第九十話 戦の後(1)
先ほどまで立ち込めていた邪悪な気配は跡形もなく消え、氷結したかの如く静まり返っていたそこは、再び息を吹き返した。
しかしそれは、人間界に降臨した魔族を滅ぼしたというわけではない。
去っていく二匹の魔族をぼんやり見つめながら、イチカは自身の身体中にあった痛みが薄れていくのを感じた。同時に、阻喪していた士気も幾分か回復し、この死闘を顧みる余力も生まれる。
何もかもがどうでも良くなっていた。言葉は聞こえているのに耳を素通りしていく。「殺す」と言われようが抵抗する気力も湧かなかった。
明らかに不利な戦いだった。攻撃への対応の速さ、技術、そして繰り出す一撃の重み。
そのどれもがイチカを、彼の仲間を圧倒的に上回っていた。茫然自失となるのも無理はない。
イチカの目の前の地面に、半透明の草履を履いた足が映る。
魔族の注意を逸らし、自らが囮となって結界を張った。この功績だけ見れば感謝しても、し足りないぐらいだろう。どちらが欠けていても全員が死んでいただろうから。
だが――見上げた先で口元だけの笑みを浮かべている巫女を見て、素直に礼を述べる気には、イチカは到底なれなかった。
静かに視線をそらすと、上方から小さな溜め息が聞こえた。
「私は感謝の言葉の一つや二つ期待していたんだがな?」
「あいにく不満の方が勝ったんでな」
銀色の瞳が憎悪と怨恨でより一層細められた。
「なんで仲間に結界を張らなかった」
「私はそうしたつもりだが」
両手を広げ、肩を竦めるヤレン。
まるで子供の他愛ないわがままを窘める親のような仕草に、イチカは感情を高ぶらせた。
「一人だけだろう! あれだけ敷地の広い聖域には結界を張れて、たった四、五人の人間には張れないと言うのか!!」
彼女の結界の性質なのか、結界を張られた者は同類の結界の所在と個数を知ることができるらしい。
イチカもそれで把握したのだが、感じたのは人一人がようやく守られるほどの小規模な結界だけだった。それも、感じ取った気配はこの巫女の生まれ変わりのもの。
だからこそ赦せなかった。結局は我が身可愛さかと。
「仲間の心配も結構だが、私に不満を言う前にまず自分の身を省みろ」
静かながら強い声調の奥に垣間見えた怒りに、イチカは思わずたじろぐ。
ヤレンはおもむろに膝を折り、イチカの左手を持ち上げた。
意識であり、言ってしまえば霊体であるはずの彼女の手は、しかし不思議と温かい。
その謎が気になって、真っ先に動いた瞳が事実を認めた。
振り払おうとした右手は、所在なげに地面から浮いている。
指が、なかった。第二関節から上が、いっそ見事なほど平らになっていた。
「クラスタシア・アナザントはお前を殺そうとしていた。奴の攻撃に倒れたと見せかけ、なんとか二人分の結界を張るのが精一杯だったんだ」
ぽつり、と呟くそれは、言い訳にも自嘲にも聞こえた。
『――真に危険が迫っているなら、意識を削ってでも助けると仰っていました』
以前、サトナが口にしていた言葉を思い出して、イチカはぐっと口を噤む。意識とはいえ、わざわざあの森から駆けつけただろう相手に、それ以上文句を言えるはずもなかった。
「……一つ、訊きたい」
暫しの沈黙のあと、重たい口を開く。
――『お前は名乗る必要はない、イチカ。お前のことはよく知ってるからな』
――『ふぅん。近くで見るとホントそっくりねぇ。まあ前よりも可愛さが増えた分、人間っぽさも二割増しってトコだけど』
碧だけでなく、イチカを――イチカを通して誰かを見知っているかのような魔族の反応。あの追体験のような夢。
イチカ自身信じたわけではないが、それらから鑑みて、「そう」である可能性はかなり高いと思われた。
少なくとも、訊く価値はあるだろう。
「セイウ・アランツとかいう魔族がおれの前世というのは本当か?」
ヤレンは依然、無表情のままだった。
しかしそれは常人の眼では、である。
イチカは彼女が僅かに息を呑んだのを見逃さなかった。
その瞳が揺らいだことも。
なるほどな、と彼は思う。今まで核心に触れようとしても、のらりくらりとかわされ続けていたのはこれが理由だったのだ。何を考えていたのか、ようやく掴めた。それは、無関係であるはずのイチカが召喚された理由にもつながる。
つまるところ――
「あんたは再現するつもりだったんだな。四百年前のあんたたちを」
「……そうだ」
短く肯定を示すヤレン。
「私たちは愛し合っていた。だがいかに相愛であろうと、人間と魔族の壁はそう易々と壊れるものではない。ならば、同じ種族としてならそれは解決するのではないか? そう考えた私は、サイノア・フルーレンスに敗れ封印される直前、それまで禁忌とされてきた神術を使い、自らとセイウの魂それぞれを危険の少ない場所へ――こちらと共通点の多い国へ飛ばした」
自己中心的な主張に辟易しながらも、イチカは浮かんだ疑問をぶつける。
「そこまでしておいて、なんでこっちに召喚び戻した? 今みたいに魔族に狙われる可能性は考えなかったのか」
「もちろん、考えたさ。危険に晒すことは重々承知していた。私がそうすることで、お前たちが巻き込まれる未来も視えていた」
それなら何故、と銀色の瞳は投げかける。
ヤレンは顔を上げ、またあの寂しそうな、しかし柔らかい笑顔を浮かべてイチカを見つめる。
「私の我儘だ。もう一度、あいつの顔を……面影だけでもいい、片鱗でもいい、少しでも感じられるなら、この眼で見てみたかった……」
「……」
それまでの説明は何一つ理解できなかったし、したいとも思わなかった。
それなのに、今の言葉に対してだけは、少なからず共感してしまった。
もしも良香の生まれ変わりがいたとして、一目だけでも逢える方法があるのなら、自分も同じことをするかもしれないと思ったから。
けれども。
「おれはセイウ・アランツじゃない」
そう。たとえ生まれ変わりであっても、その人自身ではない。
前世の記憶があるのなら、その人足り得るのかもしれないが――ほとんどの場合、記憶を失っている。そんな状態で何を言われたところで、今の自分のように混乱するだけだ。
イチカの呟きを拾ったヤレンは一瞬だけ呆けたような表情をしたが、すぐに破顔した。
「安心しろ、お前に対して恋情を抱くことはない。顔は同じでも中身が全く違うからな」
「……くだらん」
からかうような口調に、イチカはそっぽを向く。
「おれには、あんたの思い通りになるつもりもそれに対する関心もない」
「ああ、それで構わない」
耳を疑い、思わずヤレンを見る。
内に抱えた寂しさも苦しさも感じさせない、いつもの自信満々な救いの巫女がそこにいた。
「お前を見ていてよく分かった。“つくづく人は思い通りにはならない”ということ、“それが故に人は面白い”ということがな。サトナも言っていたとおり、こちらに連れてきたのは私の責任だ。必ず果たすよ。お前たちのことはこれまでどおり支援するし、必要なら頼ってくれていい。事が無事に終わればお前たちには一切干渉しない。好きに生きるがいいさ」
少し前なら想像もつかないほど清々しい表情をしている。
憑き物が取れたような、煌めいてすらいる漆黒の瞳に拍子抜けしながら、ふと左手に意識が向いた。
痛まないわけではないが、多少の違和感は拭えない。
利き手ではないので、剣を握ることに関してはそれほど苦ではないが、この先戦い抜くには心許ない気もしていた。
「この手は治るのか」
「一度失くした組織は二度と元には戻らない。ただ、あるように見せかけることならできる」
そういった神術があるのだろうと自身で納得し、少し考えてから彼は切り出した。
「……頼ればいいと言ったな。奴らに勝つ方法はあるのか」
「お前自身が『セイウ・アランツ』になることだ」
抽象的な表現だが、イチカはかえって興味を惹かれた。
ヤレンもそれを感じ取ったのか、満足げな笑みを浮かべている。
きっと彼女にはこの展開が視えていたのだろう。だからこそ先ほど「頼ってくれてもいい」と言ったのだ。
(本当に、嫌な奴だ)
「私がお前を鍛えてやろう。あまり時間はないが、早ければ二、三日で強くなれる。お前次第だ、イチカ」
まだ可能性はある。そうも聞こえる彼女の言葉に、イチカは無意識のうちに安堵していた。
「修行を受けるつもりがあるなら、一週間以内に巫女の森に来い。遅れれば二度とチャンスはないと思え」
挑戦的に言い放ち、光が霧散するように消えた。
いつにも増して強気な口調だと思ったのは、イチカの気のせいではないだろう。それだけその“修行”に関して自信があるということだ。
――答えはもう決まっている。
何かが強く心を突き動かしている。
護ると決めたときから、魔族と闘っていくと誓ったときから、ずっと。
結局は踊らされているのだ。『彼女』を護ること自体には何の嫌悪も抱かなかった。
おかしな話だ。あれだけあの世界を、人間を忌み嫌っていたのに。
(いや、おかしくはないか)
元々なんの面識もないのに、お門違いな感情をぶつけていたのはこちらだ。日本人然とした容姿に思うところがないとは言わないが、今はほとんど嫌悪感もない。
多少、良香のことに関して見当違いなことを言うところは、正直に言えば苛立つことはあるが。
左手の、指があった部分が疼く。




