5.仕事にトラブルは付き物だ。
今更だが、僕の仕事は、記録を取ることだ。
朝の9時から夕方5時までの間、魔法協会の割り当てられた一室で、魔素濃度感知器と空間安定装置の記録をずーっと取り続けること。とても簡単な分、退屈な上に、ずっと筆記を続けなければならないので、結構きつい。僕の前の人は一か月で音を上げて辞めてしまったとか聞いた。気持ちはわからなくはない。
「…いち、まる、いち、まるまる、きゅう、まるろく…。」
カリカリと、シャーペンがノートを引っ掻く音が部屋に響く。
それにしても、毎回思うんだけれども、この部屋。奥が物置みたいで雑然としているのはいいとしても、事務机が5つあるのに、僕とルテアさんの他には人がいるのを見たことがない。それに、ルテアさんも毎日、朝と夕方に顔を合わせるだけだ。もう三か月もその調子だ。実質僕一人。仕事ってこういうものなんだろうか?
まあいいや。お昼になったら、イリルと約束した小包を投函しにいこう。
カバンから角が少しだけ見えている小包を確認した。大丈夫、忘れてきてはいない。
それにしてもこの小包、やけに厳重に封をされていた。サイズは長形3号封筒と同じぐらいだ。差出人から宛先まで、全部に個人情報保護がかかっていて、読めない。なんだろうな? よほどの貴重品なんだろうか。ちょっと気になる。それに、不思議だ。心なしか中身が暖かい、いや、…熱い?
「いやいや、よそ見してないで続けないとな。…まるよん、いち、…百五十?」
一桁台をうろついていた数字が突然跳ねた。慌てて確認するが、どちらの装置も一気に百から二百の間を針が激しくいったりきたりしている。どちらの装置も、この付近の空間安定度を記録するためのものだから、つまり、それは…。
「これ、外部からの空間干渉?」
『――閉じろ!』
誰かが魔法の発動を示したのとほぼ同時、虹色の光の網が部屋の中央を覆った。次の瞬間、その光の網の中で、布が引き裂かれるかのような音を立てて空間が縦に開き、どろりと、黒いものが零れ落ちてきた。そして、スライムのようなそれが完全に落ちきった時、裂けた空間が、先程と同じような音を立てて、元に戻ろうと、歪み、うねり、収縮して――。
重低音が身体の芯を叩き、僕は机ごと吹き飛ばされて部屋の隅にまで転がっていた。
目が回る。何が起こったんだ!? 見てはいたが事態が理解できない。
僕は混乱したまま慌てて身体を起こし、辺りを見回した。
部屋は、ひどいことになっていた。さっきのは爆発だったのか、すべての物がひっくり返っていた。せっかくつけていた記録の紙の山も、観測機器も、でたらめに床に投げ出されて、ぐちゃぐちゃになっていた。その部屋の中央で、黒いものが、虹色の魔力の網で覆われて、蠢いている。
あれが、空間から割り込んできたのを、虹色の魔力が受け止めたのか?
「おい、中に人がいるなんて聞いてないぞ。どうなってる。」
「おかしいなあ? 僕が朝の時点で罠を仕掛けた時にはいなかったんだけどな?」
扉から、人が二人入ってきた。片方は知らない人だ。まるで子供のような体格だが、背中に大きな白翼がある。翼人系統の方なのかな?
もう片方は、怪しい黒フードとローブの姿って…ルテアさん、じゃないですか。
「ルテアさん、その言い方ひどいです…。いくら今日は遅刻ギリギリだったからって、僕、真面目に仕事してただけですよ?」
僕が声をかけると、二人は顔を見合わせた。
「おいルテア、あの子お前の名前知ってるみたいだよ? 知人か?」
「えぇ。誰だい、僕知らないよ? どうなってるの?」
ちょっと待って、それ、どういうこと?
こちらも疑問を声に出す前に、二人が慌てて取り出した杖を構え、距離をとった。青い、たぶん水の壁がさっと二人を覆う。防御の魔法を行使したらしい。
「君、逃げろ! あの結界、もうもたんぞ!」
警告の声とやはりほぼ同時、まるでシャボン玉が割れるように光の網が消えて、黒いものが取り戻した自由にとまどうかのように震えた後、…なぜか僕の方へ、勢いよく迫ってきた!
――ミィツ、ケェ…タァ。
そう聞こえた。でも、あれ、なんか、この悪寒、既視感…?
そう思ったのは何故だろう。
僕は意図して避けたというより、恐怖のあまり腰が抜けたのが、ちょうど避ける形になった。間一髪、僕の目の前を通り過ぎたそれは、先程の爆発といい勝負の音を立て、奥の物置部分に激突し、もうもうと埃を巻き上げた。
悲鳴を上げようにも声が出ない。へたり込んだまま、僕は埃を立てた元凶の方を見ていた。
「ふむ、意外と動きが速いな。防壁は無意味か。轢かれたら…私やそこの一般人ぐらいなら一撃で即死するかな? ルテア、どう思う?」
「余裕ですね班長。笑ってる場合じゃないでしょうに。ほら、次、来るよ!? 死にたくなければ君も早く立って!」
せっかくルテアさんに警告をもらったというのに、僕は、動けなかった。
ガクガクと震える足が、手が、いう事をきかない。目線だけが、二人と、黒いものの間を行ったり来たりするだけだ。
そうこうしているうちに、それはまた突撃してきた!
今度もなぜか、僕を標的にしている。
…なんで?! 僕何か悪い事した!?
「ああ、もう! これだから戦闘慣れしてない奴はっ」『逸らせ!』
ルテアさんに班長、と呼ばれていた白翼の人が舌打ちした後、魔法を発動させた。そして吹いた強風が、黒いものを僕より遠くへと弾き飛ばす。だが、黒いものは執拗だった。飛ばされながら、端から触手のようなものを伸ばし、僕の脚を捕らえ、そのまま僕は引きずり込まれた!
「あ、がぼ、ぉえっ」
スライムに飲み込まれたら、こんな感じじゃないだろうか。反射的に悲鳴を上げようと開いた口の中、喉の奥へ、黒いものが押し寄せてくる。息が、できない!
もがいた腕が次に取り込まれ、じゅう、と嫌な音を立てた。遅れて、焼けるような痛みが全身からじわじわと襲ってくる。喉の奥も焼けついてくるかのようだ。溶かされている、のか? 怖くて見ることができない。そのまま腕を引きずられ、黒いものの中央に倒れこむ。不気味な一瞬の冷たさの後、首元に激しい痛み。明らかに食い破られた感触がする。伸ばした手が目に入った。なんで赤いのか。血だ。僕の。
いきなり冷水を浴びせられたようだった。死ぬ。このままだと、食われて死んでしまう!
嫌だ、怖い、死ぬのは、『嫌だ!』
僕の魔力の高まりを感知したのか、あちこち、僕を締め付ける圧が強くなる。痛い、苦しいが、必死に流れ出た血を触媒に、魔力を練り上げる。練習をサボらずにしていたお陰だろうか、構築は三秒で済んだ。もともとは大昔の、対魔物用の攻撃用の魔法だ。魔力が少ない僕が、唯一使える程度の、低レベルのものだけれど、やらないで死ぬよりかはマシだと腹をくくった。できた、『着火』!
くぐもった爆発音が連続する。黒いものの体内が、爆ぜる、爆ぜる。うっかり効果範囲を指定しそこねた僕もろともに。
だが、そのお陰で、満身創痍になりながらも、黒いものから僕は脱出を果たした。
け、契約ってすごい。僕、あの魔法であんな威力が出たのは初めてだ。
けど、あれがもし僕に直撃してたら、僕自滅してたよな…? 外して部屋にでも当ててたら、火事になってたよな…? やっぱり、冷や汗が止まらない。
ぶっつけ本番なんて、もう二度とやりたくない!
重い身体を引きずりつつ距離を取ろうとしていたら、ルテアさんに腕を掴まれ、引き寄せられた。ようやく保護されたらしい。にしても。
つ、掴んでるとこ傷!傷口!痛い痛いぎゃああ!!
痛みでのたうち回るってのはきっとこういうことなんだと僕は理解した。
「あ、ごめん、うっかり。ちょっと待ってねぇ、落ち着いたらちゃんと治してあげるから。班長、確保OKです。」
「わざと食われて中からぶちかますとは、思ったよりやるじゃないか。見直したぞ。」
班長と呼ばれた白翼の人、もう班長さんでいいや…彼は、面白そうな顔でこちらを覗き込んできた。
褒めていただいて恐縮ですが、あれは完全に偶然です。とでも返せればよかったのだが、僕はまだ心臓が緊張で早鐘を打っており、息も絶え絶え、喋るのもままならない。
その間、黒いものはびくびくとその場で痙攣しており、こちらへはもう向かって来ない。そのままあっさりと、先ほどと同じ虹色の魔力の網に捕獲され、動かなくなった。
「丁度いい弱らせ具合で楽ができた、礼を言おう。」
「班長がやると毎回部屋、全壊しますからねぇ。本当に助かったよ、ありがとう。」
二人は僕に、もう大丈夫だと太鼓判を押した。
だが、僕はそれから目を離すことができなかった。目を離した瞬間、また襲ってくるような予感がしていた。