第九十三話 決意と決心(2)
魔族ではなかった。
だからといって、和やかな雰囲気に戻ることもままならなかった。
そこにいた人物は、腰を抜かして座り込んでいた。『彼』にしてみれば突然殺気を向けられたのだから、無理もない。
「イチカか……びっくりしたじゃないか」
苦虫を噛み潰したような表情の白兎。ミリタムはその人物と面識がないので、不思議そうに白兎と彼を見比べている。
今、この場で、一番遭遇してはいけない人間。
「……レイト」
彼は――レイトは現れた時も今も、眼だけは微笑んでいる。
「それだけ凄い殺気が出せるってことは、この辺で闘ってたっていうのも君たちのことかな? リヴェルの近くで小規模な戦があったと、小耳に挟んでね」
ついつい野次馬根性で来てしまったんだ、と屈託なく笑うレイト。
彼がここに現れたのは、別段不思議なことではない。
一行はセレンティア近郊で休息を取ったあと、再び北へ向かおうとしていた。
王国西側を抜ければ、巫女の森外縁を辿る道と合流し、やがて大陸北部・西部・南部へと続く三叉路に出る。大陸北部へと続く道の途中で宿を取り、敵とは今朝方相見えたのだ。
リヴェルの街は宿の郊外を、山側に進むと辿り着く。
時間にして三十分足らずだ。
「……耳が早いな」
イチカはそれだけ返した。元々口数が少ない彼だが、表情は普段以上に影が差している。この最悪の状況をどう打破するべきか、必至に思考を巡らせているのかもしれない。
「まぁね。でも、みんな元気そうで何よりだよ。そういえば……僕のラニアはどこかな? 姿が見えないけど――」
答える代わりに、静かに立ち上がるイチカ。
彼の判断は決して間違ってはいない。隠しても意味がないし、隠しようがない。まさか白兎のように、力ずくで起こすわけにもいかないのだから。
レイトの位置からは横たわるラニアの後頭部が見えるはずだ。
案の定、その顔から笑みが消えた。
「ラニアに、何があった?」
程なくしてそう訊ねた彼の声色は、とても穏やかとは言えないものだった。
碧も、イチカも、ラニアすら知らないであろうレイトの静かな怒り。
イチカは無言を貫いている。言い訳ではない確かな理由があるのに、沈黙を守ったままだ。
あるいは、どんな言葉も言い訳にしかならないと思ったのかもしれない。
「答えられないのかい? 見たところ彼女だけ意識がないじゃないか。まさか君は、女の子のラニア一人を過酷な戦闘に参加させたっていうのかい?」
何も知らない人間がこの状況を見れば、誰もがそう言うであろう。
白兎は人よりも身体能力が優れた獣人であるため、立って歩けるほどの体力は残っている。ミリタムは重傷を負っていて未だ立ち上がることはできないが、会話ができる余力はある。
本来ならば、イチカと碧もミリタムと同じかそれ以上の重傷度だった。しかしそれは、ヤレンの加護によってほとんどなかったことになっている。
銃士とはいえ普通の町娘と大差ないラニアは、一人身を横たえている。
全員が闘った。
平等に見えないのは、不平等な庇護のため。
レイトの指摘を受け苦々しげに目を伏せるイチカを見て、碧もようやくその事実に気付く。
(あの結界、イチカとあたしだけだったの? だから、みんなは怪我したまま……?)
一言も発さないイチカの態度に業を煮やしたのか、レイトが眉間に皺を寄せる。
「君がそれほど非常識な人間だったというなら……そんな男を信頼して、ラニアを任せた自分がとても腹立たしいよ」
このままではいけないと、考えるより先に声が出た。
「違うんですレイトさん、イチカは――」
「悪かった」
精一杯否定しようとした。否定して、真実を伝えるつもりだった。
それなのにイチカは、そんな碧の言葉を遮って一言、そう発したのだ。深く腰を折って。
碧は訝しげに彼を見つめた。
「ラニアのことは全部、おれの責任だ。おれが未熟なせいで、こいつをこんな目に遭わせた。反省している」
あのイチカが、頭を下げて、謝罪を。
端から見れば失礼な思考を巡らせてから、碧は過去を顧みる。
――『……あれ? 今日は巫女様が一緒か? あの美人の娘は?』
――『そいつなら街で留守番だ』
初めてイチカらと出会った日。
こちらには目もくれず、話をしようともしなかった彼が、ラニアの話題が上がった途端割り込むようにそう言ったことを思い出す。そして、それを聞いた自身が「イチカにとって彼女は特別な存在なのかもしれない」と考えたことも。
(「かもしれない」じゃ、ないんだ……)
決定打は、その顔。
彼は心底申し訳なさそうな、悔恨の表情を浮かべていた。
自分がもしラニアの立場だったら、こんな表情をしてくれるだろうか。いや絶対にない。彼にとって忌まわしいだけの過去を思い出させるような自分には、そんな顔は向けない。
先ほどの人工呼吸が脳裏を掠める。
あんなに安心しきった顔も、進んで助けようとしたのも、ラニアだからこそだったのだとしたら。
苦しい。どうしようもなく苦しい。
例えるなら、世界に自分一人だけ取り残されたような孤独感。
碧は無意識のうちに、自らの袖をきつく握りしめていた。
「白兎、白兎」
「あァ?」
ミリタムが白兎を肘で小突いている。状況が深刻なので、二人とも普段より小声だ。
「話が見えてこないんだけど、あの人誰?」
「さっきから『ラニア』『ラニア』言ってンだろ。アイツの婚約者だよ」
「嘘?! へぇ~~……ラニア、ああいう人が好みだったんだね。何考えてるのか全然分からないような顔なのに」
「黙ってろ弾が飛んでくっぞ。気絶してても話は聞こえてるかもしンねェからな」
白兎が適当に会話を切り上げた後もその前も、続く沈黙。
イチカは依然、頭を下げたままで、レイトも一言も発していない。
「“反省している”ねぇ……反省したって、ラニアに傷を負わせた事実は消えない。僕としてはこれ以上、君とラニアを一緒に居させたくはない」
当然と言えば当然の返答が、溜息と共にレイトの口から紡がれた。
イチカとて、そう簡単に赦してもらえるなどとは思っていないだろう。この程度の謝罪で赦すようなら、それこそレイトを信用できない。
そして、レイトの言い分ももっともだ。これから先、あと何度同じような事態に遭遇するか分からない。今は一命を取り留めたが、次闘ったときは全員が死ぬ可能性だってある。
それならばせめて、安全な彼の元で暮らした方が良いのかもしれない。
いずれにしろ、次のレイトの言葉で全てが決まるだろう。
「ラニアは僕が――」
「まっ、て……」
思いがけない声が割り込んで、皆が一斉に声の方を向いた。イチカも思わず頭を上げてそちらを凝視している。
ふらつく足で、それでも樹にしがみつきながら懸命に立ち上がったのは、渦中の少女。
「ラニア……」
開かれた瞳には、揺るぎない決意が秘められていた。
「待って……レイト。これはあたしが悪いのよ……イチカだけの責任じゃない。みんなちゃんと戦ってた。あたしだけ体力がなかった、それだけよ」
息を整え、しっかりとした口調で「自分に非がある」と主張するラニア。
まっすぐな瞳を、レイトは困惑した表情で見つめている。
「だから、みんなを……イチカを……責め、ない……で……」
「ラニ――」
よろめく身体を、レイトがすんでのところで抱き留めた。ラニアにより近い位置にいたイチカだが、駆け出して手を伸ばした状態で固まっている。その光景を見て、碧はまた胸が締め付けられる思いがした。
「ホントに君は、お人好しなんだから」
レイトは再び気を失ったラニアに微笑みかけると、軽くしゃがみ、壊れ物のように優しく横抱きにする。
そのまま歩き始める彼を引き留められるはずもなく、一行はただ黙って見送っていたが。
「何してるんだい? 君たちも怪我をしているんだろう? 早く来ないと置いていくよ」
振り返らずに陽気に発せられたレイトの提案に、一様に鳩が豆鉄砲を食ったような顔を浮かべる。
「いいのか……?」
皆を代表しておずおずと、小さな子供のように訊ねるイチカ。
「いいも何も、女の子がいるじゃないか。僕は困ってる女の子は放っておけないタチなんだ」
別に困ってねェんだけど、と口に出さずとも顔面に書かれている白兎。碧も特に困っているわけではないが、一時は決裂しかけた関係を修復してくれたのだ。これに乗らない手はないだろう。
「それに……君たちを置いていこうものなら、それこそラニアに撃たれちゃうからね」
レイトは振り返り、一行に笑いかけた。




