9.やっぱりそうだと思ったよ!
応接室の中、じりじりと時間だけが過ぎていく。もう、夕方4時だ。
コンコン。軽いノックの音が響き、応える前に勢いよく扉が開かれた。
「突然、げほっ、すまない、ルテアと、あー、さっきの一般人、いるか?」
入ってくるなり、さっきの班長さんは僕の対面側のソファに倒れ伏した。玉のような汗をだらだら流しながら、ぜいぜい喘いでいる。どうやら、廊下を全力疾走でもしたようだ。
…なんだかその様子に親近感を感じてしまうのはなぜだろう。
ルテアはお茶を手際よく入れ、倒れる班長さんの手元に差し出す。
「ちゃんといますよ班長。あとこの子の名前はアクトです。どうしたんですか、そんなに慌てて。」
班長さんが、熱いだろうに、そのお茶を一息に飲み干して、だん! とカップごと、拳を机にたたきつけた。思わず大きな音に身体がビクつく。ひい。カップが割れそう。
班長さんは忌々しそうに舌打ちをして、吐き捨てた。
「逃げられた!」
「班長、落ち着いてください。アクトが怯えてますよ。逃げられたって、昼間の捕獲依頼のアレですか?」
「そうだ。くそ、門を固定して気を抜いた瞬間にやられた!」
「ちゃんと門、一度閉じてきてます? 追跡マーカーは?」
「どちらも問題ない。マーカーの移動予測から、ここまで先回りしてきた。」
よかった、門関係はきちんと手順を踏まないと、ひどいことになると教科書で見た記憶があるし。安全第一でお願いします、本当に。
思えば、正式な手順を踏まなかったから、さっきの部屋では黒いのの移動が終わった直後に爆発が起こったんだろう。
そこまで考え、あの黒いものはなんだったんだろうと思った。そして、…あれ?
今。この班長さんは何を言ったんだろう。
あの黒いものが、また、くる、のか? カチカチ、と手に持ったカップが音を立てていると思ったら、勝手に身体が震えてしまっていたようだ。お、おおおお。おち。おつつけ、おつちけ、じゃない落ち着け。大丈夫、班長さんもルテアさんもいるし、怖くないはず、大丈夫、僕は死なない、死なない!
でも、なぜか、嫌な気配がする。昨日、まるで、あの変態が追ってきていた時のような。
「今すぐに、再度あの罠を」
「班長?」
「なんだ?」
「もうご到着のようですよ、ほら、アレ。」
ルテアさんが、僕の背後を指さしている。
嘘だ。嘘ですよね、嘘ですよね?
先程の、死を感じたときの恐怖が、ひたひたと思考を塗りつぶしていく。
怖い、死ぬのは、痛いのは、苦しいのは、怖い、怖い怖い、怖い!
ごぼり、と、そいつが立てた気泡のような音が耳の、本当にすぐそばから聞こえた。
――オイシソウナノ、ミィツケタァ。
ひっ!
『ぃぎゃあああああああああああああああああああ!!??』
感情が振り切れた、と思った瞬間、制御も一緒にどこかへ飛んでいってしまったようだった。
暴発した魔力が後ろにいたそれを吹き飛ばす。壁に打ち付ける。さらに上から、叩く!叩く!叩く!叩きつける!
『こっちこないでぇえええええええええええ!!!!』
がっ、ごっ、どがっ、ががごがっ、どががががががが。
無理やり音にすると、そんな感じになるんだろうか。一心不乱に方向性だけを絞って、黒いそれがこちらへもう近寄れないよう、撃ち続ける。まだ動く、あいつ動いてる、殺らなきゃ、まだ、まだ撃たないと撃たないと撃たないと!!
「おお、たーまやー。かーぎやー。」
「班長、ふざけてる場合ですか。あれ、さすがに可哀想じゃないですか…?」
「…自業自得だろうよ。どうせ奴はあの程度じゃ死なないという話だし、見ている限り、むしろあの暴発分の魔力がエサになってるな。問題なさそうだ。…もうこのまま、あの一般人が力尽きるまで放置しようか。」
「そうですね。あーぁ、アクトも気の毒に…。でも、あれだけ錯乱してると、やむなしですねぇ。」
背後からそんな二人の声が聞こえてきていたが、頭はもう言葉を理解をしていなかった。
そう長い時間じゃなかったと思うけれど、その時の僕にはわからなかった。
やがて、僕は魔力をついに使い切り、ぱたりと倒れた。
あいつは、まだ生きている。動いてる。ああ、ゆっくりとこっちに這いよってくる。
体が震えて立てない。必死に後ずさるが、すでに背後はもう壁しかない。
逃げられない、食われる、溶かされる、痛い、怖い、怖い、嫌だ、怖い!!
だが、黒いそいつは、僕の目の前で動きを止めると。ごぽりと体を揺らした。
――オイシイ。モウ、イイ。
「……え?」
僕は固まった。
…今、こいつ、…なんていった?
二人とも動きを止めたまま、5秒経った。10秒が経った。…1分が過ぎた。
「よし、二人とも落ち着いたな。」
声をかけられ、僕はぎぎぎ、と強張る首を静観していた2名の方に向ける。
二人は同時に、同じ仕草で肩をすくめた。
「話によると、まさに生まれたてらしいからな。私は知能があると判断できるのが不思議なんだが。」
「反応するのはアクトだけ、だな。なんでだろうねぇ?」
「疑問な点がある。おそらくそれが懐き方の原因なんだろうが…。何故、この2名、すでに契約している様子なんだ? 初回遭遇時か? おそらく、それが接続となって、発達を促したのは理解できるんだが。」
こちらを見ながら考察を重ねる二人。正直そんなのはどうでもいいから、この妙な空気をなんとかしてくれ、と僕は思った。
――サガシタ。ズット。コナイ。キタ。
ごぼっ、とそいつが僕の前で震える。
――カタチ、モラウ。マカセル、イタクナ、イ。ス、グオ、ワル。
「ふむ。どうやらサンプルとして形状データが欲しかっただけのようだな。だったら心配ない。君はそこで寝てるだけでいい。」
納得したように班長さんが言う。
え。何この流れ、なんかまた、嫌な既視感が。
まかせておいて、大丈夫? ほんとに大丈夫なのか?
次の瞬間、今度は器用に顔面を避けて、そいつが僕を飲み込んだ。
思わず息を詰めたが、前回と違い、今度は圧迫も痛みも、何もない。ただ、思ったより弾力のある、ぷるんとした感触が全身を包んでいく。極度の緊張が突然解放されて、火照った肌にその冷たさが気持ち位だ。
が、確かに痛くはないけれど、これはっ!?
「いやああははははやめてやめてくすぐったいぃぃぃやぁはははははははぁがっはごほがふっ!?」
「うっわぁ、全身ヌメヌメの中での物理的詳細スキャニング…。アクト、ほんとご愁傷様…。」
そのルテアさんの一言が今の僕の全てを表していた。
前回とは違う意味で息が! 息ができない!
まかせちゃだめだよこれ! 無理だって! 無理! 別の意味で無理ぃいい!!
見てないで、とめてぇええ!!
3分ほど後、案の定力尽きて、僕は完全に意識を失った。