秘密の花園に散った淡い恋心。時が過ぎてもなお狂い咲いて 11
「いつの間に店の従業員からあんな情報を聞き出していたのよ」
通り過ぎる景色を眺めながら、幸恵は運転している光希に問いかけた。運転席の光希が信号待ちの合間に横目で助手席の様子を盗み見れば、子供の様に不貞腐れた顔が窓に写っていたのでついに笑いを噴き出した。
「何を笑っているのよ」
「もしかして、サッチーは怒っているのかなー」
「怒ってなんかないわよ。ただ気になっただけよ。貴方と同じ時間あそこに居たのに、どうやってあの短時間であんな情報を聞き出したのか知りたいだけ。あの時は、誰が可愛いとかエロオヤジとか、ただの雑談しかしていなかったじゃない」
赤信号で車が停まると、光希は左手を顔の前に掲げて助手席の幸恵に向かって軽い謝罪のポーズを向けた。
「サッチーを出し抜いた感じになったのは謝るよ、ごめんね。実はあの後もう一度あの店に行ったんだ。今度はお客さんとしてね」
「貴方1人で行ったの。女1人で行くようなところじゃないでしょう。それに、あの店は紹介制だったはずよね」
「そう。でも今回は仲良くなったんで特別にオッケーをしてもらったんだ。他のお客さんはやっぱり高給取りのオジサマ達が多かったよ。テレビで見た事のある政治家も来ていたみたいだね。最近は女性のお客さんも増えたと言っていたけど、確かにアタシ以外にも女性だけのお客さんが居たみたいだよ。サッチーと一緒に行った時は詳しい話はできなかったし、やっぱり可愛いおねえちゃん達ともうちょっと親密になってからじゃないとプライベートに関わる話ができないと思ってね。まぁ、パーティ・ナイトをエンジョイしてきた訳ですよ。いやー。安月給には堪える金額が飛んで行ったけれどね。パーっと。その分良い情報を貰って前に駒を進める事ができたのだから、サッチーには褒めてもらいたいものだね」
一瞬、幸恵の脳裏に光希が両脇にフロアレディの女の子を侍らせ、シャンパンタワーを前にし、グラスを掲げて夜を楽しんでいる姿が浮かぶ。ただ純粋に仕事を忘れて楽しんでいたのではないかと疑ってしまうほどの、あふれる笑顔を浮かべていた事だろう。
「その時に齊藤の彼女についても聞いたのかしら」
「仕入れた情報は室長に伝えた通りだよ。齊藤は一人身という事は判っている物の、幅広い人物が齊藤を知っていて齊藤を訪ねて来店する反面、彼の交友関係どころか休みの日に何をしているかといったプライベートな部分はあまり知られていないんだ。あの店の従業員も齊藤について知りたいけれども、知ってしまうと平穏な暮らしができなくなってしまうのではないかと恐れて一歩退いてしまった。だから彼のプライベートはあの店では謎のまま。だからお店の従業員は齊藤の彼女の存在は誰も知らなかった。自腹でお店に行ったのは良かったけれど、結局手に入れた情報は少ないって事」
「なら貴方は何故齊藤に秘密の恋人がいると思ったの」
幸恵の問いと同時に車がどこかに止まった。どうやら信号で停まった訳ではない。
周りを見ると、閑静な住宅地で目の前には築50年くらい経っているような、古くて小汚い木造の集合住宅が建っていた。2階建ての3部屋設計。道路に面した壁に郵便受けであろう穴が部屋の数だけ取り付けてある。だが残念ながら表記されているのは部屋番号のみで、肝心の住人の名前は書かれていない。
「ここはどこなの。そろそろ一体誰に会いに来たのか教えてよ」
「まぁまぁ。そう急かさないでよ。これから本人を目の前にして答え合わせを始めるんだから」
車から降りた光希は、未だ助手席に座ったままの幸恵にそう言って微笑みながらドアと閉じた。
光希が先導し、錆びついた外付けの鉄骨階段を上る。そしてある部屋の呼び鈴を押した。昔ながらのブザーのようなその耳障りの音は、外にも大きく響いた。これでは訪問者の存在を周りにも知られるし、深夜に鳴らされれば騒音とも思われても仕方がないのではないかと幸恵は思った。
数分待ったが呼び鈴を押しても誰も出てくる気配はなかった。だとしたらこの部屋の主は外出しているのではないか。光希に時間を改めてまた来るように言おうとする幸恵の目の前で、もう一度光希はその煩いブザーを鳴らしていた。今度はブザーを長く押し続けて、断続的に無機質な機械音がまるで壊れてしまったかのように鳴り響く。
「止めなさい。今時の小学生でもこんな馬鹿っぽい悪戯はやらないわよ」
幸恵は勢い良く光希の後頭部に向かって平手打ちをした。
「長く押していれば気付くかなって」
「気付くもなにも、留守だったら意味がないじゃない」
「いや、そうでもないみたいだよ」
光希がそう言うのと同時に部屋の奥で人の気配がして、錠が外れる音がする。
中の住民は居留守を使っていたのか。光希の馬鹿らしい粘りがなかったら、危うく騙されてこの場を離れてしまうところだった。扉がゆっくりと外側に押し開かれて、室内のチェーン越しにこの部屋の住民の顔が明らかになった。
「サッチー。これがあの煌びやかな世界に君臨していた夜の蝶の、朝の姿だよ」
光希の声は少しだけ悲しそうに響いていた。
昨晩は整えられていた艶やかな髪は飛び跳ね放題のぐしゃぐしゃで、ふっくらとしたピンクの頬には今は血色がない。あの優しげだった目元には、落ち切っていないアイメイクと青くまが泣きはらした目を覆っていた。服装は夜の煌びやかな悩殺ドレスの代わりに出身高校がわかる着古されたジャージを身にまとっていた。
母性と知性と包容力が写真を通しても滲み出る魅力的な女性だった彼女と、古い木造住宅の一室から出て来た彼女とは、似ているがかけ離れた存在のようだった。ただ昨晩と変わらないのは、ヨレヨレの洋服から覗くシンプルなハートのネックレス。それをどんな格好でも大切に身に着けているという事だ。
「見つけたよ。齊藤のスイートハート。サアヤちゃん、貴方が秘密の恋人だね」
泣き疲れて虚ろに開かれたサアヤの瞳は、光希の言葉にただ頷いた。
2019/3月改稿




