秘密の花園に散った淡い恋心。時が過ぎてもなお狂い咲いて 17
幸恵と光希を乗せた車は、教習所の演習場を初めてハンドルを握り走行する初心者よりも遅いペースで、前方にノロノロと進んでいた。
「鷹岡さん。本当にここで合っているのかしら。左側にずっと同じ壁がさっきから続いているのだけれど」
幸恵は心の不安がそのまま口から出てハンドルを握る光希に問いかけた。光希も視界を周囲に彷徨わせて唸りながら、ハンドルを片手に後ろ髪を掻いている。
勢いで署を出発し、種市治郎の住宅周辺まで辿り着いた2人だったが、先程から左側の風景は刑務所の様な頑丈なコンクリートの塀で視界を阻まれてしまい、目的の家がある場所を見失っていた。なので、車通がないのを良い事に、法定速度よりもかなり遅いペースで車を動かしながら、辺りにそれらしい家がないのかと目視で捜すはめになったのだ。
「もしかしてこの、でっかい塀の中が種市社長の自宅だったりしてね」
光希はそう冗談半分言って自分で笑っていた。
そしてその数分後、数メートル先の一箇所が塀の種類が変わっているのを幸恵が見つけた。その目の前で停車すると、そこにはコンクリートの塀と塀の間にひっそりと存在しているかのように、両側に押し開くタイプの門が佇んでいた。軽い銅状なもので出来たその門の格子には、草がうっそうと茂る敷地の中から伸び出てしまった蔦が絡まり、その扉が年々も開閉されていない事を露わにしていた。その門から見える庭園の奥には屋敷の壁のようなものが見える。
「うわぁ。どうやら目的地は本当にこの塀の中だったみたいだね。そして、ここはその屋敷の裏口ってところかな。今は雑草がいっぱいで手入れもされていないみたいだけれど、何年か前まではこの辺りは花壇として使われていたみたいだね」
光希は少し錆びついている格子の間に顔を近付けて、敷地の中を覗きこむ。それとは対照的に幸恵の興味は屋敷とは反対側の住宅街の方に向いていた。見覚えのある景色に記憶を辿り、そして呟いた。
「なんか見覚えがある住宅街だなって思っていたんだけれど、そういう事なのね」
「それって、どういう事」
「この坂道を真っ直ぐ下に進むと、神木くんの住んでいる家があるのよ。「児童養護グループホームおおつの家」ってところ」
幸恵はそう光希に説明しながらも、車から離れ坂道を少し下って目を凝らした。目的の場所を視界に捉えて指を差した。
「あの白い壁の家よ」
そう言って振り返った幸恵に、光希はまたあのニヤついた顔をしていた。
「何で彼の家まで知っているのさー」
「それは、」
「最初に神木くんとお店で会った時のサッチーの反応を見てたら、お互いに面識があるのかなって思っていたけれど、まさかお家まで知る仲だったとわねー。それは、それは。なおさら彼の無実を信じたいものだねぇ」
顔が赤く染まり答えに詰まる幸恵に、光希はそうふざけた口調で言った。
「ただ買い物が一緒になって、子供達の世話が大変そうだったから家まで荷物を運ぶのを手伝ってあげただけよ。全然、やましい事なんてしていないわ」
「あの時のゼリーの相手は、由美ちゃんがした推理の半分は当たっていたわけだね」
ぐうの音も出ない、とはこの事なのだと幸恵はそう思った。
「さて、冗談はこのくらいにして、早くこの屋敷の正面に周って本題の話しを聞きに行こうよ、」
光希は急に真面目な顔をして車に乗り込む。
「こんな家が近いんだ。種市治郎と神木辰夫も知らない仲ではないようだしね。もっと詳しくこの事件の根源が知りたくなっちゃったよ」
助手席に乗った幸恵に光希はニカリと歯を見せて笑った。
目的地が明確になった車は通常のスピードで進み、屋敷正面の門まで辿り着いた。寂しい裏門とは正反対の豪華な造りをした門に車から降りた2人は圧倒された。備え付けてあった呼び鈴を鳴らし門が開くまでの間、口を開けて日常生活には想像のできない建造物を見上げるしかなかった。
インターホンで出された指示の下そのまま自動で空いた門を潜り、車に乗ったまま敷地に入る。正面門から屋敷の入り口までほぼ30メートルだろうか。舗装された車道が続き、その両脇には小粒な砂利が敷かれているのかタイヤが踏み込む度に音が鳴っている。周りには背の高い木々が植えられ、どこか一種のリゾート地に迷い込んでしまったかのような錯覚を抱かせた。車道はロータリーに繋がり、その中央の屋敷の入り口から伸びた白い階段に男性が1人立っていた。
「きっとこの正面門の少し先の道から出て、このお屋敷を反時計回りに周って到着されたのでしょう」
幸恵達が車から降りて、自分達の身分と今まで屋敷の壁を周ってきた経緯を伝えると、屋敷の使用人だと名乗る男性はそう笑って答えた。
清潔感のある黒い髪をワックスで優しく後ろに流し、素朴なのにオシャレな雰囲気の黒ぶち眼鏡をかけた柔らかな雰囲気の青年だった。笑っていてもどこか品があり、姿勢が正しくてパリッと糊のきいたシャツとジャケットを着こなしている。
「足をお運びいただいて恐縮なのですが、生憎当家の主人は仕事で出ております。御用がございましたら本社の方でアポイントメントをとっていただきたいのですが」
「そうですよね。すみません、急にお宅へお伺いしてしまって。一度、種市社長のお屋敷を見てみたいと思っておりましたので」
敏腕社長として話題になっている種市治郎が、平日の日中の間屋敷に居ない事は誰にでも推測できる事だった。もちろん会社の方には今頃強面の捜査第一課の面々が訪れている頃だろう。今回の幸恵と光希の目的は別のところにある。もちろん青年に返した言葉通り、社長のお屋敷という物を一目見てみたいと思ったのも事実だが。
幸恵の答えに青年は困惑し視線を外すも、すぐに正面の幸恵の目を見据えて懇願するように言う。
「差し支えなければお教え願いたいのですが、警察の方が旦那様の元へお話を聞きにいらっしゃるというのは何故でしょうか。旦那様に関わるところで何か起きてしまったのでしょうか」
その縋るような目に幸恵は迷う。
殺された齊藤が種市の事を疑っていた旨を彼に伝えるべきなのだろうか、それ以前に妻帯者である種市が『The Secret Garden』に通っていた事を使用人に伝えてしまって良いものなのだろうか。
「ねぇねぇ、君ってもしかして執事さん」
今まで黙っていた光希がまたもや突拍子もない言葉を発したお陰で、幸恵と青年は迷いを消して彼女を見た。
「一体貴方は何を言って、」
「貴族・富豪などの大家で、家事の監督や主人の身の回りを世話する仕事。なにより背広の裾が燕の尻尾の様に長いデザインだから燕尾服。イギリス式バトラー制度がないこの近代日本において、その服を着られるのは二次元の産物と2.5次元の某喫茶店で御給仕する乙女の夢詐欺職人。または身の回りの世話をする使用人の中で監督責任のある者を「執事」と雇う、イギリスの寄贈様式を模倣しバトラー制度をとっている富裕層のご趣味。ちなみに実際に資格試験が存在している。この3パターンに分かれる。そして、この広い敷地に豪華絢爛な正面門、そしてこの屋敷。そこでこの燕尾服を着こなす君は、こちらのお屋敷の執事であると解く」
幸恵の制止を消され、光希は鼻息を荒げて一呼吸で自身の推理を述べ切った。いかにも、これが名推理という満足そうな顔をしているが、それは貴方の持論でしかないだろうと、幸恵はその瞬間その言葉を飲み込んだ。
そして呆気にとられている青年に向かって光希は右手を差し出して、頭を下げる。
「本物の執事に会える事は実に光栄です。是非握手してください」
そんな予想のできない光希の行動に幸恵と青年はさらに困惑し、お互いの顔を見合わせた。
するとコロコロと品良く笑いながら1人の女性が正面玄関の階段をゆっくりと降りてきた。
「おもしろい刑事さんね。握手くらいしておやりなさい」
彼女の言葉を承諾した青年は差し出されていた光希の手を軽く握って、そして離れた。
光希は下げていた顔を上げ、彼と握手した左手を強く握ったり開いたりを繰り返すと、階段を降り終えた女性に振り返り、
「ご進言ありがとうございます。お近くにいらっしゃったのは承知しておりました。お会いできて光栄です。種市社長の奥様でいらっしゃいますね。少しお話をさせてください」
そう言うと、光希はジャケットの内ポケットに入っていた警察手帳を出して、彼女ににっこりとほほ笑んだ。
2019/3月改稿




