第八十九話 惑乱(3)
【止めるんだ!】
脳内で自制を叫ぶ声。ソーディアスが忌み嫌っているもう一つの自我だ。血を厭うので、見せしめとして村で人間たちを皆殺しにしたのだ。もう出てこないと思っていたのに。
「くそっ! 善人気取りが……!!」
通常より長く野放しにしていたせいか、押さえ込めない。遅効性の毒のようにじわじわと侵食していく。このままでは今の自分を乗っ取られてしまう。
【こんなことはもう止めろ!!】
「うるさい。消えろ……!」
息が荒くなり、呼吸が乱れる。『奴』に支配されるまでのカウントダウンだ。分かっていても、頭の中の声は止むどころか声量が大きくなる一方だ。
【分かっただろう? 君の探し求めていた『彼』ではないと。無意味な殺戮は止めて、あの時の誓いを思い出せ。争いのない世を作りたかったのだろう? 誰一人として哀しみのない、平和な世界を築きたかったのだろう?】
「うるさい。うるさいうるさいうるさいッ!!」
言葉での反抗は無意味な物となりつつあった。
黒い魂が、白く浄化されていく。白く、白く染まっていく。
(平和。争いのない、世界を……)
完全に覆い尽くされる直前、微かな水音が聞こえた。
それは不定期に聴覚を刺激し、注意を向けるには十分だ。
程なくして生臭い臭いが立ち込める。ともすれば嘔吐感すら覚える異臭から逃げようとして、思い留まった。
この臭いを知っている。
生きとし生けるものならば誰しもが内に持つ川。
白い魂が急激に遠ざかっていく。まるでその“川”を恐れるように、奥底へと逃げていく。
(そうだ。これは)
見開いた双眸に映ったのは、生々しく地面に滴る赤い液体。その根源を探すように視線を上げれば、何かを握り締める手。液体は、手がその“何か”から絞っているようだ。
何十秒そうしていただろうか。食い入るように液体を見つめ、完全に自我が戻ってきたことを理解したソーディアスは、ようやくその手に握られていた物と存在を認めた。
相当の力が加えられたのか原型を留めていないが、恐らく小動物であろう。
では自分を助けたと考えられるのは誰か。『奴』は極度に血を嫌う。血さえ見ることができれば、自我を保つことは可能だ。その事実を知っているのは、魔王と『一魔王の僕』の者たちしかいない。
今現在生き残り、かつそれを知っているのは、魔王以外ではただひとり。
「クラスタシア……」
真っ直ぐに自分を見つめる瞳は、呆れているようにも侮蔑しているようにも見えた。
いつからここに来ていたのかは分からないが、『結界女』の問いに勝手に取り乱して自我を失いかけたのだ。無理もない。
もう、魔族として『一魔王の僕』としての資格はない。
「すまん、クラスタシア。おれを、殺せ……!」
「なんでソーちゃんを殺す必要があるのよ?」
全てを諦めかけていたソーディアスにとっては予想外の答えだった。
疑いをかけるようにクラスタシアを見れば、先ほどの小動物を無造作に地面に投げ捨てているところだった。
「ついでになんで謝るのよ? 悪いのはソーちゃんなワケ? 違うでしょ。ホントーに悪いのは、呼んでもないのに出てきてソーちゃんのピュアな心を弄くった、どっかの誰かでしょ」
強引というか、マイペースというのか。彼のそんな性格にソーディアスの命は救われた。
当のクラスタシアはやはり巫女の方は見ぬまま、両手を広げ気を高める。
彼を取り巻くように発せられた闘気が身体を覆い尽くしていく。
「魔星随一の戦士と言われる『剛種』出身の魔族か。四百年前と全く変わっていないな。クラスタシア・アナザント?」
「気易く呼ばないでくれる? 穢らわしい」
懐かしむように眼を細めた結界女に対し、クラスタシアはにべもない。視線など寸分も合わせず、吐き捨てるように返す。
「とんだご挨拶だな。全くの初対面というわけでもないんだ。もう少し愛想を良くしたらどうだ?」
説教じみた投げかけにも、当然とばかりにクラスタシアの方は聞く耳持たずだ。
一騎打ちとなるであろうこの勝負に自分は不要だ。
そう決め込んだソーディアスの脳内に、聞き慣れた声が響く。
【ソーちゃん。退くなら思いっきり後ろに退いて。できればアタシが見えないところまで】
魔族の中でも『剛種』は極端に内含魔力が低い。そのため、基本的に魔法は使えず、精々情報伝達に消費する程度が関の山だ。
その代わり彼らは、少ない魔力を補うべく、生まれつき発達している四肢の筋肉を活かした『技』を覚えることができる。修行を積み重ねることで、さらなる力を身に付けることができるのだ。
境地に至った者は、姿形を変化させることなく、多少の力加減で天候を変え、大地すら意のままに操ることが可能になる。
魔法のように煌びやかではないものの、荒々しさも華、という見解で魔星では広く認められている。
その荒々しさの象徴こそ、今目前にいるクラスタシアではないかとソーディアスは思う。力任せでありながら姿が「あれ」なだけに、どうも華々しく見られるようだ。実際、『一魔王の僕』の中ではクラスタシアが最も戦力になると言われていた。
――『雲の上の存在』。
――『高嶺に咲き誇る花』。
(その“花”が自然破壊を手伝っているというのに)
彼の性別を知っていて尚、賞賛の声を贈る者は後を絶たなかった。比喩のどれもが美しいものばかり。大多数が実際に戦う姿を見たことがないのだろう。だから簡単にそんな言葉を使えるのだと、ソーディアスは人知れず冷笑を浮かべた。
姿が見えないほど離れているのに、ここまで自然破壊の足音が響いている。
空に浮かぶはえぐり取られたであろう地面の塊。それらが一斉に『結界女』を取り囲むように集まり、爆発四散するまでは一瞬だった。
「おれが言うのも何だが、よくやったな」
「なんのこと~~?」
そっぽを向きシラを切るクラスタシア。女と戦ったという事実をなかったことにしたいのだろう。助けられた後ろめたさもあり、ソーディアスはそれ以上追及しなかった。
「てゆーか、可哀想よねぇ。この子も」
クラスタシアは視線を斜め下方に落とす。『裏切り者』の生まれ変わりとされる人間の少年だ。
この世界に来なければ、きっともっと長生きできたでしょうに、と、憐れみを込めた言葉と視線を向け、そのまま手を伸ばす。
いっそのことひと思いに殺してやろうという、クラスタシアなりの慰めのつもりだったのだろう。
ソーディアスとしてももう見切りは付けているので、彼の行動を阻止するつもりはなかった。
「?!」
ソーディアスもクラスタシアも目を見張った。
少年に触れる手前、クラスタシアの指に電流のようなものが迸ったのだ。思わず引っ込めた手の、突出した人差し指と中指の爪が焼けただれている。
「……そーゆーことね」
彼は数秒それを見つめ続け、ともすれば舌打ちしそうな表情で呟いた。
サイノアもまた、『結界女』の生まれ変わりである少女を半円状に取り巻く結界を凝視して、全てを悟った。
確かに彼女は、魔法で固めたエネルギー球をあの少女目がけて放ったはずだった。それなのに、命中することなく軌道を反らした。
あの巫女は、魔族の相手をしに来たわけではない。相手をする素振りを見せ、状況に応じて分身を結界に変化させたのだ。四百年前の敵を目前にして、まだ生まれ変わりを狙うはずはないと踏んでの行動であろう。
そう、これは自らの魂を持つ者たちを守るための演出だったのだ。念入りに役者を増やして。
少女が立ち上がる。怪我の影響が色濃く残るのか、一つ一つの関節を慎重に動かして。
とても反撃できる状態にはないのだろう。その代わりとばかりに、少女はサイノアを睨みつける。せめてもの抵抗の意思表示だろうか。
サイノアはおもむろに手を引いた。
無詠唱の魔法を弾いた時点で、少女を取り巻く結界はかなり強力と推測できる。一筋縄ではいかない。そのうえ【紅雷】も用いたため、満身創痍ではないものの休息は必要だ。他のふたりも退く気配がある。獣人はまだ気力があるようだが取るに足りない。
獣人の遠吠えを背に受けながら、サイノアは数歩進んだところで人間たちの前から姿を消した。




