秘密の花園に散った淡い恋心。時が過ぎてもなお狂い咲いて 2
いつもの様に出勤したら、自分に異動辞令が出されていた。
まさか配属する部署が変わるのが今日からなのかと驚いたが、前々から配属年数から今回の異動対象である事は察していたし、簡単に荷づくりができるように荷物もまとめてあった。段ボールが1つだけ。身軽に越したことはない。
お世話になった部署を離れる寂しい気持ちは変わらないが、この職場は特に異動が多いので、これも仕事の一環として受け入れることができるようになったのは、何年目からなのだろう。
大端幸恵は荷物の入った段ボールを軽く持ち上げると、自分の新しい配属先に向かった。
オシャレとは程遠い黒の低めなパンプスの音を廊下に響かせながら、幸恵はある部署の部屋の前で立ち止まった。確認する為に段ボールの上に置いておいた辞令の書かれた紙を取り上げる。その配属先を読み上げ、聞き慣れない名前に首を捻った。
『刑事部預かり特別捜査室』
一先ず、刑事部の扉を抜けると、いきなり眼つきの悪い男性職員達が一斉に幸恵の方を向いた。警察官の配属されている部署を見分けるには、その人物の人相を見れば察しがつくというが、本当にその通りだと背筋に汗をかきながら思った。
男性の職場として有名な刑事部に、それこそ見慣れない女性職員が段ボールを抱えて入ってきたのだから、物珍しかったのだろう。幸恵は意を決してその視線の中、堂々とした態度に少しでも見える様に背筋を伸ばして入室する。
天井に下がる課の札を見渡すが、目当ての部署は見当たらない。もしかしたら「預かり」なだけで、刑事部とは関係ないのでないのかと、不安になって幸恵は目の前に居た男性職員に辞令を見せて部屋の場所を聞いた。
辞令に書かれた文字を追う彼の眼つきがさらに鋭く、眉間に深く刻まれた皺がさらに深くなった。そして、書類と幸恵の顔を交互に見比べている。なんて女性に対して失礼な男なのだろう。
「そこの角を右に曲がった、磨りガラスの先だよ」溜息交じりに持っていた書類を幸恵に投げて返すと、その男は言った。
態度には問題があるが、親切に教えてくれた事に礼を言うと、案内されたところに向かう。
刑事部には複数の課が存在している。強盗・殺人などの凶悪犯罪から窃盗などの刑事事件や暴力団関係など担当する事件が広い為に、担当する事件内容によって専門の課によって分けられている。刑事ドラマで良く使われる、捜査第一課と言えば殺人等の事件捜査を担当する、警察の中の花形部署として一般的に知られているだろう。他にも細かい枠が決められている。
だから不思議で仕方がないのが、この『刑事部預かり特別捜査室』の部署名だった。課の指定がないどころか、刑事部に「預け」られていると表記されているではないか。
壁で仕切られているわけではなく、刑事部としてのこの広々とした空間を担当する課ごとに机が分けられて並べられている。ただ一箇所、この開放的な造りとは比例して磨りガラスで敷居を建て、簡易的に作られた小さな部屋の存在に目が入った。どうやらそこが先程の男性職員が言っていた場所であり、幸恵が新しく配属になった『特別捜査室』であるようだ。
出入り口として開けられた場所の両脇に大きな観葉植物が2つ置かれ、その大きく広げた緑色の葉が幸恵を出迎えてくれた。足を踏み入れれば、その部屋には誰も居なかった。
幸恵が目的のこの場所まで来る間に、何らかの事件があって全員が出払っているのだろうか。着任早々に捜査に参加できなかったのは失態だったが、他の人員が戻ってくるまでの間何もしないまま待っているだけでは社会人としていけない。せめてこの段ボールだけでも置かせてもらいたいものだ。
幸恵は部屋に置かれた6つのディスクの内、1箇所だけ何も置かれていないのを見つけた。多分ここが新しく配属される自分の場所として用意されたところなのだろう、と持っていた段ボールの先を置いた。
「あら、貴方が新しく配属されてきた人ね」
背後で穏かで優しい女性の声が幸恵に呼びかけた。
振り返るとそこにはどこか一昔前の優しい日本の母親像を思い浮かべてしまうような、穏かな顔をした40代とみられる女性が、花が綺麗に行けられた花瓶を両手で抱えて立っていた。
「本日付でこちらに配属になりました、大端幸恵、階級は巡査部長です。到着が遅れて捜査に間に合わず申し訳ありません」
「私は、隅前友子です。この捜査室の副室長を命じられています。大丈夫よ。今日の捜査は特にないから」
「え、皆さんは仕事で出払っているのでは」
友子はアングリと口を開けて驚いている幸恵を見て、「真面目な人ね」とコロコロ笑った。そして抱えていた花瓶を今まさに幸恵が段ボールを置こうとしていたディスクの上に置いた。
その友子の行動に幸恵はさらに驚いて、大慌てで段ボールを抱えてどいた。机の上に花瓶を置くと言う事は、そこを使っていた故人への伴いの行為だ。このディスクが空いていたのではない。この場所の持ち主がこの世から居なくなってしまっただけと言う事か。
やはり刑事部という仕事は犯罪の最前線で活躍する警察官にとってはあこがれの部署である分、それの仕事は常に死と隣合わせだと聞く。銃刀法のない海外に比べて比較的安全なこの日本でも現に数人の殉職者が出ているのが現状だった。幸恵がこのタイミングでこの部署に異動になったのも、抜けてしまった人員の埋め合わせなのかもしれない。
「ご愁傷様です」
「え、何が。ほら、空いているディスクを使っていいのよ」
「そんな。まだ伴いが済んでいないうちにそこを使うだなんて、故人に対して失礼に値します」
幸恵の言葉に友子は首を傾げる。その行為に幸恵も同じ様に傾げざる得ない。
「あー。新しく異動してきた人ですねー。海老沼由美です。よろしくおねがいしまーす」
友子と顔を見合わせた状態の幸恵に明るく澄んだ可愛らしい声が響いた。
華奢な体に小さな顔。大きな目をした可愛らしい女性が書類を抱えて入ってきた。社会人として簡単に化粧をしているが、もしかしたら派手目な化粧をさせれば夜の繁華街に人風吹かせる事ができそうなくらいの美人だ。
「はじめまして、大端幸恵です」
「ほら、友子さんもなんで止まっているんですかー。大端さん、空いているところに荷物を置いてください」
「え、だから、」
幸恵が再び口を開こうとした、その時、由美の大きな目がさらに丸く開いた。
「なるほどー。由美は判っちゃいました。空いているディスクだと思って荷物を置こうとしていた大端さんを差し置いて、友子さんがその机の上に花瓶を置いちゃったわけですね」
人差し指を立てた状態で、由美は意気揚々と先程あったことを見ていたかのように推測する。その由美の言葉に、友子は驚いた様に幸恵の方を向いた。
「机に花瓶を置いたと言う事は、亡くなった方への伴いだと思った大端さんは、そのディスクを使えないと言う。そしてその心情を知らない友子さんは、「空いているディスクに荷物を置いて」と言って、さらに大端さんを困惑させている。そんな状況でしょうか」
推理を聞き終えた2人は感嘆の声を上げた。由美は整った小さな鼻から満足そうに息を吐いた。
「今朝、家に綺麗なお花が咲いたから、この部屋に生けようと思って持って来たのだけれど、この狭いスペースの中では置くところがなくて。仕方がないから空いているディスクに置いただけよ。もう1つ空いている場所があるから大丈夫かと思って。不安にさせてしまってごめんなさいね」
「いいえ、私も変な誤解をしてしまい、すいませんでした。それで、もう1つの空いているディスクというのは一体どこでしょうか」
幸恵の問いに友子と由美は2人ともある机を指差したが、その顔はすぐに強張った。
数時間前までは上に置かれる物もなく空いていたはずのその机には、隣のディスクに山の様に積み上げられた書類が大規模な雪崩となり埋もれてその姿を消していた。3人はその状況に絶句する。
「あーもう、駄目。隅前さん、胃薬もらえる」
4人目の声が部屋に入ってきて、その澄んで通る声で隅前を呼んだ。ハキハキしたアナウンサーの様に良い声なものの、今は心底疲れ果てているのか少し力のなく震えていた。
「室長、今日もお疲れ様でした。はい、いつものお薬。あと、今日配属された大端さんがいらっしゃっていますよ」
「大端幸恵です。宜しくお願いします」
「こちらこそよろしく。中田麻優美。この特別捜査室の室長ね」
黒ふち眼鏡と整った眉が知的な印象の優しい笑顔の女性だった。友子が手渡す時に、いつもの胃薬と言っていたのだがどこか体の具合が悪いのだろうか。
「大端さんはそこのディスクをつかって、って、ちょっと鷹岡っー」
先程までの幸恵に向けた仏の様に優しい笑顔は一瞬で消え、代わりに般若面のように表情が変わる。彼女はアナウンサー並みに遠くまで通る声を荒げて、とある人物の名前を呼んだ。
幸恵はその麻優美の様子を見て思い出した。
中田麻優美警視。仏の顔を持つ女。いつも穏かで優しく、部署問わず上司にしたい人物ナンバーワンとして人気だが、その腹の中には鬼を飼っているとの噂もある。
見回せば他の2人も異名を持っていた。
隅前友子警部は、通称「おっかさん」と呼ばれ、彼女を前にすると取り調べ中に頑なに口を閉ざした犯人でさえ故郷の母親を思い出して泣きながら自供をしてしまうと言われている。
海老沼由美巡査は、まだ20代中盤にして全国のほとんどの男性職員が彼女の名前をあげる程の知れ渡っているアイドル気質の「男性キラー」であり、その分女性にもその名は知れ渡っている程の有名人だ。彼女の本命の相手が組織内にいるとか、いないとか。その噂は曖昧である。
そして、鷹岡という名前も幸恵は聞いた事がある。
どこの部署に配属されても自由奔放で型破りの組織の枠からはみだしてばかり。上司にしたいナンバーワンの麻優美とは対照的に、部下にしたくないナンバーワンで広まっている人物。
「そんなに目くじら手たなくてもわかっていますよー。もう室長の声は大きいんだから」
気だるそうに部屋に入っているその人物は、段ボールを未だに抱えたまま立っている幸恵を視界に入れると、その女は明らかに嫌そうな顔をして言った。
「げげっ、サッチーじゃん」
鷹岡光希。幸恵の警察学校からの同期であり、同い年。真面目な幸恵とは対極に位置するマイペースな自由人。彼女とペアを組めば必ずと言っても良いほど光希に引きずられ、優等生だった幸恵が数々の失態を犯してしまった。そんな痛ましい過去を光希の顔を見ただけで幸恵は瞬時に思い出した。
まさか、また彼女と一緒になるなど全く予想もしていなかった。新しい刑事生活は始まったばかりだというのに、大嵐の予感が幸恵の胸を過ぎて行った。
2018/10 改稿済