第八十八話 惑乱(2)
時は少し前に遡る。
『混合魔法』と呼ばれる人間界で生まれた複雑な魔法は、全てを巻き込み切り刻まん勢いでその規模を増していた。
だが、それはあくまでも人間に限っての話。『原始への変換者』の異名を取る魔族には、面白い魔法という認識はあっても、その程度のものだった。ことに『剛種』であるクラスタシアは、魔法を使えずとも魔法への耐性は通常の魔族よりも高い。付け焼き刃に等しい魔法をいくら放ったところで効きはしないのだ。
こともなげに魔法を掻い潜り、驚愕の表情でこちらを凝視する魔法士に微笑みかけながら腕を伸ばす。首元を捕らえ、その勢いのまま大樹に縫い付けた。
クラスタシアは反抗の隙を与えず、しかし気絶しない程度に力加減を調節する。今以上の力を込めれば、成長途上の首は治療が行き届かないほどに修復不可能となる。ひと思いに殺さないのは、それなりの理由があるからだ。
「悪く思わないでね……?」
子供をあやすような猫撫で声を出すが、魔法士は苦しそうに顔を歪めながら手を取り払おうと抵抗するばかり。多少手指を引っ掻かれても、彼にとっては痛くも痒くもない。それに、魔力と体力を著しく消耗したその挙動は次第に弱々しくなっていく。
「でも誇りに思ってちょーだい。アンタはアタシの部屋のコレクションになれるんだから……全身キレイにして飾ってあげるわぁ」
意識が朦朧としているのか、口から涎を滴らせたままほとんど反応を示さない。クラスタシアはそんなミリタムの様子を、悪魔のごとき笑みで眺めていたが。
陽光を凌ぐほどの光の出現に、視線だけ空を仰ぐ。
そして、そのまま放っておけば事切れたであろう少年魔法士から思い出したように力を抜き手を離した。
喉元に加えられていた圧迫感が途端に消え去り勢いよく咳き込む少年に目もくれず、かといって特定の方向を向いているわけでもない。
定まらない方角を見据えながら、同族の少女に世間話のような口調で問いかける。
「ノアちゃーん。ちょっとここ、任せていーい?」
同族の少女――サイノアは獣人を相手取りながら無言に徹している。
その理由は、突如として発生した気配だろう。
それも、違う気配ではなく同じ気配が少し離れた場所にも出現している。
そして、その性質は彼ら魔族にとって看過できるものではない。
クラスタシアもそれを理解していて、持ち場を離れるようなことを言ったのだろう。
ただ、その分散した気配が何を意味するのかまでは彼らも辿り着けていないようだ。
クラスタシアは忠実にもサイノアの返答を待っているが、今にも飛び出していきそうだ。
彼の持ち味は怪力、そして俊足。あと数秒と持つまい。
「――行きなさい」
サイノアの静かな命令を聞くやいなや、クラスタシアの姿はかき消えた。
彼の移動した証拠に、やにわに舞い上がる砂埃。
「一匹抜けたか」
上空から降り注ぐ声に、空を見上げるサイノア。
四百年前の巫女服、腰までの長い焦茶色の髪。
その出で立ちは、間違いなく彼女が巨大樹に封印した巫女のものであった。
「薄情なことだ。策なく尻尾を巻いて逃げたのかな?」
くっくっ、と愉快そうに嗤う巫女。これではどちらが敵なのか分からない。
サイノアは静かに双眸を閉じる。
降参だと落胆したわけでも、あるはずもない憤りを鎮めようとしているわけでもない。
「確かに今の私達に明確な策は無い。――けれどそれは、必要ではないから」
見開いた瞳は、黄金色。
「【擲て・天響】」
その言葉が合図だったかのように。
澄み渡っていたはずの空が突如として豹変した。一部分、まるで巫女を狙うように急速に広がった雨雲から、紅い雷が落ちたのだ。
その生々しいまでの緋色は、サイノアの瞳から色を抜き取ったように酷似していた。
不規則に、永続的に鳴り響く金属の擦れる音。
まるで機嫌を損ねた幼い子供がするように、二本の剣を引きずって歩く藍髪の青年がいる。
その足下に、いくつかの物体が転がっていた。
一つは、銀色の破片が飛び散った短剣らしきもの。
その他の複数の何かは、近くで座り込む、半ば放心状態の少年を見れば自ずと予想が付くものであった。
左手の第二関節から上、何かに切断されたような生々しい痕。
想像もつかぬほどの激痛で悶え苦しむような怪我だろうに、少年は、何もかも諦めたようにその場に膝をついているだけだ。目の焦点も合っていないので、何を見ているのかすら分からない。
ただ一つ分かるのは――少年の額や頬から血が止めどなく流れ、鎧も深く裂け、重傷を負っていることであった。
青年がおもむろに片方の剣を持ち上げる。それから少年の首筋にその切っ先が当てられるまで、まさしく刹那の出来事であった。命の危険に晒されているというのに、少年は瞼一つ動かさない。
「自分で言うのもなんだが、おれは必要以上の殺生はしない。弱者には情けをかける」
視線を一瞬たりとも離さぬまま、青年は少年を見下ろしながら言った。
「――だが貴様は別だ。いかに弱者と言えども、仮にも『奴』の生まれ変わり」
生死をかけた戦いの終焉にしてはいやに生易しい言葉の羅列が続くが、青年の口調には隠しきれない苛立ちが混じっている。
青年はいよいよ剣を振り上げた。
次いで紡がれた言葉は、今までの調子からは想像しがたい残酷なもの。
「故に、殺す」
無慈悲なまでの一刀が振り下ろされる直前、目映いばかりの光が青年の目を潰す。
予期せぬ奇襲ながらも即座に順応し、何事かと空を振り仰いだ青年は愕然とその双眸を見開く。
上空に現れたのは巨大な光だった。人間界を照らす天体と同じか、それ以上のまばゆさは身を突き刺すようだ。青年――ソーディアスは呻いて、苦渋の表情で唇を噛み締めている。
光は人影を具象するように中央へと集まり、徐々に輪郭を形成していく。やがて具現化されたのは、一昔前の巫女服を纏った女であった。焦茶色の長髪をなびかせ、余裕とも取れる笑みを浮かべている。
「何者だ?」
警戒心を露わに訊ねるソーディアスに、しかし女は小さく肩を竦めただけであった。
「“何者”か。心外な質問だな。お前たち魔族からすれば有名人だと思っていたが?」
「……そうか。ならばやはり貴様は『結界女』だな」
「ああ、そうだ。本物に会えて嬉しいか? 震えているように見えるぞ」
煽っているようだが、実際にソーディアスは全身を震わせていた。
ただしそれは歓喜などではない。畏怖でもない。
俯き加減のため表情は窺い知れないが、剣を持つその手は強く握りしめられている。隠しきれない怒りを、すんでのところで押さえ込んでいるかのように。
「そうだな。おれが馳せ参じていれば、貴様はおれが討ち取っていた。もっとも、まやかしに成り下がった今の貴様に用はない」
ソーディアスは女に背を向け、イチカに向き直る。剣を構えて振り下ろさんとして、その軌道を急きょ転換させた。
その剣が弾いたのは、一抱えほどのエネルギー球。
「誰がまやかしだ? 伝説の巫女を舐めないでもらおう」
揶揄する女の真意を測りかねていると、突如として激しい雷鳴とともに赤い雷が落ちた。
それも、そう遠くではない。
(あれは、サイノア嬢の【紅雷】……)
ソーディアスはその魔法を一度だけ見たことがあった。
五十年に一度ほどの間隔で、気まぐれに魔法を修得するのがサイノアの習慣であった。
魔族と言えども、最初から全ての魔法を兼ね備えているわけではない。人間がその特殊な術に関して無知であるように、魔族にも未だ知り得ない魔法は存在する。また、修得できるか否かは魔族の素質にも関わってくるため、魔王であっても持ち得ない魔法は数多くある。修得に掛かる年数も、個々の飲み込みの速さ次第なのだ。
彼女はその存在を知り、人間界の時間にして僅か三時間で修得してしまった。
素質があったとも考えられるし、類い希な飲み込みの速さ故かもしれない。
いずれにしても――と、扱いが難しいと言われる魔法を再び眼にすることができ、畏敬の念を覚える。
他方それは、同時に一つの可能性を生んだ。
すなわち、それ相応の事態があちらにも起こっているということ。
(今消えた気配はこの女と同じだった。ということは、分散している? 何故?)
「お前、面白い魔族だな。何故そこにいる?」
心の奥底をのぞき見るような漆黒の瞳に狼狽するソーディアス。
あまりにも分かり切った質問だ。自分は魔族として、ここに在るのだ。四百年前、愚かにも魔族としての誇りを捨てたあの男を完全に滅ぼすため、ここにいる。そののち侵略する。それ以外の理由などない。
――否。本当に、そうか?
微かに疑念が生じたその瞬間、ソーディアスの中で何かが大きく脈打った。




