君たちはフューチャー・ペインター 20
「はみだしてあぶない刑事」3作目
駅の向う側の栄えている地域とは違い、簡素な住宅街は静まり返っていた。駅から距離があるのにも関わらず音を遮断する物のないこの場所は電車が通る音が風に乗って響いてくる。
最近新築されたのであろう見慣れない一戸建ても、昔からある一軒家も、夜更けてきたこの時間は、分厚いシャッターを閉めてカーテンで室内を覆っている。子供や老人はもう寝巻に着替えて寝ているかもしれないし、夜型の若者もテレビの世界に入り込み寛ぎの一時を満喫している頃合いだろう。
産まれた時から何も変わる事なくそれが今も毎日繰り返されていつ習慣の様に、閉じられていた木戸を押し屋敷の門をくぐると乗っていたマウンテンバイクから降りた。前輪に取り付けたライトは住宅街に入るところから消してある。
夕方、家に訪れた変な女刑事が言っていた通り、門を塞ぐように貼られていた「進入禁止」と書かれたテープが取り外されて、何人か警備と言う名目で残っていた警察官も今は既に持ち場に帰ったのだろう。返還されるまで長かったが、今は自分を除いてこの屋敷にはもう誰一人居ない。
静かで少しひんやりとした夜風を感じて鼻をすすった。ふと背後が気になり振り向けば、向かい側の家も雨戸が堅く閉まっている。母が生前嘆いていた、カーテンの隙間から覗く一人暮らし老人の好奇の目も、この時間は気にしなくて良い。
上着のポケットの中から鍵を取り出して、鍵穴に差し込む。今も昔も変わらずに抵抗なく引き戸が横に開かれ、静まり帰った屋敷はまるで宿主が帰って来たと喜び暗闇へ招き入れているようだった。
靴を脱いで上がろうとして一度その動きを止めた。血の後は見えない。その場所を踏むのには抵抗があったが、これからの事を考えればその抵抗はどこ吹く風で、白い靴下でその床を踏み込み、今は珍しい底高な玄関を上がる。
あの時は、時間を気にすることなく、思い当るところは一通り探した。でも探している物は一向に見つからなかったので一度諦めて家に帰った。警察が入るだろうと大体予想していたが、こんな長い間自由に家へ出入りができなくなるとは思っても居なかった。
始めの頃はいつ家に自由に出入りできるようになるのかと思うとイライラしていたが、警察の動きを見ていれば近い内に終わると踏み、警察の手出しがなくなってからゆっくりと探せばいいと言う事に気が付いた。
これからは誰の物でもない、自分の物になる家なのだから。
居間に足を踏み入れた。警察の捜査が入ったからか、あの時足の踏み場がないくらい畳の上に撒き散らした新聞や広告はテーブルの上にまとめて置いてある。一番上に重ねられていた新聞は事故のあった当日の日付が印字されている。
天井からぶら下がる電気のコードを引っ張った。何回か瞬きをする様に点滅すると、月明かりだけだった青白い部屋に明かりが灯される。
梁に掛かっている母と目が合った。今は写真に納められている穏かな笑顔は、記憶に残る母と少し違って見えた。記憶の母はいつも陰で泣いていた。そしてそれを誰にも見せない人だった。
父は家庭よりも仕事を優先し、金銭に固執するような人だった。彼が勢力的に動けばその反発は専業主婦として家に居た母に向けられた。差し出し人のない手紙、壁に落書き、無言電話。もちろん父に相談しただろうが、相手が話を聞く人物ではないのだから途中で諦めたのだろう。子供には辛い顔だけは見せずに強くて優しい母親を演じ、母は夜に一人で泣いていたのだ。
学校に入れば父親の事で周りから陰口を叩かれるようになった。虐められたのに手を出して、何度か母が学校から呼び出された事もあった。思春期には反抗し、夜中でも関わらず外を出歩き警察に補導された。その度に父から激怒されたのだが、自分のメンツしか考えないその言い分にさらに腹が立ち何度もそれを繰り返してやった。父とはお互いに目すらも合わせず、会話もしない日々が続いていた。そんな自分に母だけは優しく接してくれた。
そんな生活をしていながらもそこそこ良い大学に入り、何事もなく卒業し、母の頼みでもあった一流企業に就職した。荒れていた生活が嘘のように気真面目に働いていた。初めての給料で感謝の気持ちを込めて母にホテルディナーをプレゼントした。もちろん母と自分の2人だけで。目尻の涙をハンカチで抑えながら、笑顔を見せてくれた事は今も記憶に残っている。今まで苦労をかけた分、これからは母をしっかりと支えて行こうと決心した。
その決心は1年で泡と消えた。
どこから漏れたのか分からない。まぁ、名字も住所も同じなのだから調べるのは簡単な事だ。職場とは全く関係ない土地でやっている地方議員の息子だからと言っても、そんな影響力は全くない。漏れたのは自分の学生時代の荒れた日々だった。補導歴、当時の交友関係だった。一緒にやんちゃをしていたグループの何人かはそういった組織に勧誘されていったのを覚えている。職場で自分を見る周りの目が急に変わった。腫れものを触る様に扱われ、自分が出勤すれば雑談と言う名の陰口が止まる。社会人でも学生のいじめと全く関係なかった。営業成績も低迷し、ある日上司に呼び出され自願退職を勧められた。自分が居ると会社全体がうまく回らないそうだ。意味が分からなかった。
仕事を辞めてからは自暴自棄になり、実家に戻ると自室で引きこもった。カーテンを全部閉めて自分を照らす光を全て遮った。風呂にも入らず、部屋を出るのは生理現象を排出する為だけだった。母はそんな風になった自分を心配し悲しんでくれた。父との関係は相変わらずで、食事など与えなくて良いと母に言っていたようだが、部屋の扉の前に毎食置いてくれていた。その変わらぬ優しさに涙した事もあった。母がいなければ自分は生きて行けないんではないか、と思っていた。
そんな生活が4年続いたある日、母が急に来なくなった。数日間母の声を聞かなくなり、心もとなく不安になり、久し振りに階段を降た。居間に父だけが1人でテレビを観ていた。記憶に残っていた父とは別人のように力のなく、やせ衰え、目が陥没した老人だった。お互いに何年ぶりに口を開いた。母は末期がんで余命は1カ月もないと言う事だった。
母の為に風呂に入り体を磨き、何年もの間避けていた日差しを浴びて病院に駆け込んだ。病室に居たのは記憶の中の優しい母ではなかった。抗がん剤の副作用で顔をパンパンに腫らした高齢女性が、心音計の無機質な音だけが響くとても寂しい部屋に寝かされていただけだった。自分の殻に閉じ籠っていた4年という間は、あまりにも長く、あまりにも無情だった。
母との残された時間は、あっという間だった。殻から出た息子をその目で見る事なく、眠る様に旅立った。やっとしがらみから解放されるのだから、もうこれ以上余計な物を目に入れたくなかったのかもしれない。
母の葬儀を簡単に済ませ、父と2人で過ごす事になった。お互いに会話もしない。和解もしない。仕事もしない。干渉もしない。母と言う存在があるから動かされていた男達が取り残されて、それから何があるというのか。
父に再び市議会の話しが出たのは、母が亡くなって1年後だった。後援者からの後押しもあって、父は再び表の世界に帰り咲く事になった。それと同時に自分は家を出た。再び議員となった父と一緒に居るのはもう耐えられなかった。再就職は望まなかった。日々食って生きながらえていればそれで良かったから。
学生の頃の付き合っていた先輩に誘われ、仕事を貰えるようになった。仕事内容を明かせば警察沙汰になるようなものだった。高額の支給があると最初の説明ではあったが、実際は通常の給料から意味のわからない天引きがあり、手取りがカラスの涙も貰えなかった。
金をせびりに何度かこの家を訪れた事もあったが、それを父は冷たくあしらった。彼らと手を切れと言われた。できるはずがない。充分に足を踏み入れてしまった今では、縁を切るどころか、外に助けを求める事すらも出来ないのだから。
母の仏壇に手を合わせた。
もしかしたら今までで初めての行為だったかもしれない。母が亡くなったのを今やっと理解したのかもしれない。
探しているのは手の平の中に納まってしまう小さな鍵だ。もう既に目ぼしい場所は探したし、もう一度ど「強盗が入ったような」状態まで部屋をひっかきまわし、探すほど気力は自分にはなかった。
ふと、わざわざ家に報告しにきた女刑事の最後の言葉が脳裏に響いた。
『お父様の大切な物は、お母様の近くにありますよ』
あの日から、探していない場所が1つだけあった。それはあまりにも堂々としていて、昔の優しさを感じられる場所であり、それを失ってしまった事を受け入れられない自分は見て見ぬふりをしてきた場所。それは、母の仏壇だった。
仏像と位牌が置かれ、中央には水の入ったグラスと一緒に、ご飯が上げられているがもう米粒が堅くなっていた。仏壇の前には花の萎れた花瓶が置いてある。香炉には燃え残った線香のカスがまだ刺さっているままで、ほんのりと香っている。香炉の隣に写真立てがあった。居間の梁に飾ってある大きな写真とは違って、そこに写っている母の姿は若かった。自分が産まれて間時のものかもしれない。一面に広がる花畑の中で、つばの広い麦わら帽子をかぶって微笑んでいた。
こんな幸せそうに微笑む母が居たのだろうか。そう思ってじっくり見る為にその写真立てを持ち上げた。その瞬間、何かが指に触れ、そこから堅い金属製の物が落ちた音がした。
目に入ったのにも関わらず、それが何だったのか一瞬分からなかった。今まで探していたものなのに、母の思い出に浸っている内に、もう「どうでもいい」と思ってしまっていたのかもしれない。
金庫の鍵だ。母の写真立ての裏に、剥がれかけたセロハンテープが残ってあるので、そこに貼り付けていたようだ。
「大切な物はお母様の近くにあるか」
つい女刑事の言葉をそのまま口に出して、幕内義和は笑った。
自分がこの鍵を探している事を彼女は既に知っていたようだ。そしてそれを知りながら、わざと義和自身で見つけるように仕向けたのかもしれない。彼女の言葉を聞いていなければ、義和は写真立てに触れるどころか、仏壇を視界に入れる事さえしなかったかもしれない。
思い返せば、家が返されると伝えに来たあの時も、父が母の事を大切にしていた事を自分に話してきた。あの時は何故そんな事を自分に言うのかと思っていたけれど、実際、改めてこの家に立ってみればそれが分かりたくなくても伝わってきてしまう。
母が父のせいで苦しめられ、泣かされていたと思っていた。だから父が嫌いだった。でもそれは義和の記憶の中の一部であり、母という人生のうちのほんの一瞬の出来事だったのかもしれない。この写真立てに飾られた母の様に幸せな日々を過ごしていたのも、幼い義和に向けられた母の強さも優しさも、全ては家族があったからなのだから。
母が居て、自分が居て、そして母を愛する父が居た。それがこの家にはまだ残されている。
玄関のチャイムが鳴った。
父が1人暮らしをしていたこの家には訪れる客はそうそう居ないし、夜が更けたこの時間に人様の家に訪れるのは通常ならば迷惑でしかない。
だが、義和はそれを受け入れた。
父が倒れて息を引き取った玄関の段差を靴下のまま降りて、玄関の引き戸を開ける。周りは静まり返った夜の闇の中、男性の刑事が2人そこに静かに立っていた。1人は女刑事と一緒に来た強面の刑事と、それとは対照的に穏かな笑みを浮かべている落ち着いた印象の刑事だった。
「幕内義和さん。幕内義雄さん殺害の件について署で詳しくお話いただけますか」
義和は母が微笑む写真立てを胸にしっかりと抱いて頷いた。頬を伝う涙は一向に止まりそうになかった。




