴力団ですら、民族主義を標榜する。

その反共姿勢が宗教と結びつくケースが多い。

それもいわゆる新興宗教、端的にはカルトに近い教団が多い。

またなぜかしら朝鮮半島はキリスト経と土着の精霊信仰、さらには個人崇拝がない交ぜになった、得体のしれぬ宗教もどきが生まれやすいところである。

多分、朝鮮民族に刷り込まれた血への畏敬と、権威にひたすら盲従する主体性のなさがそうさせるのだろう。


少し話しが前後する。

とある繁華街の縄張りを巡って、高男にトラブルが発生した。

それは高男の社会では日常茶飯事なのだが、ここで高男はある宗教団体の中堅幹部と知り合う。

その宗教組織は統合真理教会という名のカルト教団だった。

そしてその幹部の名前は文龍名といった。

文と高男はこのトラブルを処理するために、ホテルの一室で話し合うことになった。

それも、無用な摩擦を避けるために、お互い単身で、という条件だった。

高男はその条件を呑んだ。

数日後、ホテルの一室で互いに名刺交換の後、高男が切り出した。

「で、文さん。どういう条件で手を打とうってんですかい」

「随分、短兵急だね」

「ああ。面倒はキライでね。両方の条件の間を取って、ポンポンと手打ち、ってのが一番手っ取り早くっていい」

「そう、なるほどね。まあ、それがいいかもしれないね。ビジネスなんだから」

文が条件をいくつか挙げた。

高男はその条件の算盤を、頭の中でめまぐるしく弾いた。

結論は、得でも損でもないが、組織防衛としては名も実もソコソコ保てる、という判断だった。

「わかったよ、文さん。それでいこう。お互い血を流して体力を消耗するのが一番つまらねぇ」

「話が早くて、こっちも助かる」

二人は立ち上がり、握手をした。

「徳永さん、少し早いけど、懇親の意味も含めて昼食でもどうかね」

「ああ、これから長い付き合いになるだろうからね、そいつはいい」

「こんなこともあろうかと、地階のレストランに予約を入れてある」

「手回しがいいな」

「配慮、といって欲しいね」

「違いない」

中華料理を平らげながら、二人の話が弾んだ。

とはいえ最低限の警戒はお互いに緩めぬままである。

しかし、話題が文の組織の話になると、高男は勃然と興味が湧いてきた。

宗教法人格の取得方法、そして取得した場合の税制上のメリット。

末端信者からの上納金システム。

教祖を頂点とする組織運営。

信仰に名を借りた、ありとあらゆるインチキ商品の販売。

原価もクソもない信仰に法外な値をつけることのウマミ。

暴力社会の旧態依然ぶりに辟易していた高男には、目を開かれる思いだった。

「文さん、お願いがあるんだがな」

「なんだね」

「個人的に連絡させてもらっていいかね」

「なんのために?」

「金儲け」

「ほう…。誰が儲かるの?」

「オレとアンタ、だな」

「それは悪いハナシじゃないね」

この二人の会食から二年後、高男は波動研究会に宗教法人格を取得し、闇社会から一応引退することになる。

無論、文部科学省に提出されたその宗教法人の役員名簿に、文龍名の名前が記載されている。




また、今日も隠居の長い長い話が終わった。

立ち飲みではとても辛く、途中からは酒屋のオヤジに無理をいって、椅子を借りることになった。

靴屋の隠居、滝川老人はかなり飲んでいた。

その酔いも手伝ってだろうか、すっかり饒舌になった隠居は、あらいざらい知ることのすべてを話してくれた。

無論、老人にありがちな枝葉末節にこだわる癖はあったが。

「と、まあ、今日も長くなっちまったな」

「いえ、助かります、隠居」

「川崎から聞いたこと、それにオレが知ったこと、まず、たいていのハナシはしたと思うがな。しかしなにしろジジイだ、オレも。抜け落ちや針小棒大に話したことがあるかもしれん。そのあたりはオマエさんの商売だ、斟酌しろや」

「ええ。隠居と知り合いだったことがこれほど助かったことはありません。感謝します」

「感謝、かい。いい言葉だな、そいつは。ああ、そうだ感謝されついでに、昨日こういうもんをこさえた。オマエにやろう」

隠居が上着の内ポケットをゴソゴソと探り、葉書大の写真を取り出し、オレに差し出した。

旧陸軍の軍服に身を固めた三人の男が写っていた。

これは?と覗き込みながら隠居に尋ねた。

「オレと川崎、それに思い出すのも忌々しいが、上等兵の上島だ。そのなかで一番の男前がオレって寸法さ」

グハハハハハ、と隠居は笑いながら続けた。

「入隊して、すぐだったかな、陸軍報道写真班ってのがやってきて、撮ってくれた。その焼き回しを保管してたんだ」

「ワタシにいただいて大丈夫なんですか?」

「バカ野郎。焼いてある紙を見ろってんだ。パソコンプリント用の印画紙だろうが。ホンモノをキャプチャして、デジタルデータに落としてからプリントしたんだよ。それを教えたのはオメェじゃねぇか」

そうでした、とオレは苦笑せざるを得なかった。

オレはその写真を凝視した。

上島上等兵が椅子に腰掛け、右側に滝川順平、左側に川崎徳一が直立不動で立っている。

滝川老人はいかにもキリリとした表情をしている。

寸分の緩みもない引き締まった顔つきだ。

一方、川崎にはある種、不屈剽悍な力が目に宿っている。

どう表現すればいいだろうか、事を成す、という決意表明が垣間見えるといったらいいだろうか。

上島にはどことなく破綻したような自堕落さが窺える。

傲岸不遜ぶりが全体に漂っているようだ。

それに加え、上島の顔付きはオレの心の澱を掻き混ぜるような不快感を催させる。

なんだろう、この嫌な感じは?

「その印画紙がなくなってもな、ちゃんとCDに保管してあらぁ。便利な時代になったもんだな。おお、そうだ、次のパソコンの練習日も忘れんじゃねぇぞ」

「忘れませんよ。でも、ご隠居、大丈夫ですか?」

「ヘンッ、ジジイ扱いするんじゃねぇ。オレはね、満州戦線のなぁ、敵弾雨あられの中を生き抜いたんだ、そのオレさまがなぁ、これしきの酒でな…」

酔ってるわ、これは。

オレは駄々っ子のような隠居を椅子から引き剥がすと、脇の下に手をいれ、自宅へと運んだ。

すっかり出来上がった滝川老人を見て、奥方がしきりと恐縮したが、なに、恐縮しなきゃいけないのは、こっちの方だ。

オレはそれこそ米搗きバッタのように何度もお辞儀をし、ちょうど昼食時で賑わう商店街から事務所へ引き上げた。

オレは隠居のハナシを頭に叩き込まねばならなかったから、酒はほとんど飲んでいない。

昨日から今日にかけての隠居の濃密なハナシにオレの頭ははち切れんばかりだった。

とにかく整理し、メモしておくべきだろう。

この生々しい記憶がオレのシナプスをプスプスいわせている間に、だ。


オレは雑居ビルの階段をあがり、ヘッポコスチールドアのカギをあけた。

独特の饐えた臭いがするのだろうと、辟易したが、部屋は綺麗に掃除されていた。

和田さんがやってくれたのだ。

埃一つない見事さだ。

ビルはオンボロだが、この清潔があれば、いかな最新のビルより居心地がいい。

まったくこの清潔の徹底ぶりには頭が下がる。

それにしても、和田さん、早速この事務所にやってきてくれたわけだ。

無理だけはして欲しくないが…まあ、いい。

和田さんはオレなんぞよりはるかにしっかりしている。

オレの心配なぞ、杞憂で終わるに違いない。

オレは留守電とパソコンのメールをチェックした。

ケンスケからのメールが入っていた。

そろそろ手が要るんじゃないのかい?と書いてある。

そう、要るんだ。

ケンスケの力がね。

オレはケンスケの携帯に電話を入れた。

当然、留守電サービスに切り替わる。

これまで一度たりともケンスケが電話にでたことはない。

無機質な留守電サービスのガイダンスに従い、連絡が欲しい旨の伝言を入れた。

さて、もう一件、電話をしなきゃいけないところがある。

山下刑事。

オレは電話に手を伸ばし、プッシュボタンを押そうとして止めた。

そのまま山下に伝えるのが、なぜか躊躇われた。

あと少しオレに時間の猶予が欲しい、そういうアラートが頭で発せられていた。

紅茶でも飲もうと立ち上がったとき、ヘッポコスチールドアがあき、和田さんが入ってきた。両手にスーパーのレジ袋を抱えていた。

「あら、お帰りだったの?」

「ああ。ほんの少し前にね。掃除してくれてありがとう。さすが和田さんだ、見事なもんだ」

「あら、お礼はいらないわ。仕事ですから。給料の一部よ」

「清掃業者よりキレイだぜ」

「キチンとしないと気がすまないの。性格ね」

「それはいい性格だと思う」

和田さんはそれには答えず、レジ袋をテーブルに広げ、お茶でも淹れましょうか、といった。

「ありがたい。紅茶でも作ろうかと思っていたところなんだ」

和田さんが、小さな流し台でうまい煎茶を淹れてくれた。

一口啜って、その淹れ方の見事さに惚れ惚れする。

実にうまい。

いいかね、諸君。

茶を淹れるには天才性が必要なのだ。

これは拳拳服膺しておいたほうがいい。

オレは茶を啜りながら、机に尻を預け、窓の外を見ていた。

相変わらず、ゴミゴミした汚い路地が目に入るばかりだった。

「なにかわかったことはあったの」

和田さんがポツリと尋ねた。

「少しだけ。ただ恐ろしく盤根錯節しているように思える。解きほぐすのは簡単じゃなさそうだ」

「洋子のことも関係しているのね」

「無論だ。いや、洋子さんの筋から入っていって、今、ラビリンスのなかにいる」

「そう…。ああ、そういえば警察の山下さんから電話があったわ」

「オレにかい?」

「いいえ。わたしの携帯に。変わったことはないですか、って」

「それで?」

「特にありません、っていったら、山下さんが、困ったことがあったら、アナタに相談してみなさい、っていってたわ」

「へぇ、頼りにしてくれてるのかね、山下は」

「そうじゃないかしら。ああいうヤツだが実はある、と仰ってたわ」

オレの気持ちを山下刑事に見透かされたような気がした。

照れ臭くなり、窓の外に視線を投げた。

路地の角から、ケンスケがノッソリ現れるのが見えた。

「ケンスケが来ている」

「あら、あのケンスケさん?」

和田さんとケンスケはこの事務所で何度か会っている。

ケンスケもことのほか和田さんの淹れてくれるお茶が気に入っている。

いつも水しか飲まないからね、といっていた。

ほどなくしてドアを開けながら、ウィーッス、とケンスケが現れた。

細身のジーンズにプルオーヴァのパーカを着ていた。

ケンスケは和田さんを見て、ちょっと驚いたように見えた。

「和田さん、じゃん。いいのかい、娘さんが殺されたばっかりなのに」

「おい、ケンスケ、いきなりそういう挨拶はないだろう」

オレはケンスケをたしなめた。

「あら、いいのよ。事実なんだし。メソメソしてても始まらないわ。ケンスケさんのようにバッサリいって貰ったほうが、いっそスッキリする」

「だろ?おためごかしの同情なんて、クソクラエさ。なにがあっても自分で受け止めなきゃ、なにも始まらねぇ。それとも、鼠のオッサンはそんなにウェットだったのかい?」

「ああ、ウェットだ。初老のどうしようもないメランコリーな男だよ。悪かったな」

「まあ、まあ、そうとんがるなって。第一、なんか用なんだろ?おおかた骨の折れる仕事の依頼なんだろうがね」

ケンスケがニヤリと笑った。

オレは和田さんにPCの前に座ってもらい、これからの会話要点を文書にしてくれるように頼んだ。

なにしろ彼女はキイのブラインドタッチも口述筆記もできるスーパーウーマンなのだ。

いまだに人差指でしかキイの押せないオレとはエライ違いだ。

ただ、話はどうしても和田洋子殺害に絡む。

そこで彼女がどう反応するか、それはわからない。

オレは順に説明を始めた。

滝川順平から二日にわたって説明を受けた川崎徳一のこと、戦時中のこと、そしてその野望、成り上がっていく過程、息子のこと、川崎姉妹のこと、波動の徳永のこと、人間関係…。

随分骨が折れたし、途中で腹も減り、ピザのデリバリーも頼んだ。

そして話が前後することは覚悟の上で、長田と出会ったこと、そのイキサツを説明した。

途中、なんどか和田さんのキイを打つ手が止まった。

唇がワナワナと震えていることにも気付いた。


「申し訳ない、和田さんの心を無慈悲にかき乱す話だとは思う」

オレは冷え切った茶を啜った。

「ただ、いずれはいわなくてはならないことだ。だからこそ、今のようにタイピングをしてもらいながらの方がいいだろう、と判断した」

「理由になっているような、なってないような…。まあ、いずれ、という点では同意するな」

ケンスケがメンソール煙草を弄びながらいった。

「大丈夫よ、わたしは。越えなきゃいけないことですもの。タイピングしていると、むしろ冷静になれると思う。タイピングに集中すれば紛れるわ」

で、そのハナシからどう絵を描いてんだい、とケンスケが尋ねた。

「まず、第一点。和田洋子、宮崎一平の殺害は長田で間違いないだろう。ただ、それが徳永の指示なのか、長田の暴発なのか、それはまだわからん」

「警察、あー、山下刑事にはその情報を伝えたの?」

「いや、まだだ。しかし日本の警察だ。すでに掴んでいるか、あるいは近々掴むことになるだろう。警察の組織力をナメちゃいけない」

「靴屋の隠居のことは知らないだろ?」

「ああ、それは間違いないな。だから、少なくとも山下刑事のとこよりアドバンテージはある」

「長田を…どうするの…」

オレとケンスケの会話に和田さんが入ってきた。

「ケンスケにベタでマークしてもらう。そのためにケンスケを呼んだ」

「そう。わたしも手伝えないかしら?」

「そいつは無理だ」

ケンスケが手を振った。

「和田さんの心情は察するに余りある。しかし、警察は必ず長田に辿りつく。それは間違いない。しかし…」

「しかし、なに?」

「オレたちは警察じゃない。証拠とか公判維持の材料集めなどは必要としない。必要とあらば、長田をギュウギュウに締め付けることも可能だ。それはオレやケンスケしかできないんだ。わかって欲しい」

和田さんは下を向き、唇をきつく噛んだ。

沈黙が流れた。


しかしなー、とケンスケが沈黙を破って素っ頓狂な声をあげた。

オレと和田さんが同時にケンスケを見た。

「最初の依頼と、これがどう結びつくんだ?」

「どういうことだ」

「だって、そうじゃん。川崎真知子が妹の真理子を波動から救い出してくれ、とここへ来た。それはいい。ところがだぜ、真理子がトチ狂った波動は、そのボスが叔父にあたるわけだろ?そしてこれまでの間に和田さんの娘と宮崎一平が殺されている。なんでだ?波動の組織防衛か?単に長田の暴発か?いや、そもそもなんで川崎真知子が妹を連れ出してくれ、ってなるんだ?オレにはわからねぇ。鼠のダンナよ、ひとつわかりやすく絵解きしてくんねぇかな?」

「オレにもわからん。だからこそケンスケには長田をマークして欲しいんだ。すでに警察の監視下にあるかもしれんが、ケンスケならうまくやれるだろう。長田が突破口かもしれん」

オレは長田の画像データや携帯番号、それと知っていることすべてをケンスケに知らせた。

「オレが長田をマークするのはいいとして、アンタはこれからどうすんだい」

「波動に乗り込む。これまで知りえたことを踏まえて、徳永と会う」

「それで?」

「さあ、なにかわかるかもしれん」

「雑な絵だね」

「絵にもなってないはずだ。無手勝流といえば聞こえはいいが、正直なところ、いきあたりばったりだな」

「で、長田に動きがあったら?」

「自分の判断に従ってくれ。融通無碍はケンスケの得意技だろ?」

へへっ、とケンスケが微笑した。

この微笑に騙されるとエライことになる。

先の尖った犀利な得物を持たせると、ケンスケほど危険な男はいない。

なにしろ、外人部隊で実戦の場数を踏んでいるのだ。

「和田さんは、なるべくこの事務所にいてくれ。出歩くな、といっているわけじゃない。しばらくの間でいい、和田さんの姿を確認できないと、なにか居心地がよくない」

「わかったわ。家に帰っても洋子がいるわけじゃないし、なるべくここにいるようにするわ」

「ありがたい。それから、すまないが、これまでのハナシを文書に起こして要点を纏めておいてくれないか」

「別料金よ」

「かまわんよ。ついでに至急のオプション料金を加えてくれてもいい」

和田さんの顔が莞爾とほぐれた。

よし、それでいい。

「あとはオカマのマリーの店で会うとしよう」

それを合図に三人とも立ち上がった。



通りに出たところで、ケンスケとは左右に分かれる。

オレはそのまま私鉄ターミナルへ足を向けた。

車じゃな、駐車だけでも骨が折れる。

いくつか目の駅で降り、オレは波動本部のあるマンションを目指した。

恥ずかしながら、波動が宗教法人格を持っていることにオレは気付いていなかった。


また説教になるのだが…。


ここらあたりの曖昧模糊を棚上げにしたまま、無邪気な盲信を抱いてしまうのが、東アジア民族の特徴なんじゃないか。

そもそも宗教であるなら、それは科学では証明しえぬ魂の救済であったり、神の存在に額づくことだろう。

しかし波動のセミナーで後藤は、波動の存在を証明するテスターとやらのチープトリックを持ち出した。

後藤はなにを測定しているんだ?

まさに噴飯物以外のなにものでもないじゃないか。

都合のいい科学と非科学の使い分け。

普通、常識ではこういう手合いをインチキというな。

おっと、説教が過ぎないうちに先を急ごう。


オレはマンションの一階から波動本部の部屋番号をプッシュし、インターフォンを繋いだ。

はい、どちら様でしょうか、という女性の声がした。

オレは本名を名乗り、徳永会長に面会したい旨を伝えた。

「申し訳ありませんが、アポイントがないと会長には取り次げませんが…」

「川崎徳一の件で、と伝えてみてくれ。多分、会う、というはずだ」

インターフォンを押さえ、中でやり取りをしているらしい雰囲気が伝わってきた。

しばらく後、徳永がお会いする、と申しております、という返事があった。

波動本部の前に立ち、ノッをする前に、ドアが開いた。

マヨネーズ容器顔の後藤が立っていた。

ツルリとした顔に憮然という文字が張ってあった。

「すんなりドアを開けてくれるとは、前回とはずいぶん対応が違うな、後藤君」

「会長が会うと仰ってますからね。どうぞ、中へ」

しかし口調はとげとげしく、不満な気分がありありと理解できた。

「ドアノブに貼り付けた建材用パテもキレイに拭き上げてあるじゃないか。まあ、プラスチック爆弾なんて、日本じゃ入手できんわな」

オレの皮肉にも、後藤は無言だった。

奥まったところにある徳永の会長室のドアを後藤はノックした。

お見えです、と外から声をかけると、入ってくれ、という徳永の声が聞こえた。


徳永がソファの一角を勧めた。

部屋の隅に、後藤が残ろうとしたが、外してくれ、と徳永が命令した。

後藤は一揖して下がった。

顔には今度は不承不承という文字が張り付いていた。

「いつかアンタは現れると思っていたよ。どうだね、一杯飲むかね」

「ああ、いただこうか。酒は断らないことにしている」

「そうか。スコッチでいいか」

「バーボンがあるなら、そっちにしてくれ」

後藤が立ち上がり、背後にあるロッカーからメイカーズマークを取り出し、冷蔵庫のキューブアイスを放り込んだ二個のグラスにたっぷり注ぎ込んだ。

「手盆で悪いがな…」

「いや、構わんよ。味は同じだ」

「確かに」

後藤もオレもチビリとバーボンを舐めた。

「で、用件はなんだ」

「いくつかあってな、ますますわからないことだらけになっている。オレは基本的に策ということができん。単刀直入に尋ねる、そういう無手勝流しかできん」

「なるほど。なにをどう尋ねたい?」

「まず、長田のことだ。和田洋子と宮崎一平殺しは長田か?」

「おいおい、挨拶抜きでそれかい」

「答えてもらえるかね?」

「答えてもいいと判断できればな。もっとも、むざむざ自分の不利になることを話すバカはいないだろうがな」

「ああ。こいつは別に法廷でも捜査でもない。必要とあらば触法スレスレなんて、お互い様だ。三歳児のチクりっこじゃないからな」

「アンタはわかりやすくていい」

「で、答えてもらえるのかね」

徳永はもう一口、バーボンを舐めた。

「長田のことは先刻、ご承知なんだな」

「ああ。一度、パワーブレックファーストを相伴させていただいた」

「オレに尋ねるということは、長田がここでどういう位置かもわかってるな」

オレは頷いた。

「そうか。端的にいおう。知らないのだ、長田が殺ったかどうか」

「どういうことだ?基本的に長田はオマエの非公然を担っているんじゃないのか?」

「確かに、そうだ。この波動を運営するにあたって、どうしても面倒なヤツが出てくる。消費者保護とか、カルト撲滅とか、アカ崩れのような、な。そういうヤツラを少し黙らさせるのに、重宝している。しかしな、オマエなら先刻お見通しと思うが、長田の知恵は昆虫以下、といっていい。要するにバカなんだ。バカだから使いやすい。しかし、バカがゆえに時としてオレの想像を超えた頓珍漢をやりやがる。そろそろ捨て頃か、と閉口していたとこなんだ」

「つまり、長田が勝手にやった、と睨んでいるのか?」

「仮に、オレが命じたことならば、オレが、長田に命じて殺させた、というかね」

「ふむ、筋は通るな」

「オレも今、この組織が目立つのはマズイんだ。まだまだビジネスは道遠し、だ。あんな長田のような昆虫以下に掻き回させない」

「ビジネス、かね。宗教法人格も持ってんだろ?」

「おいおい、鼠さんよ、なにトッポイこといってんだい。オレが金にならないことに手を出すと思うのかね?」

「いいや。むしろ金だけであれば理解しやすいんだがね。それは後回しにしよう。とりあえず、ひとつひとつだ」

「とにかく、だ。オレは長田に始末を命令していない。理由も必要もない。ただな、オレもバカじゃない。これまでのイキサツはそれなりに探ってみた。オマエが長田を疑うのは合理的だし、それをオレに尋ねようとする動機も理解できる」

「いたみいる。ただ一点、いっておく。オレは警察でもなんでもない。だから証拠がどうとか、公判維持がどうとか、一切、拘泥しない。いま把握していることから考えた場合、和田洋子、宮崎一平を殺害したのは長田以外に考えられない。長田を逮捕するのは警察の仕事だが、オレはそういう胡乱なことはしない。直接、締め上げる」

「オマエが、か?無理だろう。ヤツはバカであるがゆえ、暴力の行使をためらわんぜ」

「わかっている。サシの勝負じゃ問題にならんさ。オレのほうが殺されるだろう。しかしな、オマエに長田がいるように、オレにも荒事を請け負う人間がいる。しかも、そいつは極めて狡猾かつ冷静だ。人間凶器としては、長田など問題にならん」

「自信ありげだな」

「当然だ。そいつに任せれば長田を締め上げて吐かせるなぞ、児戯に等しい。アンタの意向が働いてなければ、あとは長田の口で喋ってもらうほかあるまい?」

「好きにやってくれ。ちょうどお払い箱の予定だったんだ」

「それを聞いたら、長田は逆上するかもな」

徳永は肩を竦めた。

そうしてソファから立ち上がると、ロッカーから灰皿と葉巻を取り出した。

「いつもは喫わねぇんだがな、思考を平滑ならしめるには一番だ」

シガーカッターで吸い口を切り、マッチを回すように火口を点けた。

馴れた手付きだ。

「ほう、ダビドフの一枚巻きとは豪勢だな」

「クズ葉巻を喫うぐらいなら、オレは頑迷な禁煙主義者になってる」

徳永の吐き出す煙に、オレのハイライトとはてんで違うアロマがある。

煙も値段相応、煙の市場原理だな。

「葉巻で落ち着いたろ?まだ少し尋ねたい。血の繋がった川崎真理子をなぜ隠している」

徳永の喫煙行動が止まった。

「なぜ、それを知っている」

「真理子が波動に取り込まれていることか?」

「そんなんじゃねぇ。オレと真理子の繋がりだ」

「這いずり回り、嗅ぎ回るのがオレの仕事だからな」

「オマエ、どこまで知ってんだ?」

「さあ。すべて知れば解決なんだろう。しかし解決していないのだから、すべてではないな」

徳永はソファに深く沈みこむと、天井に向けて葉巻を吹き上げた。

アロマの濃密な香りが部屋一面にきつく漂い始めた。

天井を見上げたまま、徳永はしばらく考え込んだ。

「わかった。真理子がなぜ、ここにいるか話そう。しかし、その前に条件がある。オマエの知っていることを話せ。お互いの知り得る立ち居地の距離は測ってんだろ?オマエの判断で話せるとこまででいい。話せ。それが条件だ」

「いや、オレは駆け引きはできん。いいさ、その条件に乗ろう」

オレはハイライトを引き抜き、火を点けた。

バーボンで喉を湿したのち、靴屋の隠居、滝川老人から聞いた話を伝えた。

無論、隠居のこと、および隠居を特定しそうなことは片言隻句も言及しない。

ニュースソースを明かさないのを、駆け引きとはいわない。

義務、という。


隠居の話を突き詰めれば、それほど難しい話ではない。

枝葉末節を無視すれば、徳永が川崎徳一の非嫡子にあたり、嫡流の孫である真知子・真理子とは姻戚関係にあたるというだけだ。

ここでは川崎徳一の血の野望には触れずにおいた。

「ふん。結構いいとこまで嗅ぎ回りやがったな。だれから聞いたんだ?」

「ああ、その質問はなしだ。理由はいうまでもあるまい」

「聖一のことは?」

「失踪のことか?」

「知ってるってことか…」

オレは深く頷いた。

「徳一爺さんの野望は?」

徳永は父にあたる川崎徳一を爺さんと呼んだ。

さらに大きくオレは深く頷いた。

「波動のことは?」

「ネットに転がってる程度のことなら。教義がどうとかになると、サッパリだがな」

「オレだって知らねぇや。まあ教義がなきゃな、法人格は取れねぇ。そのあたりは文龍名に任せてある」

「ビジネスだから、か?」

「そうだ。これほどボロイ商売はねぇな。因縁とか前世とか、論破されそうになったら、その辺で適当に誤魔化しゃいい。健康でも、家庭内問題でもいい、不安を煽ってやりゃ、面白いくらいバカが食いついてくる。入れ食いだぜ。しかもたっぷり銭を向こうから運んでくれるんだ。設備投資も不要。しかも無税。四の五のいう奴にゃ、信心が足りないで済む。信心を深めるためにはもっと献金なさい、というと、また金を放り込む。大笑いだ」

「一枚噛みたいもんだな」

「おう、オマエならいつでも雇うぜ」

徳永は思いのほか爽やかな笑顔を見せた。

「ま、それは折を見て、ってとこか。ところで、こっちの手は明かした。今度はオマエの番だ。川崎真理子がなぜここにいるか、という質問に答えてくれないか」

徳永は天井に向けて大きくアロマを吹いた。

「まずこれだけはハッキリさせておこう。オレたち波動が真理子の身柄を拘束しているわけじゃない。真理子から進んでここに来たんだ」

「どういうことだ?」

「突然、オレんとこに現れた。つい四、五ヶ月前のことだ。それまで全くの没交渉だったんだぜ。いきなりわたしのことご存知?なんて聞かれてみろ、泡喰うぜ」

「川崎姉妹とはまったく面識がなかったのか?」

「いや、ジイサンから二人の写真を見せてもらったことはある。これがワシの野望を担う血の果実だ、といってたな。それにジイサンの葬儀のときに、遠くから眺めたさ。あー、こいつらか、ってね。なんか不思議な気分だったぜ」

「それから、どうなったんだ?」

「どうもこうもねぇよ。真理子は、今頼れるのは叔父さんだけなの、匿ってちょうだい、ってから、置いてやっただけだ。他意はねぇ」

間を繋ぐように、オレと徳永、同時にグラスを乾した。

徳永が両方のグラスにバーボンを注いだ。

「今、ここに真理子はいるのか?いれば同道して帰る。ここに来た理由は本人から聞く。それで終わりだ」

「そうもいかねぇ」

「なぜ?」

「ここにいないからだ」

「じゃ、どこにいるんだ」

詳細な場所はわからねぇが、といいながら、徳永はここから車で2時間ほどの山深い集落の名前を挙げた。

Kという場所だ。

そこは平家伝説や古代王朝伝説の色濃く残る集落である。

「えらいまた、とんでもないところに、なぜだ?」

「オレにもわからん。真知子も真理子も常人には測り知れない部分があると思わないか。なにか不気味さを、オレはいつも感じる」

「美し過ぎるからか」

「それもあろう。しかし、生まれつきあの二人が持っている、あーなにかな、雰囲気とも違う、格みたいなもんか。そうだ、ジイサンのいう、血が違うんだ」

確かに。

確かにそうだ。

あの尋常ならざる玲瓏さと凛として立つ姿は、血で作られたものかもしれん。

「真理子とはそれっきりか?」

徳永は、ああ、と短く答えると、葉巻を灰皿にこすり付けた。

「ただな、あとで後藤が報告してきたんだが、長田がなんどかK村を訪れているようだ。長田が真理子に尻尾を振るとは、鬱陶しい。実に目障りだ。あんなゴミが真理子に近づくとはな…。民主主義ってな有難いもんだぜ。ま、冗談はさておき、そういうこともあって、長田をお払い箱にと、思っていたところだ」

オレも残りのバーボンを啜りこみ、いい忘れはないか、と徳永に問うた。

「知るもんか。あとは自分で調べろ。それが商売だろ」

「ああ、そうだ。だからこそいずれまた会わなきゃならんだろう。ところで、徳永。オマエさんの最後の目的ってなんだ?」

オレはずっと疑問に思っていたことを聞いた。

金だけが目的ではないはずだ、と睨んでいるのだ。

「オマエもまんざらバカじゃないみたいだな。そうさ、金儲けだけなら、ヤクザ商売でも上等だ。オレはジイサンの野望を継いでみたいと思っている。東アジアの最高祭祀を作り上げるぜ。しかもビジネス、としてな」

「目が眩みそうなくらい壮大だな」

そう、壮大だ、と徳永は莞爾とした。




ズキズキと身体中を貫く痛みに長田は目が覚めた。

コンクリート壁にそって、身体を起こすと、右手の甲は青黒く腫れ上がっていた。

骨折と内出血でひどく痛む。

回し蹴りで捉えられた顎がガクガクする。

ケンスケとかいいやがったな、あの野郎。

必ず殺す。

オレは神に奉仕する神人じにんなのだ。

オレのような聖なる人間をヤツはボコりやがった。

許すわけにゃいかん。

宮崎一平も和田洋子も神を貶めようとしたが故に天誅を下した。

ならばケンスケとやらも同類だ。

オレに手を出すということは、神を冒とくするに等しい。

そういう下郎は始末されて当然だ…。

長田の疎漏な脳細胞が結論付けた。

折れた右手甲に添え木をあて、汚いタオルで固定する。

二、三度頭を振ったあと、ノロノロと長田は立ち上がった。

身体を引き摺るように階段を降りる。

膝を曲げるたびに鈍い痛みが走った。

一階までなんとか身体を運ぶと、ホームレスの汚いジイサンが、大丈夫かい、と間抜けな声で尋ねた。

刹那、長田の抑えていた鬱憤が一気に臨界点に達した。

ゾウリムシのような反射神経が、折れていない左拳に指令を下した。

ブンと空気を切り、その拳はジイサンの顔面にめりこんだ。

栄養失調気味の枯れ枝のような肉体を破壊するには、あまりに強烈な一撃だった。

ジイサンの身体はコンクリート壁面まですっ飛ばされ、口に残っていたわずかばかりの歯は、完全に破砕された。

グッタリと伸びてしまったジイサンに、長田は歯垢だらけの唾を吐きかけ、舐めんなよ、と罵った。

そのあともブツクサと呪詛の言葉を吐き散らしながら、長田はJRの駅を目指した。




掃除や請求書の類の処理が一段落すると、和田はインスタントコーヒーをいれた。

雇い主の彼はコーヒーが嫌いだが、和田は無類のコーヒー好きだった。

豆からちゃんと淹れたレギュラーコーヒーを彼と飲めたら、と彼女はふと思った。

だけど、きっと彼はお酒にしちゃうんだろうな、とその思いを打ち消した。

一口コーヒーを啜ると、和田の全身に逆らいようのない喪失感が満ちてきた。

忙しさに身を任せることで、とりあえず見ないようにしてきた喪失感。

一人娘、洋子を失った喪失感だ。

寂しい、という言葉は余りに軽すぎる。

眼前の風景すべてが崩壊してしまいそうなリアリティの欠落。

これまで築き上げたことが、なんら意味を持たない空疎感。

果たしてわたしは生きているのかしら、と自らに問うても堂々巡りしてしまいそうだ。

現実として呼吸をし、食事も睡眠も取っているということは、確かに物理的には生きているということになろう。

しかし、人の生きるとはそのようなものではない。

これではまるで脳死状態の病人が延命装置で生きながらえている状態と大差ない。

意識のうねりのない生に、一体、なんの意味があろう。

ただただ渺渺とした索漠感の大海に漂っているだけだわ、と和田は背骨のなくなったような自分が哀れに思えた。

時間が濃密に凝縮されたような感じがする。

代わりに自分の身体が急速に膨満し千切れるような放散感がする。

拡散と圧縮で自らの統一感がバラバラになりそうだ。

ぼんやりと眺めていたコーヒーカップの姿が歪み、ぼやけてきた。

下瞼が重くなり、一筋の涙が頬を伝った。

こみあげてくる嗚咽を押さえ込み、和田はもう一度部屋の掃除を始めた。

なにかしていないと、悲鳴をあげそうな心の繊妍が見えていた。

だれか受け止めて、と叫びそうな心が見えていた。

その誰かは、一人しか思いつかなかった。



煙草を吸いたかったが、我慢した。

川崎家では喫煙のようなハームフルな習慣はなかろう。

灰皿はあったが、多分、飾りのようなもののはずだ。

オレは借景の濠と庭を眺めることで気を紛らわさせた。

十数分待っただろうか、廊下を踏みしめる音が近づくと、襖が静かに開いた。

川崎良子と篤子が現れた。

着座するとともに、篤子は深々とお辞儀をした。

オレも礼を失せぬよう、頭を下げた。

対面すると良子と篤子の違いがありありとわかる。

生命力の強さは圧倒的に良子の方が上に見える。

風雪に耐えた老木の生命力を感じる。力士が土俵の土を踏みしめる親指の強さだ。

野のスピリチュアルが凝縮された骨太さ、といえばいいだろうか。

対照的に篤子はまさに玲瓏な冷たい輝きを放っている。

純化されたたおやかさが柔弱な肌として露出しているようだ。

血がもたらした叡智が結晶しているように見える。

良子と篤子の対比は静と動ということもできるし、開と閉ということもできる。

対をなすことでさらに止揚する磁場と電場のような関係だろうか。

じゃ、続けましょう、と良子が口を開いた。


「話は結局、川崎徳一の畢竟の夢をトレースすることなんですけれども…」

オレは一度居住まいを正した。

真剣に話そうとされることにぞんざいな態度をとることを、失敬という。

それは常識ある人間の取るべき態度ではない。

世の中の基本を常識というんだ。諸君、これは憶えておいたほうがいい。

「聖一は少し変わった子でした。図抜けて頭はよかったんですが、子供の頃から妙に老成した印象の子供でした。本音でいえば、篤子との結婚そのものも意に染まないことだったかもしれません」

「母親として確かめなかったのですか?」

オレは口調を戻した。

「ええ。聞くことを許さない、そんな雰囲気でしたわね。それに聖一は突然、篤子との結婚を了承したんです。それまで結婚するともしないともはっきりしない素振りだったのが、突然、結婚すると言い出したときは、徳一も驚いたようですわ。結婚は無理じゃないか、と踏み始めた頃でしたから」

「で、篤子さんを迎えられた、と」

「いえ、その前に大きな壁がありました」

「壁、ですか」

「ご存知のように篤子は廃宮家の出身です。当然ながら、それなりの格式もあれば、プライドもあります。ですから…」

良子がいいにくそうに口ごもった。

「朝鮮人のところへ降嫁する必要などない、ということです」

篤子が話を継ぎ、決然といいはなった。

なるほど、それはそうだろう。

上古世界ではどうだったかわからぬが、少なくとも近現代においては両民族の蹉跌は深くて暗い。

「ふむ、抜き難い壁ですな、それは」

「この国も、朝鮮族も血の系譜を最も重視します。朝鮮族の血が入ることは、祖先に対しての重大な裏切りです。はっきり申し上げてわたしも聖一さんとの結婚は嫌でした」

「しかし結婚なさった」

「ええ、最終的には」

「なぜ?」

これからが核心、そういう予感がした。

「わたしの実家が零落していたため、義父の巨額の資金援助は魅力的ではありました。しかし、それは決定的な要因ではありませんわ。辛抱すること、少なくとも宮家末裔としての矜持だけは失いたくありませんものね」

オレは黙って聞き続ける。

「資金援助もさることながら、義父の徳一は血の合流ということを何度もわたしの両親に説いていました。それはもうしつこいくらいに、です」

「川崎徳一氏のいう東アジア最高司祭の創造、ということですか?」

「そうです。朝鮮民族を皮切りに、満州民族、日本民族までの司祭を創造しよう、と熱く語られておりました」

「ちょっと待って。満州民族の話は初耳なのだが…」

話の腰を折ったオレに、それはわたしが、と良子が話を引き取った。

「わたしの母系は満州族、つまり清王朝皇帝につながっていました。清朝末期のドサクサは、満州族にも朝鮮族にも、そして最後は日本にも悲惨な結果を残しました。これらはすべてコーカソイドと東アジア諸族との歴史的な戦いの結果です。キリストに名を借りた欧米列強にとって、東アジアを踏み潰すことなど赤子の手を捻るようなものだったのでしょう。蹂躙された東アジア諸民族の祭祀が根絶やしにされたんです」


良子のあとを、篤子が再び継いだ。

「わたしは、そのことを熱く語る義父・徳一に目眩を覚えました。それこそ血が逆流するような…。わたしの両親は英国生活が長く、ある意味、親米英的な生活でした。しかし、心の奥底の部分で、これは違うのじゃないかしら、という齟齬感が拭えませんでした。その正中を義父は射抜いたんです。東アジアの祭祀をコーカソイドが蹂躙したこと。近現代とはキリスト教的覇権主義であったこと、を」

極端に話しのスケールが大きくなってきた。

眩暈を覚えそうなのはオレの方だ。

単なる人探しが、とんでもないことになってきた。

一旦切った話しを篤子は続けた。

「わたしは齟齬感の源はこれだったんだ、と悟りました。東アジアのスピリチュアルな血脈が、決してコーカソイドのキリスト的合理性とは合致しないことを、です。わたしは義父の徳一と徹底的に話しました。義父の畢竟の願いについて、東アジアの祭祀の統合について、そして古代では必ずいたであろう環日本海の自由海民のことなどを」

「環日本海?」

「満州、朝鮮、日本は日本海を挟んだ、まさに一衣帯水ですわ。義父は常にこう申しておりました。古代、刳り舟で日本海を自由に渡海していた民がいたはずだ、と。彼らこそが互いに文化と人と物を流通させ、混血させ、ひいては東アジアに共通のスピリチュアルなDNAを伝播させていっただろう、と」

オレは額に手を当てた。

「なされていること、あるいはなされようとしていることと、どう繋がるのだろう?」

「おわかりになりませんか?」

「すまない。ザル頭が抜け落ちそうだ」

良子と篤子が目を見交わし、クスッと笑った。

「荒唐無稽な、と思われてるんでしょ?」

「申し訳ないが…」

「それは仕方がありませんわ。文献資料や遺物が残っているわけではありませんものね」

「できればわたしのようなザル頭でも理解できるように話していただけないだろうか」

「端的に申し上げましょう。義父とわたしはこう考えています。残念ながら義母の良子はなかなか得心できないようですが…」

こういうことだった。


川崎徳一はこう考えていた。

太古、文字になされるずっと以前から、日本海を挟む日本、満州、朝鮮を自由に行き来する海民がいた。

国境も地域もなく、彼らは各地を往来し環日本海と呼べる文化圏を形成した。

それぞれ土着の信仰や精霊は彼ら自由海民の手により各地にもたらされ、その作用によりそれぞれは純化され、組み合わされ、融合された。

無論、祭祀や祭司も同様の経過を辿った。

長い時間と歴史を揺り籠にし、東アジアの共通DNAと呼べそうなメタ思想を作っていった。

例えばそれは血統に対する畏敬である。

天、あるいは神と規定する最上位意志は、血統により継承されるとすることである。

また森羅万象に意味があり、あまねく神は存在したまうことである。

神の依代として祭司があり、依代を厳密な作法で祝福する祭祀があるのだ。

しかしいつしか文字が生まれ、漢民族が勃興し、国の概念が広がっていった。

漢民族の選民意識と武威は、中華思想以外の存在を許さない。

有無をいわせぬ版図の拡大と狂犬のような文化蹂躙は今も続く。

そのことは必然的に日鮮満に国を意識させ、ナショナリズムを胚胎させた。

またせっかく培われた環日本海のメタ思想は変質させられ、祭祀は各国独自に規定された固有文化と看做されるようになる。

ならば本来あるべき東アジアの祭祀、スピリチュアリズムを、今に復活させるべきである。

そのためには血の正当性と継続を追わねばならない。

残念ながら、自由渡海民という概念は現代では無理であろう。

しかし、徳一は良子を娶った。

良子の体内に流れる血は、まごうことなく満州族と朝鮮族の正当な最高祭司のそれだ。

残るは日本の血だ。

廃宮家出自の篤子は最高の血である。

息子の徳一と篤子が結婚し、子をなしたとき、日鮮満スピリチュアルの血の統合がなされるのだ。

その生まれた子はに、はかりしれぬ能力が秘められているはずだ。

川崎徳一にはそれを発揮させ、東アジア精神世界の最高祭司として君臨させる義務があるのだ…。



オレは溜息が出た。

ただでさえ錯乱気味のお脳に、さらに固い結び目ができたような気がする。

「それがなされようとすること、になるわけですな。では、いま起こっていること、とはなんなのだろう」

少し気まずい沈黙が流れた。

多分、核心の核心に入りつつあるのだ。

小さくかぶりを振ったあと、良子が口を開いた。

「受け継がれる形質や才能は濃淡があります。徳一の畢竟の夢は真知子より真理子に色濃くでています。つまり、精神世界と感応する能力は、真理子のほうがずっと上なんです」

「どうやってわかるのだろう」

「普通の人には無理でしょうね。スピリチュアルな世界ですから」

「トランス状態になるということなのだろうか」

「なにをもってトランス状態いうのか定義はわかりませんが、確かに、普通ではない状態ですわ。わたしも滅多に飛躍できませんもの。でも、そのときには、魂の広がりが無限に感じられますわね」

「そうですか」

これ以上、精神世界の話に深入りしても、禅問答だろう。

魂の広がりといわれてもチンプンカンプンだ。

オレはなにしろ徹底した無神論者なのだ。

話題を進めよう。

「で、彼女、あー、つまり川崎真理子は、その後波動に出奔し、現在山にこもっている、ということでいいのだろうか」

「なにもかもご存知なんですね」

「波動の徳永高男から経緯を聞いた」

「血縁関係も含めてですか?」

オレは頷いた。

そして、なぜそのような深山にこもっているのか、と尋ねた。

「山と森と川は神がおわします。畏まり、崇められるべき存在だからです。そしてそこは精神世界の出入り口だからです」

篤子が勢い込んで語った。

「いいですか。東アジアの諸族にとって、山や森、川という存在は精神世界を支える屋台骨なんです。広義には自然全体といえるかしら。人は自然の一部であり、自然においてのみ人は生きることができるんです。たおやかで強靭な自然に生かされているの。それはキリストに率いられるコーカソイドのように、自然を克服、超越しようなどという思い上がりとは無縁なんです。自然と合体することのみによって、精神は解放され、神との合一ができるんです。今、真理子はさらに自分の精神を高め、東アジアを統合する祭司となるべく、深い森の中で神経を研ぎ澄まし、精霊や神との交感に励んでいるはずですわ」

熱く語る篤子と横にいる良子の目が尋常でない光を帯び始めた。

「篤子のいうとおり、まさにそうですわ。それが川崎徳一の畢竟の野望といわれればそれまでですが、しかし、その崇高な理念は東アジアの民草の背骨ととして蘇りますわ」

「あー、簡単にいえば修行、そういう理解でいいだろうか」

「そうですわね」

「たとえば伊勢神宮の斎官が皇女であるといったことだろうか」

「ますます正鵠を得ていると思いますわ」

「わたしはそこへ行ってみようと思っている」

「あなたが、ですか?」

「そう」

「なぜですの?」

「依頼は川崎真理子を奪還することだった。それができていない。波動に出奔したことが彼女自身の意志であるなら、そのことを依頼主である川崎真知子に自分の口で伝えて欲しいからだ。それができなければ、調査費のただどりだ。わたしはそういうことはできない」

「よろしいじゃありません、そのくらい。真知子も織り込み済みじゃないのかしら」

皮肉な口調で良子がいった。

初めて会った時の印象と随分ちがった安っぽい表情が垣間見えた。

「いや、それはできない」

「随分と律儀でいらっしゃるのね」

「フリーランスは愚直なまでに律儀でなくちゃ務まらない」

「そう。お止めはしませんわ」

「なにしろ若者二人の死体が転がったのだ。納得できるまで嗅ぎまわってみるつもりだ」

「お役にたてましたかしら」

「ずいぶん。ただいずれ警察は来る。老婆心ながら、小細工は弄しないほうがいい。担当の山下という刑事は、極めて優秀だ」

「お心遣いに感謝しますわ」

オレは一揖したあと、それでは、と立ち上がった。

オレをこの部屋に案内した化粧っ気のない中年の女に見送られて、玄関をでた。

出るとすぐに、悪意のあるかのような勢いで、ピシリッと通用門が閉められた。

オマエのような下司が来るところではない、と意思表示をしているようだった。


ん?

オレのアラートが鳴り始めた。

玄関の前の道路には、漠とした緊張感が漂っていた。

ざっと周りを見渡して、オレは即座に理解した。

ここは警察の監視下にある。

前方と後方にさりげなく駐車している車から、いくつかの目が光っている。

素人ではなにも感じないだろうが、少なくともオレはプロだ。

鼻の利かないプロはプロとは呼べんな。

しかし、さすがに山下刑事だ。

ここに辿り着く時間の素早さといったら、どうだ。

刑事にもプロとアマチュアがある、という見本だぜ、こりゃあな。

オレの姿を視認した以上、早速、山下刑事からお叱りの電話が入るだろう。

オレはさりげなく肩を竦めると、ブラブラと地下鉄駅の方向に歩き出した。


歩き出して間もなく、公園の脇でオレの携帯電話が鳴り出した。

局番から判断すると、多分、山下刑事のところの局線番号だろう。

受話スイッチを入れ、オレは公園のベンチに腰を下ろした。

鼠か、と不機嫌そうな声が聞こえた。

「これは、山下刑事」

オレはハイライトを引き抜き、火をつけた。

深々と吸い込むとイガラっぽい刺激煙が心地よかった。

「オレはガチャガチャといわん。川崎の家での話が終わったら、オレのところに寄れ」

「ほう、なんのために」

「いいか、ネズミ。オマエと言葉遊びをするほど、オレはヒマじゃないんだ。それくらいの察しはついているだろうが。手間をとらせるな」

「わかった。小一時間ほどまっていただきたい」

了解した、という言葉とともに、ブツンと切れた。

相変わらず、単刀直入かつ不機嫌な刑事だ。

もう一本、ハイライトの紫煙を愉しんで、オレは地下鉄駅に向かった。

地下鉄でノソノソ行っても、小一時間で山下の署に着ける。

その間に、これまでのイキサツをどう説明するか、考えないといけない。

なにか判ったら、必ずオレに話せ、ときつく山下刑事にいわれてもいたしな…。

ヤレヤレ、やはり山下刑事にはかなわねぇ。

いや、早くも川崎家の監視に入った日本警察の優秀ぶりに脱帽、というところか。

とつおいつ考えていると、ダウンタウン方向への地下鉄が入線してきた。




ローカル線の向かい合わせ座席を独りで占領し、長田はブツブツと独り言を呟いていた。

ゴミタメのような匂いと、むさくるしい風体、さらに右掌に巻かれた汚い包帯に、他の乗客はかかわりを恐れて近づこうとしなかった。


クソどもが、誰に向かってモノをいってんだ、オレは川崎真理子という神に仕える神人だぞ、テメェら神罰を下してやる、ズタズタに、徹底して無慈悲にやってやる、来い、川崎真理子の鎮座するあの森へ来い、不逞な連中はオレが始末してやる…。

もし誰かが近づいて長田の独り言をきけば、こういうことを耳にしていただろう。


オレにとって川崎真理子は神だ。

さらに真理子はオレの女だ。

オレの腹の上で泳ぎ、熱いほとばしりを真理子は受け止めた。

真理子を助けるためには、なんでもやる。

惚れた弱み、だな。

真理子から和田洋子と宮崎一平の始末を頼まれたときには、ちょっとビックリしたがな。

なんのために、なんて聞かねぇよ。

神であり、情婦である女がいうんだ、四の五のいわずにオレはやる。

ガキの頃から、手をあげるのは得意なんだ。

いつも殴り勝ちだったからな。

ガチャガチャいうやつは腕力で黙らせる、これが一番手っ取り早いんだ。

真理子はしばらく留まれ、まだ来てはいけない、といってたけど、なに、構うもんか、着いたら早速、きついセックスをしよう。

ヒィヒィ喜ばせてやるぜ。

しかし、ケンスケといい、鼠のジジイといい、どいつもこいつも、今度会ったらタダじゃおかねぇ、ボコボコにしてやる。

特に、ケンスケだ。

ヤツは赦さねぇ。

一寸刻みでズタズタにしてやる…。


独り言のあと、長田は考えごとを始めた。

ただし「考える」ことに不慣れな長田の脳細胞は、プスプスと過熱しはじめてはいたが。

左手に握った焼酎をグイッと飲み干すと、長田はいつのまにか寝入ってしまった。



あれでよかったのかしら、と篤子は義母・良子に問うた。

「いいわよ、あれで。それより警察が監視しているみたいね。いずれ事情聴取もあるはずだわ。波動の文龍名さんに連絡をいれておいた方がいいわね」

「真理子のいるところはどうしましょう」

「そうねぇ…。下手に動いてしまうのもどうかと思うし…。真理子が懸命な判断をしてくれるはずだけど、とにかく連絡だけはいれておいてちょうだい」

篤子は頷くと、携帯電話を取り出した。



長田の掌を粉砕したケンスケは、駅前のコーヒーショップにいた。

メンソール煙草を吸い込みながら、モヤモヤしたひっかかりをまさぐっていた。

長田の印象に、なにかひっかかる。

このモヤモヤした部分がハッキリすれば、ジグソーパズルがピタリと完成しそうな気がしてならない。

しかし、それが鮮明なイメージとしてつかめない。

ケンスケはもどかしさに煙を吐き続けた。

短くなった煙草を灰皿にこすりつけると、ケンスケは立ち上がった。

いずれわかるだろう、焦っても仕方がない。

とりあえず事務所へ行こう。

そして和田さんに教えてやろう。

やっぱり手を下したのは長田だ、と。

ただし背後で不気味ななにかが蠢いている、と。



なんど来たって、警察の門をくぐるのは気分のいいもんじゃない。

しかし山下刑事のお声がかりなのだ。

バックレるわけにはいかんだろう。

オレはカウンターにいた若い婦警に、山下刑事への取次ぎを頼んだ。

世の屈託を一手に引き受けたような仏頂面で、山下刑事が現れた。

顎で奥の部屋へ誘われる。

いつもながら山下刑事に感心するのは、ワイシャツもスーツも、ピンとプレスが効いていることだ。

刑事といえば、よれよれコートにちびた革靴、というのが通り相場なのだが、山下の嗜みはいい。

自らの執務場面で、その姿に注意を払わぬことを、職業人失格という。

とりわけ人と会うことがメインとなる職種ではなおさらだ。

いうではないか。

着衣がその人格を決定する、と。

外見のだらしなさは、そのままその人間の評価となることを知るべきだ。

特段、高価なナリをしろといっているわけじゃない。

清潔かつ端正であればよいのだ。

無論、安物はそれなりに格調が劣ることは否めない。

しかし不潔な高級品を着るより、清潔な安物をチョイスしたまえ。

第一、不潔は女がもっとも嫌うことだ。

女にもてたい、と思ったら…

おっと、愚にもつかない説教をしている場合じゃないな。


これ以上ない殺風景な、倉庫とも会議室ともつかない部屋に入った。

テーブルとパイプ椅子が数脚、あとはゴミなのか資料なのわからぬが、うずたかく段ボール箱やフォルダが積み上げられている。

捨てるなり整理するなりすればいいのだろうが、この手のものが乱雑に嵩をましていくのは、万古不易の真理だろう。

掛けろや、と勧められたパイプ椅子に座る。

山下はフォルダの最上部に手を伸ばし、歪みまくったアルミ灰皿を取り出した。

「どこもかしこも禁煙でな、ここぐらいでしか喫えない」

山下はロングピースをパッケージから引き抜いた。オレもハイライトを咥える。

「健康の時代なんだろ」

「フンッ、ご立派なこったぜ」

山下は盛大に煙を吐き上げた。

「で、なぜ川崎の家に現れた。目的はなんだ」

「うむ、簡単なハナシだ。依頼人、あー、つまり川崎真知子のことなのだが、彼女の自宅で情報を集めようと思ったのだ。しかも奪還すべき人間も川崎真理子だからだ」

山下刑事の仏頂面がさらに増した。

「おい、電話でオレはいったはずだ。オレは言葉遊びに付き合うほど酔狂ではないのだ。手間をとらせるな。オマエだって素人じゃなかろうが。愚にもつかない能書きを垂れるな」

参ったな。

やっぱり小細工を弄してもダメだ。

仕方がない。

「そうだな。見逃してくれるわけがなかったな」

「ご高説はいい。簡潔に話せ」

オレは川崎家でのハナシを、なるべく手短に話した。

要はビジネス会話と一緒だ。

必要最小限の言葉をもって、過不足なく要旨を伝えること。

形容詞や副詞、あるいは所感など、一切不要だ。

これはこれで日本語の勉強になる。

その人間の論理性、語彙力、想像力が問われるのだ。

山下刑事は時折、煙草をふかすだけで黙って聞いていた。

「まぁ、おおむね、そんなところだな」

オレのハナシが一段落した。

「なるほど。少し尋ねる。川崎徳一の畢竟の野望とやらに、よくぞ気がついたな。どこから仕入れた?」

「その答えだけは勘弁してくれ。ニュースソースを明らかにはできないのだ。そこまでユルフンになっちまったら、フリーランスを張ることができなくなる。信用問題なのだ」

「そうか。ならば尋ねまい。しかし、そのハナシをきいて、オマエはどう思った」

「アンタと同じだと思う。荒唐無稽だ、とな。ハッキリいえば狂ってるんじゃないか、とさえ思う。どうかね、山下刑事としては?」

「否定はせんよ」

「だろうな」

「もう一つ尋ねる。長田は今どこにいる」

「さ、どうかな。ケンスケに当たってもらっちゃいるが、ケンスケとはまだ会っていないのだ。答えようがないな」

「うむ、そうか。最後にあと一点。川崎真理子が出奔しているそのクソ田舎にオマエも行くつもりなのか?」

「そのつもりだ。警察も張るのか?」

「いや、どうかな。和田洋子と宮崎一平殺しに直接、川崎真理子が関与しているのかどうか確信が持てん。しかし拱手傍観とは参るまい。所轄派出所へ警邏だけは指示する」

「フリーランスと警察仕事との違いだな。オレは川崎真理子奪還を請け負っているからな」

「ああ、時に。今晩もオカマの、あー、なんといったかな…ああ、そうだ、マリーって店に行くのか?」

「それはオレの就眠儀式でね」

「時間があれば覗くつもりだ」

「歓迎する。一杯奢ろうか」

「金輪際、断る」

「そう。やむをえんな」

警察のエントランスを出ると、すっかり陽も翳り始めていた。

薄暮ってやつだ。

酒が恋しくなる時間だが、とりあえず事務所へ戻ろう。

オレはブラブラと事務所へ足を進めた。


事務所のヘッポコドアを開けると、おかえりなさい、という声が聞こえた。和田さん、だ。まだいたんだな。

「帰らなかったのか」

「ええ。帰っても誰もいないし。お邪魔だったかしら」

「いや。好きなだけいればいい」

和田さんは少し化粧をしていた。

いいぞ、そうでなくっちゃいけない。

化粧心を忘れてしまったらダメだ。

その気持ちが前向きな意欲を奮い立たせるはずだ。

女ってなそんなもんだろ?

自信はないのだが、心のありようを示すインジケーター足りうるのじゃないか。

「お腹も減ったでしょ」

そうだった。

昼飯を食っている暇がなかったんだ。

「少し食べ物を作っておいたわ。お口に合うかどうか自信はないけど」

台所とはとても呼べない奥の小さな流し台から、和田さんがいくつかの皿を置いた盆を運んできた。

皿や盆なぞ、オレの事務所にはなかったはずだが…。

「家から持ってきたのか?」

「そう。一度帰宅して作ったの。だってここには調味料も鍋もなにもないんですもの」

「だろうな。茶碗が少しあるきりだからな。しかし紙コップや紙皿ならふんだんにあるぜ。捨てれば済むんだからな」

「それでは味気ないじゃない」

「そんなもんかな」

ラブホあがりのテーブルに食べ物が並べられた。

サバの味噌煮、水菜と油揚げの煮びたし、炒り豆腐、けんちん汁ときた。

オレの大好物ばかりじゃないか。

「ほほう、これはまた豪勢だな」

「いつも作るものばかりよ」

「オレは外食や持ち帰りばかりだからな。こういうのは靴屋の隠居のところで食べるくらいしかない」

割り箸でなく、ちゃんとした塗り箸が添えられていた。

「じゃあ、有り難くいただくとしよう」

サバの味噌煮に手をつける。

うまい。

水菜と油揚げの煮びたし。

うまい。

炒り豆腐、けんちん汁、ゴハン…。

「和田さん。どれもこれも実にうまい」

和田さんがこぼれるような笑顔を見せた。

「おいしそうに食べてもらえると、作り甲斐があるわね」

オレはゆっくりと味わいながら箸を進めた。

まったく、なにをやらせてもソツのない女性である。

なくなられたご主人がどういう方であったのかは知らぬが、彼女を妻に、と決めた彼の慧眼に敬服する。

しかし、されど、とも思う。

仕事を終え帰宅すると、聡明な妻と温かい食事がある、これはまるで幸せな家庭の図、そのものではないか。

オレは基本的にデラシネだ。

このような幸せを夢想することもあるが、いざ現実に立ち返ると、オレには最も縁遠い形だ。

いや、むしろ意識的に敬遠しているのかもしれん。

オレには資格がない、権利がない、と一歩引いて構えてしまうのだ。

一瞬、絶頂のような幸福感はあろう。

しかし、そのあとに襲ってくるいいようのない窒息感、閉塞感。オレは飼いならされた犬じゃない、と叫びたくなる。

自由でありたい、と思う。

自分でなすことにすべての責任を負う。

他人のせいや、社会のせいだ、と女々しく泣き言はいわん。

だから好きなように生きたいのだ。

妻や子供や係累や、あるいは地位や栄達や富貴、オレの自由を捨ててまで執着するべきことなのか?

必要であると思えばそうすればいい。

それが人それぞれの哲学なのだから。

オレもオレ自身の論拠は僻論だろうと踏んでいる。

やや世間の常識的にはずれているだろう。

しかし、その常識とやらに身を委ねてしまう精神の堕落に我慢ならない。

木強な精神と強靭な背筋を持ち、悠々と自由に生きていたい、そう願わずにはいられないのだ。

だから妻を娶ろうとも思わなかったし、いつか野垂れ死にするであろうという確信めいた予感もある。

しかし、いいではないか。

男は常に颯爽としていなくてはならぬのだ

悠々として生き、悄然と死ななくてはならないのだ。

女は産道の痛みで歴史を実感できる。

つまり女は歴史という川の一滴である。

しかし男は悠然たる歴史の川の中の砂粒だ。川の果ても濫觴も知ることなく、流れにもみくちゃにされるだけだ。

そう思えば、自らを律し、堂々の旗を掲げて突き進むことの大切さがわかるではないか。

あー、いけない。

フリーランスのネズミ風情の語るハナシではなかったかも知れんな。


「ケンスケからなにか連絡があったかい?」

「あったわ、さっきね」

「なんだといっていた?」

「わたしに、まず申し訳ないといってたわ」

「申し訳ない、とは?」

「長田とハナシをしたんですって。それで洋子に手をかけたのは長田だと確認できたって」

「それは…ほんとか?」

不思議なことに和田さんの顔は驚くほど澄んでいた。

曇りも怒りも逡巡もない、古仏のような表情だった。

「ええ。宮崎一平くんもそうだ、って。しきりに申し訳ない、って謝ってた。どうして謝るの、って尋ねたら、そうせずにはいられないんだ、ですって。男の人ってヘンね」

そうか。

やはり、そうか。

長田を除く誰もが人の生を抹殺する粗暴さが感じられなかった。

殺すとすれば長田、そういう筋書きは想定していたが、コトはそう簡単じゃない。

背後に蠢くおどろおどろしい血の累々がわからないことには、先に進まないだろう。

「ほかになにかいってたか?」

「ここに向かうといって、切れたわ」

和田さんは、お茶淹れるわね、といって流し台へ振り向いた。

オレも無言のまま心づくしの夕餉を口に運んだ。

ごちそうさま、をいうと熱いほうじ茶がでてきた。

大振りの湯飲みにたっぷり入っている。

メシの後にほうじ茶、か。

心がほどける。

居心地がよすぎる。

この居心地のよさに、男の牙はなまくらになるんだ。

なるんだが…確かに…簡単に離れられないぬるま湯感がある。

しかしぬるま湯は、いつか冷水になることを忘れてはならない。

男であることを放棄するなら、それはそれで居心地はいいはずだがな。


食後のハイライトを引き抜き、煙を目で追いかけていると、和田さんが膳を下げてくれた。

洗い場で水音が弾ける。上げ膳、据え膳、まるでCMの中の平和な家庭そのものだ。

このまま彼女と時を過ごし、フリーランスからきっぱり足を洗えば、チラとも思わなかった家庭というものが見えてくるかもしれない。

それは今のオレにとって十分な説得力がある。

そうなんだ。

矜持にこだわるあまり、オレは依怙地になっているかもしれんのだ。

いつまでも簡易ベッドに大酔して倒れこむ生活でいいのか、という漠とした不安、フラフラせずに足をつけたいという里心をオレは認める。気弱になりつつあるオレを認める。仕方がないのだ。

オレも人生七回を過ぎたのだ。

突っ張るのもそろそろ限界か、と怖れているのだ。

和田さん、こっちを向いてくれ、と告げ、彼女を抱きしめたくなっているのだ。

こんな時期に不謹慎な、といわれるだろう。

しかし、しかし、だ。

こんな時期だからこそ、そう思っちまったんだ。

和田洋子が殺害されるまで、和田さんに対してオレは畏敬こそすれ、恋心を抱いたことはなかった。

あくまで人間として彼女の完成度の高さや、品性、教養の豊かさに感心していた。

ところがオレは見てしまった。

和田さんに潜む、まごうことない女を。娘が変わり果てた姿で戻ったときに見せた、いいようもなく哀れでかそけき女の形。

どんなことがあろうと弾き飛ばしてしまいそうなフレキシブルな強さは、まったく消えてしまっていた。

一瞬ののちには、ザザッと崩れてしまいそうな脆さ、あやうさ。

吹きちぎれそうな高山植物のごときそれ。

その姿は初老のオレにさえ、彼女を保護しなければならない、と決意させた。

保護本能とはすなわち、相手に対する情愛だ。

憐憫に裏打ちされた恋心にほかならない。

オレはそれをありありと意識せざるえなかった。

卒然、オレは悟った。

オレは和田さんを愛している、と。

笑いたきゃ笑え。

いままで掲げていた看板をたたんだのかい、と罵倒したけりゃ罵倒しろ。

それくらいのことでカッカするほど青臭くねぇよ。

フンッ、とこちらから鼻先で小馬鹿にするくらいには練れてる。

スレッカラシになっている。

でなきゃ、えらそうにフリーランスをこの歳まで張れねぇな。

まあ、それはいいのだ。

しかしだ、このオレにも里心というか、ふとパートナーがいてもいいかもしれん、と考え始めたことが驚きなのだ。

加齢は心を弱くするのだろう。

あと、十年若ければ、間違ってもパートナーのことなど考えつきもしなかったはずだ。

これでオレの人生はよかったのだろうか、と反省などはしないが、防御線が低くなってしまったことは認めにゃなるまい。

ただな、こいう不器用なやりかたしかできなかったことを、恥じ入りもしない。

誇りにもしない。

これがオレだ、と認めている。

その伝でいけば、和田さんに惚れちまったこと、素直に認めるよ。

無論、彼女に愛の告白なんて、考えもしないがな。

それこそ恥ずかしさのあまり、死にたくなるな。


ウィーッス、の声とともに、ヘッポコドアがギギッとあいた。

相変わらず開け閉ての悪いドアだ。

ケンスケが筋張ったブキブキの身体を、身軽に滑り込ませてきた。

足の運びは颯爽としているが、芳情はさえない。

顔面に屈託というラップを貼っているようだ。

オレの前に腰を落とすと、メンソール煙草を引き抜き、火を点けた。

「長田が吐いたらしいな」

「聞いたのか」

「さっき和田さんから、な」

ケンスケの目の前にほうじ茶が置かれた。

今、淹れたばかりよ、と和田さんが添えた。

「和田さん、帰らなかったの?」

「ケンスケさんも同じこというのね」

「フーン、このダンナもそんなこといったのかい」

「そう。男の人ってわかりやすいわね」

「和田さんにかかっちゃ、どんな男も赤ん坊みたいなもんだと思うよ」

それ褒め言葉よね、と和田さんが微笑した。

そうさ、とケンスケは答え、ほうじ茶を啜った。

「ときに、ケンスケ。長田が吐いたイキサツを教えてくれないか」

湯飲みをテーブルに置くと、ケンスケは淡々と語り始めた。

一通り話し終えると、ケンスケは新しい煙草に火を点け、深々と吸い込んだ。

「ふむ。最終的には荒事になったわけだな」

「そう。長田は暴力しか理解しない。言葉という高次の精神性はハナから欠けているように思える」

「しかし、そのワリには暴力的芸がない」

「力任せなだけさ。チンピラ芸だね。ガキの頃から気に食わない人間を腕力で黙らせていただけだろう。衰えれば簡単に馬脚が出る。もうヤツも高腰な姿勢は無理だね」

「荒事のエキスパートがいうんだから、間違いあるまい」

「暴力には高次の神経性がないと、単なる粗暴だね。ビクビクするくらいでちょうどいい。でなきゃ、必ず若くて勢いのあるヤツが勝つ」

「相当痛んでんのか、長田は?」

「掌の粉砕骨折くらいだな。痛いだろうけど、命に別状はない。しかし、ネズミのダンナ。長田がうわごとのようにいっていた神人ってなんだい?」

「それか。神人と書いて、シンジンとは読まん。ジニンと読むんだがな、簡単に言えば神社なぞに隷属した下級神職、ってことかな。その職は天皇より勅許されたもの、と称しているらしい。しかしその成立はどうあれ、最終的には被差別民の濫觴になったらしいがな。もっともオレは歴史学者じゃないんで、あまりエラソウなことはいえん」

「じゃ、長田は川崎真理子という神に仕えるジニンってことか」

「だろうな」

「ふ〜ん。わけがわからんね」

「オレも川崎の家で頭が痛くなった」

「どういうことなの?」

オレは川崎の家でのハナシを、なるべく噛み砕いて話したつもりだ。

しかし話しているオレ自身が、途中で自信がなくなった。

はたしてこういうハナシが受け容れられるものなのかどうか、判断できん。

ただ、和田さんはじっとそのハナシを聞いていた。

「ダンナが頭が痛くなった理由がわかったよ」

オレは肩を竦めた。

「山下がすでに川崎家を監視下に入れている」

「なるほど。さすがだね」

「山下はできる。まだ山下は長田が和田洋子、宮崎一平の殺害を認めたことを知らない。しかし勘所は押さえてある。ああいう優秀な刑事が定年退職して、雑魚ばかりになると警察の捜査能力もガクンと落ちるだろうな」

「そいつは違うぜ」

言下にケンスケは否定した。

「なぜだ」

「それは団塊の勝手な思い込みだ。常に老人から見れば若造は頼りなく見える。しかしな、常に前線で働くものの力量がすべてさ。次世代の警察力量が落ちるなら、犯罪者の力量も等比例して落ちるのさ。イーブンだよ、全部な。繰言はやめようぜ、ネズミのダンナ。アンタにゃ繰言は似合わねぇな」

「フン、勝手にしろ」

一本取られた悔しさに、オレは悪態をつくしかなかった。

「と、なると、だ…。長田が向かうであろうそのクソ田舎に、当然、山下から手配がはいるわけだな。ダンナはどうするんだ?やはりそこへ行くのか?」

「行かなきゃ始まるまい」

「オレも行こう。エキストラチャージはまけとく」

「ほほぅ。気前がいいな」

「義侠心といって欲しいね」

「外人部隊にもあるのか、そういう和朝の美意識が?」

「さあ、どうかな。ま、どっちでもいいじゃん」

ケンスケがニタッと笑うと同時に、和田さんが、私も行くわ、と決然、いい放った。

オレとケンスケは思わず振り返り、彼女の顔を見た。

「和田さん、本気か?」

「本気に決まってるじゃないの、ケンスケさん」

「それは…。きな臭さが濃厚に漂ってるぜ。ヤバイよ、それは」

「あら、どうしてかしら。そこに長田がいて、わたしに拱手傍観していろと仰りたいの?」

「いや、そこまではいわないけどさ…」

ケンスケが助けを求めるような顔でオレを見た。

「和田さん。それはケンスケの直感から出た警告だと思うぜ。オレもちょっと危険だと思う。なぜなら…」

「わかってるわ。長田だから、でしょ。あなたやケンスケさんの話で大体の想像はついてるわ、剣呑極まりない男だって。でもね、女としては危ないかもしれないけど、洋子の母親としては許せないわ」

「許せないなら、どうするんだね?」

「殺すの」

輝くような笑顔で和田さんが答えた。

殺す?

オレは素っ頓狂な声に裏返ったかもしれない。

「そう。徹底して無慈悲に。洋子が殺されたのと同じように無慈悲に。素敵と思わない?」

「あ、いや、和田さん、落ち着いてくれ」

「あら、わたしは冷静よ」

「あー、つまり、これは仇討ちではないのだ。法治の国として、犯人は警察に渡さなければならない」

「理屈はね」

「いや、理屈じゃない。人間としての義務だ」

「わたしは人間であること以前に母親であることを選択するわ」

「いや、だから、えーと、なんだ…弱ったな」

「ほら、御覧なさい。返事に詰まるじゃないの」

オレはケンスケを見た。

ケンスケも弱り果てた様子で、肩を竦めるしかなかった。

「いいこと。わたしも洋子がこうなる前までは、法治を信じていたわ。悪いことをすれば、法によって裁かれ、刑務所へ入れられて罪を償う、って。それが国の当然の姿だ、って。でも、それは理屈よ。やられた側の苦しみはなにも顧慮されてないわ。やった側は忘れることができても、やられた側は忘れられないの。こんな当たり前のことに、当事者になって初めて気付いたわ」

「しかし、それが法だ」

「そうね。そうでしょうとも」

「えと、和田さん。オレはうまくはいないんだが…」

ケンスケが顎を撫でながら切り出した。

「それが犯罪の始めなんだと思うよ。いや、和田さんが犯罪者だといってるわけじゃないんだ。法でコントロールできないから、人は罪を犯すんだな。法がなければ犯罪でもなんでもない。やられたからやりかえす、じゃ果てしない犯罪の連鎖にしかならない。オレは和田さんが連鎖の中に入って欲しくない」

「だって、洋子は長田に殺されたのよ」

「わかってる。でもね、和田さんは手を汚しちゃいけない」

「無理よ。汚さなきゃ仇はとれないわ。第一、そうしないと屈託が晴れないわ」

「仮に屈託が晴れたとしても、満足できるかな。殺伐とした空虚感しか残んないんじゃないかな」

「それはわからないわ。だってこんなことを考えること自体、初めてなんですもの。ケンスケさんに経験はおありになるの?」

「犯罪でない殺人、ということなら」

「え?どういうこと?」

「戦争」

ケンスケがボソッと呟いた。

「オレはフランス国籍欲しさに外人部隊にいたんだ。派遣先のゲリラ戦でなら、何人も殺した。でなきゃ殺されていた。オレは戦争がビジネスだったからね。ただ、決定的な違いは憤怒にまかせてライフルをブッ放したことはない。いつも恐怖心からライフルの引鉄を絞っていた。殺らなきゃ殺られる、ということ」

「…」

「死体なんざイヤんなるくらいに見てきたさ。でもね、そんな光景は苦いばかりで、少なくとも充実はしてないね。ああ、今日も生き延びることができた、という安心感だけだった。あー、こういうのは参考にはならないかな」

「…」

「そう、和田さんのいいたいことはわかっている。それは戦争であって、わたしのような私怨に基づくものじゃない、ということでしょ。でもね、戦争の発端なんて、突き詰めれば私怨を国家的、民族的に膨らましただけさ。気に食わない、腕力。腕力に対して集団的報復。それの仕返しに銃。銃でダメなら爆弾、ミサイル。最後は正規軍同士の殲滅戦、ってことさ。とどまるところを知らない」

ケンスケは驚くほど雄弁だった。

「そうね、理で考えればそうでしょうね。でも、納得できないわ。どうしても長田を抹殺したいという、ドロドロした憤怒が拭えない。いいの。わたし長田に宣戦布告する。わたしそんなに理性的になれないわ」

今度はケンスケが言葉につまった。

オレの出番かね、ここは。

「戦争哲学を語っても詮あるまい。どちらの考えも正しいのさ。まあ、商売柄、ケンスケに与する気分のほうが大きいが、和田さんのいうことも情としちゃ痛いほどわかる。まあ、スタンスの違いってとこで、両方とも納得してくれ」


そうなんだ。

哲学論議ほど不毛なものはない。

お互い譲れない部分を語り合うわけだから、噛み合うわけがない。

お互いを認めるか、あるいは無視するか、いずれしかない。

政治や外交のように、足して二で割るというわけにはいかんのだ。

「ただな、和田さん。強引に止めるわけにもいかんが、ケンスケのいうとおり、その地にキナ臭い雰囲気が漂っているのは間違いない。ましてや長田がそこを目指しているとするなら、なおさらだ。いや、多分、ヤツは向かっているだろう。そう考えるほうが自然だ。長田は普通じゃない」

「普通でないから洋子を殺したのよ」

「まあ、揚げ足を取らんでくれ。和田さんがエキサイトするのも無理はない。しかしな、これだけはいっておく。エキサイトした行動はどうしてもスキだらけになる。勢いだけじゃダメなんだ。とりわけ今回のようなケースでは、緻密な計算が必要なんだ。匹夫の勇だけじゃ、単なる暴発なんだ。和田さんも長田に報復したいと思うのだったら、オレたちの意見を冷静に聞いてくれ」

「あら、それは来ちゃダメだ、ってことかしら」

「止めても来るんだろ?」

和田さんは大きく頷いた。

「ただし、これから先は自己責任だ。しかしオレは和田さんの気の済むようにやらせるのも仕方ないと思っている。常識ぶった偽善家にはならんよ」

おい、ほんとかね、と呆れた顔をしてケンスケがオレを見た。

「オレには荒事をくぐってきた経験がある。ケンスケにいたっては知恵も度胸もある。だからオレたちのサジェッションは尊重してくれ。むざむざ長田に返り討ちに逢うのも業腹だろ?」

「そうね。餅は餅屋ってことね」

「ま、そういうことさ。それよりどうだ、少し早いがマリーんとこでも覗いて、ナイトキャップといこうか。明日のことも相談しよう」

「早速、明日いくのね」

「ああ、行く。どうせやらなきゃいけないことは、グズグズしないですぐに取り掛かる。フリーランスを張る原則さ」

「しかし、店がまだ開いてないだろ?」

「ケンスケ、心配すんな。マリーに連絡して、申し訳ないが開けてくれ、と頼むさ」

「ヘッ、オカマともご昵懇かい?」

「茶化すな。マリーのオカマ姿は趣味なのか営業なのかわからんぜ。一度、マリーのマンションを覗いたことがあるが、実にキレイな部屋だった。見事になにもない。茶室のような風情だった。一分のスキもない。オレは唸ったぜ」

「ほーっ、それはそれは」

「マリーさんって、だれ?」

「ああ、失礼した。マリーって店の女将だ。ただしオカマだ。陸上自衛隊あがりなのだが、実に想像力豊かないいヤツだ。多分、和田さんのメガネにも適うと思う」

「素敵な方みたいね」

「そう。男なのが惜しい。女ならオレが放っておかん」

「あら。あなたでもそんなこと、お考えになるの?」

あ、いや、そんなことはない、とオレはヘドモドしてしまった。

クッソー、外しちまったぜ。

オレは事務所の電話を取り上げ、マリーの携帯に電話をいれた。

留守電に切り替わったそれに、三十分後に行きたいので、開けてくれ、と伝言をいれた。

もう一杯、ほうじ茶でも啜れば、すぐに時間はたつだろう。




ローカル線の無人駅にヨロヨロと長田が降り立った。

降りた客は長田一人だった。

駅前のロータリーには老婆が二人、手押し車にもたれかかって話をしている。

そのほかには、開いているのか開いてないのかさえ判然としない、朽ちたような商店が二、三軒あるばかりだ。

殺風景とはこのことか。

長田は駐車しているタクシーに近づいた。

運転手はいぎたなく涎を垂らしながら眠り込んでいた。

長田は前輪のタイヤを蹴飛ばした。

ビックリ箱のように運転手が飛び起きた。

ア、ドーモ、スイマセン、と目を擦ると、後部ドアを開けた。

どちらまで、という運転手の問いに、長田は川崎真理子が神との接近をはかっているという集落の神社を告げた。

走り出してすぐ、駅前の集落を抜け右折すると、道は急な登りにかかり、風景が一気に深い森へと変わっていった。

山体を巻くように登り、向こう側の斜面へと下る。

落ち込んだ谷の底に渓流が流れている。

珍しいことに杉の人工林ではなく、落葉樹の森が広がっている。

日本の中では稀有な例だろう。

「お客さん、やはりあの神社関係の方ですか?」

「ああ、そうだが、どうかしたか」

長田が不機嫌そうに答えた。

それでも運転手は田舎者そのものの鈍感さで続けた。

「いや、最近、あそこに行ってくれ、ってお客さんが多いんすよ。メーターがあがるんで有難いんですがね、あそこは、ほら、下流のダムができりゃ、水没するんでしょ?なにかあるんですか?」

「大きなお世話だ。黙ってろ」

ヘッ、と運転手は首を竦めた。




和田さんが取り替えてくれたほうじ茶を啜るケンスケの手が止まった。

「あれっ、そういうことか…」

「どうした、ケンスケ」

「あ、いや、えーと、川崎にまつわるハナシは靴屋の隠居、滝川さんがネタ元だったよな」

「そうだが、それがどうかしたか」

「ちょっと気になることがあってね。オレ、今から滝川さんとこ行ってくるわ」

「老人は夜が早いぜ」

「ああ、わかってる。そのときは出直しするさ。後で、マリーの店に行く」

それだけいうとケンスケはスッと出て行った。

「なにかあったのかしら」

「さてね、わからんね」

和田さんの問いに、オレはそう答えるしかなかった。




禍々しい予感がするわ、と女がいった。

その対面に座ったもう一人の女も、来るわね、といった。

「バラバラのカオスが収束しそうね」

「しかも破滅への跳躍をこめて、でしょ」

静まりかえった空間の中で、床机に座った白装束の女が二人、凄絶な微笑を交わした。




長田の乗ったタクシーは行き止まりになった小さな空き地に停車した。

「えーっと、九千八百円っすね」

運転手がメーターを戻しながらいった。

「そうか」

長田は前を凝視したきりだった。

「お客さん、そうか、じゃなくって運賃払ってくださいよ」

「金か。オマエに払う金はない」

「お客さん、冗談はなしにしましょうぜ」

「オレは冗談がキライだ」

運転手の顔色が変わった。

「おい、あんたハイなしか?乗り逃げって寸法か?」

「貸しとけ」

「ふざけるな。このまま戻って警察へつきだすぞ、コラ。乗った金くらい払いやがれ、このカスが」

「おい、オマエ、だれに向かってものをいってる。カス、ってなオレのことか」

「乗り逃げはカスのやることだろうが、このボケッ!」

「なんだと、このぉっ」

長田の凶相がみるみる赤黒く歪んできた。

ケンスケにやられて以来、沸騰し続けている昆虫なみの長田の脳が一瞬で暴発した。

バックパックをまさぐり、ケンスケがパチモノと酷評した安物ナイフを引き抜いた。

オ、ア、ア、ア、ア…。

運転手が言葉にならない叫びを上げた。

眼球が恐怖の余り突出していた。

かまわず長田は運転手の喉元をめがけ、力一杯、ナイフを突き立てた。

いくらナマクラな刃物とはいえ、力任せのそれは運転手の喉を深々と刺し貫いた。

苦し紛れに運転手はナイフの刃を掌で握り締めた。

かまわず長田はナイフで喉を抉るようにかき回し、一気に喉首から引き抜く。

ヒューと薬缶が沸騰するような音を立て、大量の血が噴き上がった。

頸動脈を掻っ切ったからだ。

飛び上がるような痙攣とともに、運転手の体が傾ぎ、そのまま助手席側に倒れこんだ。

長田は荒い息で酸素を体に送り込んだ。

口臭がさらにきつくなった。

ノロノロと後部座席から這い出し、長田は運転席ドアを開けた。

運転手の下半身を助手席側に押し込み、ハンドルを握る。

ズボンの尻が運転手の血でヌルヌルするが、気にも留めない。

どうせ、あとで捨てるしかないのだ。

行き止まりからわずかに戻ると、谷底に車を転落させるのにこれ以上ない断崖がある。

谷底の渓流まで十分な距離があり、視界を遮る落葉樹の木々が、ちょうどよく繁っている。

長田はバックパックを車外に放り出し、おもむろに血だらけのシャツを脱ぐと、それで二千回転ほどにアクセルを固定した。

ニュートラルにあるオートマチックバーをドライブレンジに叩き込む。

ゴン、という衝撃とともにタイヤが空転し、ズズッと走り出した。

法面を過ぎ、車体が一瞬宙に浮くと、車輪の空回り音が大きく響いた。

それもごく僅かな時間だった。

フロント側から車体が谷底へ落下していく。

三回転までわかったが、それから先は雑木林の陰に隠れ、なにも見えなくなった。





相変わらず、オカマのマリーの店は掃除が行き届いていた。

口開けの異臭がしない。

よろしい。

実によろしい。

閉店のあとにマリーが徹底的に掃除をしているか、あるいはプロに依頼しているかのいずれかだろう。

オレは後者と見たがな。

掃除にぞんざいな店はすぐにわかる。

口開けを覗けばいい。

三流の店は腐敗臭がする。

生ゴミの臭いがする。

あれはいけない。

飲み屋、あるいは食い物屋の常識を逸脱している。

そんな店は敬遠しろ。

金を払って飲む価値はない。

飲み代は、その店の清潔とアテンドに支払っていると思えばいい。

エラソウな客風を吹かすのはヤボだが、飲み屋に清潔を要求することは、エラソウでもナンでもない。

第一、掃除すらキチンとできない店は長くないな。


おっと、説教している場合じゃなかったな。

コトは次第に煮詰まってきているのだ。

最初の一杯はありきたりだが、ドライマティニィ。

これしかなかろう。

冷凍庫でキンキンに冷やしたジンにドライベルモットを少し。

オレはバカなドライ競争はしない。

ベルモットはちゃんと入れる。ドライがよけりゃ、そのまま生で飲めばいいのだ。

ビターはアンゴスチュラよりオレンジのほうが好きだ。

ああ、それとレモンピールのツイストは欠かせんな。

グラスに浮かぶレモンピールの脂が最高のアクセントだ。

そもそもレモンは悪主張をしたがる柑橘で、なんでもかんでも強引にレモン味にしてしまうのがキライだ。

しかしツイストで霧のように放出された脂のあえかな香りは…。

いかん。

ウンチクになっている。


とりあえずマティニで頭をほぐす。

和田さんはスコッチアンドソーダを頼んだ。

悪くないチョイスだ。

ウィスキィやバーボンは、本来、生のまま飲むのが一番うまい。

割るとしたら炭酸しかないだろう。

細かな泡が香りを押し上げるのだ。

水で割るのは愚の骨頂だな。


さて、三口でマティニを流し込んだあとは、バーボンといこうか。

それとハイライトだ。

こうやって血流量を増やさなければ、まとまるイメージもまとまらない。


ああ、説教とウンチクついでだ。諸君、もう少し付き合いたまえ。

冷徹な論理構造を分析統合する際に、酒精は厳禁だ。

酒精は論理の跳躍と感性とイメージを加速させるからだ。

いささかの瑕疵も許されぬ数理的な論考には、危険こそあれ、益することはまったくない。

しかし、これは犯罪だ。

情だ。

ドロドロした人間性の営みだ。

理非曲直を論じるわけではない。

ならば、その実態をまさぐるために、イメージと感性に足枷を嵌めてはならないのだ。

自らの持つ経験則とイメージ力をもって、自由自在にあらゆる角度から眺めなければ筋が見えてこない。

これはオレの経験則だ。

いや、そんなことはない、酒精は厳禁だ、というヤツもいるだろう。

しかしな、イメージや感性はその人それぞれのまさに属人的な世界なんだ。

自分がイメージしやすい手段、方法をとればいい。

トイレがよければ、ご随意に。

電車や車の中がよければ、そのように。

オレは酒精がないとダメ。

そういうこった。


「ご婦人と一緒なんて、珍しいじゃない」

オカマのマリーが背筋を伸ばして聞いてきた。

マリーは姿勢がいい。

自衛隊上がりだからなのかもしれんが、立つ姿勢が美しいと、こちらまで気分がいい。

いくら場末のオカマバーだからといって、店も女将もだらしがないと、自分まで腐っちまいそうだ。

「ああ。紹介しよう。こちらが和田さんだ」

「あらそう。お噂はかねがね。こちらのダンナにいわせると、それこそ海棠の雨に濡れたる風情、と仰ってたけど…。そうね、悔しいけど見るからに素敵な方ね」

「どうも、お褒めいただいて。お世辞でもうれしいですわね」

「あら。オカマの審美眼は確かなのよ。女より女のことを知らないと、オカマの看板は上げられないのよ」

恥ずかしそうに和田さんが下を向いて微笑んだ。

高校生の頃だったら、この笑顔だけでクラクラしていたんじゃないかな。

「お二人が店に現れる直前に、電話があったわ」

「電話?だれから?」

「山下刑事。ネズミは来たか、って」

「で?」

「もうすぐ来るって電話があったって答えた。そしたら、そうか、で切れたわ」

「山下刑事らしいな。そのうち鼻の頭でも見せるだろう」

「山下さんもよく来られるの?」

「ああ、そうか。山下が和田さんの担当刑事だったな。いや、たまに来る、程度かな。オレは深酒は止めた、といってた。署の健康診断で最悪の数値がでたらしい。オレはもう長くない、とかいってたけど、なに、山下刑事みたいのが、一番しぶといんだ」

「そう。山下さんと健康診断なんて、ピンとこないわね」

「そりゃそうさ。お互いこの歳まで無茶ばかりやってたんだ。それでどこもかしこも健康ですなんて、そんな世間を舐めちゃイカンよ、と忠告したがな」

「で、なにか仰ったの?」

「末娘が結婚するまでは、シャンとしていたいといってた」

「あら、山下さんが?ますますイメージできないわ」

「いや、そんなことはないんだ。マイホーム主義者のような刑事が、一番しっかりしている。地に足をつけたリアリスト、と言い換えたほうがいいかもしれん」

軽いジャブの応酬のような無駄口を暫く続けた。

マリーも和田さんもリラックスしているように見える。

それはいい。

これは今だけの偸安なひと時だ。

明日からのことを想起すれば、少しくらいはハメをはずしてもいいだろう。


二杯目の酒が空になった頃、これ以上ない仏頂面で山下刑事が店に入ってきた。

カウンターに掛けようとして、和田さんに気付いたとき、オッと腰が引き気味になった。

「おや、和田さんもご同席とは、ね」

和田さんは軽く頭を下げた。

お探しだったそうで、とオレは山下にいった。

「なぜオレがオマエを探さなきゃいかん。勘違いするな。オマエがオレに報告をするんだ。ああ、ビールをもらおうか」

チェッ、返事はビールの注文と一緒、それも説教付きかい。まったくヤレヤレだぜ。

「で、ケンスケのハナシはどうだったんだ?」

磨き上げられた小ぶりなグラスにマリーがビールを注いでいる。

それを眺めながら山下は、視線も上げずにいった。

「うむ、そのことか。じゃ、結論から先にいおう。宮崎一平と、えー、和、和田…」

「気になさらないで。明日以降のことを考えたら、拘泥なんてしえいる暇はないわ」

和田さんがオレの気持ちを先回りしていってくれた。

有難い。

いいか諸君。

こういうのが想像力というんだぜ。

「なんだ、その明日以降、ってのは?」

山下刑事がオレにむかって身を乗り出した。

オレはそれを遮るように、軽く掌を山下に向けた。

「ああ、そのことは後で触れる。とりあえず、だ。宮崎一平、和田洋子に手をかけたのは長田だ。本人がケンスケの前で認めた。どうやって証拠を固め、起訴、公判維持するかはそちらの仕事だが、オレたちには長田本人が認めただけで十分だ」

「すんなり吐いたのか、長田は?」

「いや、アンタがどこまで長田のことを把握しているのか知らんが、元来がクソなヤツだ。能無しの粗暴だ。そういう人間にはそういう対応をしなきゃならん」

「商売柄、薦めるわけじゃないが、理解はできるな。しかし、それで動機はつかめたのか?」

「皆目。八幡の藪知らず状態だ。それで明日以降、というハナシとリンクする」

「構図は?」

「長田を追う。どうせそっちでも追っているんだろ?」

「それは捜査上の秘密だ」

山下の顔色に若干の狼狽が見て取れた。

山下のような腕っこきでも、どこかで抜かったのか?

「そうか。まあ、警察は警察でやってくれ。こっちの件は是非、民事不介入で頼む」

「ふん、オマエこそ問題を起こすな」

「わかっている。ああ、ひとつだけ伝えておこう。長田は川崎真理子の神人と信じているらしい」

「神人?なんだそりゃ?」

「あー、それはだな…」

「神に仕える下級神職の総称みたいなものね」

マリーが会話に入ってきた。

オレと山下、それに和田さんも思わずマリーを見つめてしまった。

「あら、間違ってるかしら」

「あ、いや、それはあっているんだが、よく知ってるな」

「色気のないハナシなんだけど、わたし、大学で日本中世史を専攻してたの。もっとも中退して自衛隊に入っちゃったけどね」

山下は口に咥えたロングピースを上下に振った。

答えられないときの山下の癖だ。

「初耳だ。ブルースハープといい、中世史といい、マリーには驚かされる」

人にはたくさん秘密があるのよ、とマリーが笑った。

まあ、そうだろう。

秘密でもいい、芸でもいい、あるいは経験でもいい、なにかしら襞や影がないと、人の厚みがてんで違う。

「あー、中世史専攻のマリーに尋ねるが、長田が川崎真理子の神人と称しているのは、どういう意味なんだ?」

山下が今度はロングピースに火を点け、尋ねた。

「んー、どうかしら。神人というのは中世史的には天皇から勅許された職人集団を指すのよね。たとえば大葬の際の葬送を担う瀬田童子とか、石清水八幡宮の石清水神人は魚の座、八坂神社の堀川神人は材木の座を拵えていたの。細かい経緯は省くけど、それが転化して漂白の民になったとき、近世における被差別民の濫觴になったのではないか、とする説もあるわ」

「彼らが自由に渡海渡関することを保証するという書付は、天皇綸旨や院宣の形を取っているけど、まず捏造されたものね。だけど、彼らにはそういうビジュアルな書付が必要だった。単なる漂白民じゃ乞食と変わらないわ。となると当時、それをオーソライズできるのは、日本最高祭司である天皇でしかなかったのよ」

「つまり彼らは最高祭司の末端であり、祭司に必要な霊性を保持していると誇示したかったんじゃないかしら。逆に言うと、確認方法がないのだけれど、事実、霊的能力があったのかもしれない」

「その霊的能力をインスパイアするのが、中世では天皇であったのだけれども、長田にとっては天皇的役割が川崎真理子なのかな。でも、どうかしら。私自身は霊的であるとかないとか、まったく信じないわ。そもそも霊的であることは秘することこそあれ、喧伝するべきものではないと思ってる。声高にいうのは、まずインチキよね。なんとかいう黄色の髪のオカマとか、細木ナントカとか、ガチホモそのものの江原ナニガシなんてのは胡散臭さがプンプンだわ。人を不安にして金儲けしようなんて、品性が卑しい。彼らがオカマやホモだってのが許せないわ」

「その説にオレは三万円張り込もう。まったくその通りだ。しかし、マリー。マリーのオカマ姿は本性か、営業用か」

オレの問いにはマリーは答えなかった。

「序と破まではわかった。では、急はどうなる?」

山下が後を継いだ。

「想像よ。あくまでね。芸能マスコミに近い妄想を許されるとしたら…」

「としたら?」

「日本の神々は汚穢を嫌う。不浄を忌避するのよね。その二本柱が黒不浄と赤不浄。黒不浄とは死のことで、赤不浄とは血のこと。ただ神々も時に暴発することもある。それで神々が直接的な行為になせないとしたら…神人に代行させるということ」

「じゃ殺人なんてのは…」

「黒不浄かつ、赤不浄。神々には手が出せないわ。配下の神人にやらせるという絵のほうが、据わりがいいわね」

オレと山下は思わず視線が絡んだ。

和田さんはマリーを見つめたままだ。

「なんらかの理由で宮崎一平君と和田洋子さんを抹殺しなければならなかった。それは神の意志ね。有体にいえば川崎真理子の意志じゃないかしら。その実行は神人に委ねられる。神人とは誰か。簡単よね。ナ・ガ・タ」

山下はまた火の点いていないロングピースを唇で上下させた。

和田さんは肘をカウンターにつき、コメカミから後方へ髪の毛を撫で上げた。

オレは顎の下を撫でた。少し伸びた髭が鬱陶しかった。

「つまり、二人の死体の向こう側の本筋は川崎真理子、ってことか?」

「これまでのハナシを絵に描くと、一番据わりがいい構図はそれじゃないかしら」

想像だけどね、と言葉を足してオレの問いにマリーが答えた。



崖下はるか下方に転落したタクシーは、長田のいるところからはまったく視認できなかった。

血の跡はザッと見たところなさそうだ。

短い草にタクシーの轍が辛うじて判別できるが、どうせ少しの間だけタクシーが発見されなければいいのだ。

オマジナイ程度は誤魔化せるだろう。

それより急がなければ。

陽も随分傾いてきた。

神域に到着する頃にはトップリ暮れているだろう。

漆黒の闇をヘッドランプを頼りに歩くのも骨だ。

明るいうちに距離を稼ぎたい。

返り血を浴びた体を引き摺り上げるように長田は山道を登った。

本来の登山道ではなく、脇にそれて獣道のような踏み跡を上がっていく。

こちらだと素っ頓狂な登山者に会うこともない。

それにしてもケンスケに粉砕された掌がひどく痛む。

クソッ、と長田は呪詛の言葉を吐いた。

痛みに悪態をつき、ゼエゼエと喘ぎながら鬱陶しいヤブコギを暫く続けると、渓流沿いの杣道に出た。

乾いた丸石の上にバックパックを放り出し、長田は血まみれのシャツやパンツ、下着から靴下まですべて脱いだ。

それらを丸めると、力任せに雑木林の奥に投げ込んだ。

下草がうまい具合に隠してくれる。

ザブッと流れに座り込み、汚いタオルで体中を拭いた。

タオルは血と汚れですぐに赤黒くなる。

その度に流れにタオルを浸し、ゆすぐ。

掌の痛みをこらえながら、蓬髪から足指の股まで、長田は念入りに擦り続けた。

これほど体を洗うのは数ヶ月ぶりのはずだった。

さらに、長田には下心もある。

神域に到着次第、川崎真理子と肉を交えるのだ。

そのことを想起すると思わず口元が歪む。

笑いという高度な感情表現ではない。

筋肉がだらしなく弛緩するという方が正しいだろう。

最後に耳の穴をタオルで拭くと、バックパックから捨てた衣類より少しはましな着替えを取り出した。


すっかり着替えたあとに、長田は靴の替えがないことに気付いた。

煮染めたようなボロボロのスニーカーだから、多少誤魔化せるとはいえ、血の跡はありありとわかる。

靴の中を覗くと、血糊でグズグズになっている。

しばらく考え込んだあと、長田はスニーカーを渓流の中につけた。

ケンスケに粉砕された片手が使えないから、苦労して血糊を落とす。

溶けた血糊でスニーカーの周りの水が赤黒く変色した。

水を切り、素足にそのまま履いた。

靴下が一足しかないのだ。

ジュクジュクに湿った靴下を履き続けるのは、さすがの長田も願い下げだったのだろう。

バックパックを背負うと、長田はノソリと歩き出した。

スニーカーが擦れ、一歩ごとにボフッボフッと淫靡な音をたてる。

年増の女郎の抜き差し音だな、と長田は思った。

道はまだ随分ある。

アップダウンのきつい杣道で峰を二つほど巻かねばならないのだ。

まあ、渓流沿いなだけに、水の心配はないが、空腹感がきつい。



「じゃ、そろそろ祝祭の準備を始めましょうか」

「もう、始めるの?」

「それほど余裕はないんじゃないかしら」

「時間が、ということ?」

「ええ」

そういうと川崎真理子は床机から立ち上がった。

無垢のヒノキで囲繞された空間がそこに広がっていた。

「真知子姉さんには神人どもに準備をさせていただきたいの。食事も摂らせて、武器の用意もさせてちょうだい。とりあえず文龍名に命令してやらせるといいわ」

「いきりたってるわよ、文龍名。古朝鮮の膂力を見せてやるって。年寄りの冷や水にならなきゃいいんだけど」

姉の川崎真知子が嫣然とした微笑をたたえながらいった。

「まあ、あの男もミイラ取りがミイラになっちゃったわね。そもそもわたしたちのような祝福された血を、クソみたいなインチキカルトに仕立て上げて、金儲けしようと考えるなんて、まったくどうかしてるわ」

「まったくだわ。でも使い勝手はいいわよ。こと金のことになると、ぬかりがないわ。それに暴力団とのつながり、半島北とのパイプ、そのおかげで火力銃器を購入できたわけだし…そういう面ではそこそこ使えたわね」

「豚には豚の価値があるのよ」

川崎真理子の傲岸な表情に、真知子も了と微笑んだ。




「しかし、しかし、だぞ。一体、なんのために若者二人を殺す必要があるんだ?」

「それは川崎姉妹でないとわからないわね」

「姉妹だと?」

オレは自分でも声が裏返っているのに気付いた。

「おかしいかしら?」

山下もキツネにつままれたような顔をして、マリーを呆然と眺めていた。

「なぜ姉妹、だと思うんだ?仮に川崎真知子が噛んでいたとしても、川崎真理子は妹の真知子を奪還してくれ、と依頼してきた本人なんだぜ」

ヤレヤレ、といわんばかりにマリーが肩を竦めた。

チェッ、そのポーズはアメリカ南部仕込み、ってわけかい。

「ネズミ式トラブル解決って、要はカンでやってるんでしょ?つまり想像力で。自分でもよくいってるじゃない、オレは警察じゃない、証拠もクソもあるもんか、って。公判維持をするんじゃないから、オレが真実だと思えればいい、って。だったら少しは想像力、えーと、カンよね。カンを効かせたらどうなの」

なんでぇ、こんどは説教かい。

ヤブヘビだな。

「カンを働かせたら、どうして姉妹がグルっていえるんだ?」

「あらら、ヤキが回ったわね、不撓不屈のネズミさんも。いいこと、じゃ、聞くけど、なぜ姉妹がグルでないといえるの?」

オレはグッとつまった。

そうだ。

その通りだ。

単に姉の川崎真知子がオレに依頼をしてきたからといって、グルではない、という証明にはならない。

川崎真理子奪還を依頼してきた、という事実があるきりじゃないか。

迂闊だ。オレは無邪気になにも疑っていないかった。

「でもだぜ、じゃあ、だからといってグルだ、とも断定できまい?」

やり込められ続きの業腹さに、オレはダメ出し的ヘボ質問を発してしまった。

マリーはダメだ、こりゃ、とばかりに頭を二、三度振った。

「あなた、も少し学習しなさいよ。いいこと、今回の背景を通底するものはなにか、理解している?」

「えー、信仰というか、宗教というか、んー、つまりなんか得体の知れないことだな」

オレは脳に汗をかきながら、答えた。

「雑駁な捉え方だけど、まあ、いいでしょう。そういうことよ。あのね、この混沌の中心は川崎姉妹以外に考えられないの。それはなぜかというと、一本、貫く幹があるとすれば、それは反合理主義なんだろう、とわたしは思っている。西洋キリスト教的合理主義に相反する東洋的神秘主義ね」

オレは頭を掻き毟った。

頼むわ、もう哲学論争は勘弁してくれ。

「もう少しガマンしなさい。コラエ性も男の値打ちよ」

クソッ、一から十までいわれ放題だぜ。

それもいちいち肯綮に中っているから、グウの音もでやしない。

「問われるべきは祭司者の血、なのよ。川崎徳一がいうまでもなく、一統として連綿と流れる血の正当性こそが、祭祀を行う条件なわけ。中国皇帝も天皇家も、極端なことをいえば北朝鮮の金親子もすべて血、なのよ」

山下はオレを見て皮肉な顔でもしているかと、一瞥したが、思いのほか真剣な顔付きで耳を傾けている。

ヤツもきっとマリーに度肝を抜かれているのだろう。

「その血の正当な継承者はだれ?そうよ、簡単じゃない。川崎姉妹なのよね。第一、姉妹で、なにかを考えている、企図していると想像するほうが、構図が見えやすいし、落ち着きがいいわね」

「なにを企図してんだい」

「東アジア的千年王国」

和田さんが片頬を手に預けていった。

「ヒトラーが夢想した千年王国ってことか?」

山下がオレのいいたいことをいってくれた。

「アーリア人的発想ではないにしろ、ね」

「どういうことだ?」

畳み掛けるように山下が継いだ。

「あの、うまくはいえないのだけれども、川崎姉妹の発想って、推し量れそうな気がする。彼女たちにとって、今の正解的な姿に我慢ができないのじゃないかしら。余りにも人としての当たり前がないがしろにされている、と。その原因を彼女たちなりに探った結果が、反東洋的なるもの、つまり西洋的功利主義がその濫觴である、と考えたんじゃないかしら」

頼む。

オレのザル頭が破裂しそうだ。

もっとこう、具体的に小ざっぱりした理屈でいってくれないか。

哲学論争なんざ、大学教養部以来なんだ。

頭脳に向き不向きがあるとしたら、オレの頭は基本的に稠密ではないのだ。

「例えば、人のたつき、ということ。農耕でも狩猟でも、あるいは職人でもいい、すくなくとも労働に対しての対価を得ることでたつきがなりたつ、と少なくとも日本人は考えていた。額に汗して働くことで、ゴハンが食べられる、ってね。ところが今はどう。労働の相対的位置が極端に低下しているんじゃないかしら。お金をネット上でやり取りすることでカスリを取る。それが成功者の姿という現実。おかしくない?」

和田さんはひどく饒舌だった。

「それはどのような金融用語を使って説明したって、所詮はバクチじゃない。アケスケにいえば、バクチ経済が世界を牛耳っている。世界中で巨大な鉄火場が行われているのよね。経済のグローバル化というキレイゴトを裏からみれば、賭場で熱くなっているヤクザモンと少しも違わない」

まだあるわ、と和田さんが続けた。

「世紀末的な猟奇犯罪の数々。山下さん、刑事という商売柄、なにか感じません?」

「ああ。それはね。デカになりたての頃、まだ犯罪にも人の情というか、理解はしやすかったな。男女の愛憎の果ての惨劇なんてのは、コトの良し悪しはともあれ、なるほどこうか、と納得できたもんさ。ところが、今は違う。今回のこともそう。一体、なにをどうほじったらこういう結果になるのか、説明されてもわからんケースが度々だ」

「なぜそうなったと思います?」

「オレは評論家じゃないんでな。犯罪の解釈鑑賞はしない。犯人を挙げるのが仕事だ」

山下はロングピースに火を点けるのも忘れている。

「でしょうね。しかし、わたしはこう思っている。そして多分、川崎姉妹もそう感じたがゆえ、精神における革命を目指したんだと思う。端的にいえば人間性の回復」

そこで句読点を打つように、和田さんはチェイサーを一口含んだ。

「何年か前に、女子高校生がコンクリート詰めにされて殺された事件があったでしょ」

「ああ、ずいぶん世間を騒がせたやつだな」

オレは軽い相槌をうった。

「わたし、実は、その女子高校生の母親をまんざら知らない仲じゃないの。それで…」

和田さんの表情が苦痛に歪んだ。言葉にすることに極めて逡巡している様子が見える。

「思い出すだけで髪の毛が逆立ちしそうなんだけど…」

沈黙が続いた。

BGMのビリー・ホリディの曲が気を滅入らせた。

「その娘さんは一ヶ月にわたって、十数人の鬼畜のような少年達に四六時中、輪姦され続けたの。口淫用にすべての歯も抜かれた。眠りも与えられず、無論、食事も。少年達の性のオモチャにされるか、さもなくば暴力の対象。殴る、蹴る、煙草を押し付ける、バットで痛めつける。彼女の骨という骨は折れていたわ。彼女の遺体解剖が行われ、驚くべき事実がわかった。彼女の外性器と肛門は破壊されていたの。破壊よ。わかる、この意味。異物でもって破壊されたの。彼女の最終的な死因は、脳萎縮。あまりの苦痛に彼女の脳が自死を選択したの。それほど彼女はデタラメな凌辱を受け続けた。彼女が死んだとわかったとき、少年たちはそれを確認するために、シンナーを振り掛けて、火をつけた。そしてコンクリートに詰めて遺棄した」

吐き気を催した。

オレはBGMを切れ、とマリーに手で示した。

マリーも気になっていたのだろう、オーディオの電源を落とした。

「彼らがその後どうなったか、それは山下刑事がよくご存知かもしれない」

視線を山下に送った。

山下の唇ではロングピースが踊っている。

「あー、ことが少年犯罪なんでな…しかし、えー、これはオレの独り言だ」

「彼らの処分はだな、あー、刑事罰を受けたものが二人、あとは少年院送致が五人だ」

山下が苦しげに答えた。

「おい、山下。ちょっと待て。いくら少年でもそんな程度なのか?」

「現状の少年法ではそうしかならん。しかもすべての少年が、現在シャバでのうのうとしている」

「所感が聞きたいね、現職刑事の」

「刑事は事件に感想を持たん。しかし、娘を持つ父としていうなら、オレなら一人づつ抹殺していくだろう」

「復讐か」

「いや。親の義務だ」

隣で和田さんが小さく頷いた。

「私闘、仇討ちはご法度のはずだが」

「まともならね。しかしこれは人間が想定している犯罪の埒を超えているのだ。埒を超えるものには、埒を超えた措置もありうる。オレは刑事だが、法律ですべて収束できるなどという幻想は持っていない」

「刑事の発言とは思えぬが」

「刑事でもあるし父親でもある。哲学論争をふっかけるわけではないが、人間にはとどまらねばならない則があると信じている」

重苦しい空気が粘ついている。

「娘さんの結婚が近いんでしょ?」

マリーの発言が空気を掻き混ぜた。

「どうして知ってんだ?」

山下が狼狽した。

「オカマの勘は鋭いのよ」

さらに空気が掻き混ぜられた。

オレはホッした。


有体にいおう。

オレはこういうハナシが苦手だ。

いや、そうじゃないな。

嫌悪感が先に立つといったらいいだろうか。

ヤクザやチンピラ連中が、勝手に切ったの殺したのはいい。

半端者の自滅行為なんだ、勝手にやればいい。

しかし、だ。

弱いものへの理不尽な暴力には怖気とともに体中が震えてくる。

それは怒り、かもしれん。

あるいは救ってやれない自分自身の不甲斐なさに対してなのかもしれん。

どちらにせよ女性や子供、あるいは老人に加えられる暴力には、目が眩みそうになる。

幼児虐待なんて、てんでダメだ。

その親をブチ殺したくなる。

成人男子が成人男子にやる分はいくらでもやってくれ。

おたがい納得のやりっこなら、どうなろうとそれは自業自得なんだからな。

それで警察にしょっ引かれても文句はいうな。

織り込み済みでやらなきゃな。

幼稚園児の喧嘩じゃないんだ。

第一、後先を考えられるから、成熟した大人っていうんだろうが。

それをだぜ。

逃げる術も力もない幼児や老人に暴力をふるうなんざ、人間じゃねぇな。

カスだ。

動物以下なんていわんよ。

動物の方がうんと子に対して慈愛をもってら。

そんなこといったら動物に対して失礼千万だろう。

だからナンだ、こういうチンカスどもは動物でも人間でもない、単なる異種生命体だな。

存在そのものが汚穢であり、神の裁きを受けにゃイカンだろ。

「どこかおかしくなってるの、世界が…」

和田さんがポツンと呟いた。

「え?どういうこと?」

あのね、と口を開きかけたとき、ウィーッス、とケンスケが戻って来た。





(実はまだまだ続きます。書きたまり次第、アップします)


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