秘密の花園に散った淡い恋心。時が過ぎてもなお狂い咲いて 21
「奥様が話していた、さとみちゃんの「秘密の友人」というのは私達、神木辰夫と私、川島幸弘の事です」
大切な記憶が詰った想い出のタイムカプセルをゆっくりと開けるように丁寧に、川島は口を開いた。
さとみと出会った当時、急成長している企業の社長であった種市治郎は、自分より格下の者を毛嫌いしている節があった。実際に屋敷内での仕事を使用人を雇い入れる事で、わざと他者と自身の身分の差を周囲に知らしめていた。また子会社を買収しライバル企業を減らし、人事の異動にも口を出し不要な人材は容赦なく切り捨てた。そして、自分が「欲しい」と思ったものは手段問わずに手に入れた。まさにサバンナに巣くう野生のハイエナの様な人物だと周囲には噂されていた。
そんな種市に目をつけられてしまっては存続が危ぶまれると思った特別養護グループホームの施設側は、近所とはいえ種市一家には近付かず、一切の干渉をしないと内部で決めていた。そして施設に住む子供たちにも母親代わりの「おおつ」の施設長から、絶対に屋敷には近付かない様にと強く言い聞かせていた。
だがそれは反対に、当時明るく活発で施設の子供達のリーダー的存在であった神木と、その後を追いかけるだけの気弱な少年だった川島の好奇心を煽った。
どこからかで出は不明だが、大きな壁に囲まれたひっそりと佇むその屋敷に幽霊が出るという噂が学校の児童の中で広まった。その噂が本当なのか明らかにする為に、ある日、施設長からの言い付けを破った。自分の背の倍はある程高い塀の間の固く閉じられた裏門に寄り掛かりながら、彼ら2人は中に入る算段をしていた。蔦が絡まった銅の柵を前に、先日観た外国のホラー映画さながらで少年の冒険心はさらに擽られた。
『あなたたちは泥棒さんなの』
突然投げかけられた声と共に、蔦と柵の間から小さな子供の手が飛び出してきた。2人はしりもちついて驚きながら、それをよく見れば、閉ざされた門の反対側に幽霊ではなく自分と同じ年くらいの女の子が立っていたのだ。
それが種市さとみとの出会いだった。
「小さな顔で目が大きくて、まるで粉雪のような白い透き通った肌をしている。そんな小柄で可愛い女の子でした。見た事もない子だったので、同じ学校には通っていないとすぐに分かりました。もし居たのなら学校中の噂になっているくらいでしょうから。彼女と出会ってからは毎日の様に施設長の目を盗んでは会いに行って、学校での出来事や大人や兄弟たちへの不満など些細な事をそこで話していました。彼女はどんな内容でも聞いて笑ってくれて。心のどこかで言い付けを破っている事への罪悪感もありましたが、彼女と過ごせる時間が愉しくて仕方がなかったんです。前任の執事に見つかった時はさすがにこれが最後だと思いましたが、彼はとても良い方で『ご主人様には内密ですよ』と私達を隔てていた扉を解放してくれました、」
過去を語る川島の眼鏡の奥の瞳がとてもキラキラと輝いていた。
「今思い返せば本当に短い時間でしたが、とても幸せな時間だった」
「屋敷の外には出なかったの」
「始めは何も知らなかったので、外へ遊びに行こうと誘いました。ですが、彼女は一度も首を縦に振る事はありませんでした。『お父様と約束しているから。約束を破ってしまうと嫌われてしまうから』と。だから私達もそれ以来、誘わなくなりました。それもあって、執事は屋敷の裏庭を内緒で解放してくれたのだと思います」
さとみはやはり親の言い付けを破り自ら家を出て行く子供ではなかった。反対にどんなに誘惑があってもその言い付けを守る、少し頑固で真面目な子供だったようだ。そこには血の繋がっていない父親に嫌われて家を追い出されるかもしれない、という恐怖も幼心にあったのだろう。
では何故あの日外に彼女は出ていたのか。
「大端さん、さとみちゃんは連れて行かれました。誘拐です。私達は当時その光景を見ています」
まるで幸恵の考えた事が通じたのか、川島はその言葉を強く発していた。
「あの事件があった時に、私達は何度も大人に話しました。でも施設で働く職員も、母親代わりの施設長も警察でさえ、それはテレビや漫画の影響で夢を見ていたのだと信じてくれなかった。でも、私達は本当に見たんだ」
当時の気弱な自分を勇気づけ声を新たに、川島は込み上げる感情に任せてダイニングテーブルを両方の拳で叩く。その衝撃で生まれた痛みで、その出来事はもう過去として終わっていて今更何も変えようがない現実を自分に言い聞かせている葛藤が幸恵には見えた。
さとみの捜索願が出される前の夜、川島は寝る前に見たテレビの影響でなかなか眠れずに布団から出て窓の外を眺めていた。月明かりだけが照らす薄暗い室内で時計の針がてっぺんで重なったのを見てからどのくらい経ったのか、子供の川島にそんな事は関係がなかった。住宅街の電気は消えていて、頼りないお化け電灯だけが少し離れたところで点々と1点だけを照らしている。カーテンを内側に押しながら開いた窓から入る冬の冷たいがとても澄んでいる空気が鼻の頭を擽る。寝る前にリビングでかかっていた番組の天気予報では、明日の夜に雪が降ると言っていた事をのんびりと思い出していた。
窓から遠目に見える裏門を眺めながら、今日も学校帰りに会ったさとみの事を考えた。川島は自分がさとみに対して淡い恋心を抱いている事を認識していた。そして今、同じ部屋で清々しいくらいのいびきをかいて寝ている神木も川島と同じ気持ちを彼女に抱いている事にも気付いていた。でもその感情は決して口に出してはいけなかった。さとみと神木と川島の3人で一緒に居る今の関係性が、壊れてしまうのが怖かったからだ。
そんな事を考えている内に、裏門の前に1台の車の影の存在に気が付いた。あの道路は神木達の施設のある住宅街の路地の突き当たりであり、大きな屋敷をぐるっと周る様に造られている為、種市家に関係がある車しかあの道は通らなかった。なのでこんな遅い時間にそこを通り、しかも門の前で停まった車が不審に感じたのだ。
その時は不思議と夜遅い時間に規則を破り施設を抜け出す事よりも、怖いもの見たさが勝った。でも、1人では不安だったので寝ている神木を無理矢理揺すり起こす。そしてパジャマに上着を羽織っただけの軽装で、2人は駆け足でその門へと向かった。
2人が門に着いたのと、ニット帽を深く被った見覚えのない男が屋敷から出て来たのは同時だった。その男は小脇に寝ているさとみを抱えていた。
ちょっとだけの好奇心で首を突っ込んで、想像もしていなかった事態に遭遇してしまった。理解が追いつかず、川島は恐怖で声も出ず足がすくんでしまう。だが、そんな川島とは対照的に神木は同級生の中でも小柄な体格ながら地面を蹴りあげて男に飛びかかっていった。
さとみを抱えていない方の腕に咬みついた。しかし、子供の力では体格差のある大人の男を止める事は出来ず、小蠅をはらうかのようにいとも簡単にその体は宙に投げ飛ばされた。子供の軽い体は勢いそのまま屋敷の壁に体を打ちつけて、ブロックの塀をなぞる様に地面へと崩れ落ちた。
涙で視界がぼやけて前を見るのがやっとの川島が大慌てで駆け寄ると、神木は頭から血を流したまま地面に寝ていた。気絶をしているようだった。その間にさとみを車に乗せた男は車に乗り込み、そのままその場を走り去ってしまった。
その出来事は一瞬で弾けるシャボン玉の様に過ぎ去り、取り残された気弱で臆病な川島は声を荒げて泣きじゃくる事しかできなかった。
「私の泣き声が聞えたのか、部屋に居ない我々を不審に思ったのか、はよく判りません。でも施設長が外へ捜しに出てくれたお陰で私達は発見され、神木は救急車で運ばれて治療を受ける事ができました。あの時、不甲斐ないばかりに私はただ泣いているだけで、大人に聞かれても何も事情を話す事が出来ませんでした。落ち着いた数日後にあの夜の出来事について大人に話しても、誰も信じてくれる事はありませんでした。目の前で仲の良い兄弟が大怪我をしたショックで現実と空想が混ざってしまったのだろうと」
「神木くんは大丈夫だったの」
幸恵の問いに川島は静かに頷いた。
「病院から神木が目を覚ましたという連絡があった日に、テレビでさとみちゃんの遺体が見つかった事も知りました。施設の職員に連れられて神木の元を訪れたら、あんな明るくて活発だった彼が何をするにも無気力で誰にも笑う顔を見せず口を閉ざしていた。まるで別人の様でした。私はあの一瞬の出来事で2人も親しい友人を一度に失ってしまったのです」
その後、日が経たない内に川島は里親が見つかり、施設を離れる事になったと過去を語り終えた川島の肩が震えていた。
子供の言葉だと耳を貸さなかった大人が憎くてたまらない。それ以上に何もできなかった弱い子供の自分が許せない。今幸恵の目の前に居る大人に成長した川島が、自身の両腕を力を込めて掴んでいた。その大きくなった手に、川島がその一瞬の出来事に抱く懺悔の気持ちが幸恵に痛いほど伝わってくる。
きっとどんな言葉でも彼をこの苦しみから解放する事はできない。事件は理不尽な結果で終わってしまった。そしてそれから13年もの間この事実を胸に秘めて、自身を戒めてきた彼の心の傷を埋める事もできない。
だけども、幸恵は言った。
「辛い事を話してくれてありがとう」
その言葉と共に優しく川島に微笑んでみせた。
今にも罪悪感で押し潰されそうな顔をしていた川島も、幸恵につられて少し微笑んだ様に見えた。
「聞いて欲しい事がもう1つあります。今度は『The Secret Garden』の齊藤オーナーの話しです」
背筋を伸ばして椅子に改めて座り直す。彼は真っ直ぐに正面に座る幸恵の目を見ていた。そこにはもう子供の頃の気弱で臆病な川島幸弘は居なかった。
刑事である幸恵の前で話をしているのは、悲劇によって産まれた罪の意識を胸の内に秘めたまま大人になった、種市治郎の屋敷に仕える執事としての川島だった。
2019/3月改稿




