第八十五話 死闘の果て(1)
我、信じず
信じるべきは己の刃
我が刃はつまらぬ者を殺すためにない
ただ一人の血を浴びるために存在しているのだ
「【兎使法・白ノ発】!!」
気合いの入った声が辺り一帯に響く。
同時に手のひらから生み出された光球は、目標目がけてその軌道を変えた。行く先には、顎の辺りで切り揃えられた金髪に、鮮血のような紅い瞳を持った少女。
一見すれば可愛い――と言うには多少大人びているが、花でも持たせれば文句なしで絵になるような容姿だ。
そんな少女と、見かけも声も野性的な獣人の少女が対峙していれば、十人中九人は前者の少女を庇いたくなるだろう。
しかし、彼女は見た目ほどひ弱ではない。
静かに左腕を上げ、手のひらを光球に向ける。
「【参られよ・一片の虚無】」
感情のこもっていない詠唱だが、確かにその魔法は起動したようだ。彼女の手のひらの前に小さな霧のような物が現れ、そこに“虚無”が生まれる。
そんな霧などお構いなしに、魔族の少女へと向かっていく光球。
いよいよ少女の手が熱球に溶かされようとした瞬間、白い光は勢いよく霧に飲み込まれた。熱すらも吸い込んだのか、手には火傷一つ負っていない。
手のひらほどの大きさの霧が、その倍はあろう兎使法を吸い込んだ――。
驚く間もなく、獣人の少女は既に行動を起こしていた。光球を追って、サイノアの目前まで迫る。
霧が光球を飲み込んだ直後、白兎は脚を高く上げ蹴りを仕掛ける。
完全に捕らえたかに見えた彼女の脚は、しかし虚空を裂いただけであった。
「はしたないわね」
静かで冷徹な声が、白兎の背を突き刺す。
一体どういう原理なのかは不明だが、彼女ら魔族は人智を超えたスピードで空間を移動できるようだ。白兎が以前相まみえた大鬼も俊敏だったが、残像を追えていただけまだ対処のしようがあった。
「勝手な見解で悪いけれど、女の子なら慎みなさいな。綺麗な顔が台無しになるわよ」
血液を硝子玉に閉じこめたような血色の眼が、白兎を捕らえて離さない。
『心配』だとか『懸念』といった類の表情ではない。このサイノアという少女からはそもそも感情が読み取りづらいのだが、氷を思わせる瞳にはなにがしかの感情が入り混じっているように見える。白兎にはそれが、下位の存在に対する侮蔑に映った。
「……ヒトのこたァ言えねェと思うけどな」
少なくとも、サイノアは表情こそ乏しいが綺麗な顔をしている。そして、彼女は白兎のように体術を使わないが、こうして戦いの場に赴いている時点で世間一般に言うところの「女の子」らしさからはほど遠い。そういう意味では「慎め」という言葉も、彼女自身に言えることであり的を射ている。
肩越しに振り返り憎まれ口を叩きながらも、白兎にそれほど余裕はなかった。
再び放った兎使法はやはり魔法で消された。消されることを想定して、魔法を使う隙を突こうと自ら飛び込んでいった。結果は言わずもがなだ。
その上この魔族は、上位種ならではの強力な瘴気を放っている。それが白兎にやりづらさを、特にその血のような瞳が苦手意識を植え付ける。何かの魔法をかけられたように、動きを鈍らせる。
そう、まさしく「蛇に睨まれた蛙」のような。
(これからどうする……?)
白兎にとって唯一の救いは、この少女が短いながらも詠唱しなければ魔法を発動できないらしいことだ。とはいえ、詠唱の合間を狙っての攻撃は先ほどのように回避される可能性が高い。
(もっとデカい隙があれぱ)
そのとき、耳と鼻が馴染みの気配を感じ取る。
「白兎、大丈夫っ?」
「お、おうっ!」
間もなく現れたのは、彼女が思い描いたとおりの三人。
異世界の匂いがする茶髪黒眼の少女の明るい問いかけに、つられて元気な声が出る。一応手傷を負ってはいるが、そう大したものでもない。ぐっと親指を立てて、声に応える。
あとの二人、ミリタムとラニアも既に臨戦態勢だ。
「魔法士~~!!」
ハイテンションな歓声がどこからともなく上がる。それまでいるのかいないのか分からなかった魔族・クラスタシアのものだった。
(あの野郎、どこにいやがったンだ)
白兎は思わず状況も忘れて、半ば呆れた眼差しを向ける。そんなことなど意に介さず、ぱっと顔を赤らめ、ぐっと脇を締めていかにも恋する乙女のようなポーズを取るクラスタシア。人間界の面々は全員顔面蒼白となるが、すぐに表情を引き締め直す。
「貴方と遊んでるヒマはないんだ」
今にも両手を広げて抱き付きそうなクラスタシアに、真面目な眼差しを向けるミリタム。
そう、これは遊びではないのだ。死闘と言っても過言ではない、命を懸けた戦闘。
そんな人間たちの強い意志を分かっているのかいないのか、クラスタシアは動じることなく、妖艶な笑みを浮かべてみせる。
「アタシもねぇ、心ない同僚のおかげでタイヘンなのよぉ。ホントは昨日みたく、今スグにでも駆け寄って抱きしめてあげたいんだけどそうもいかなくて……だから、」
不自然に切られた言葉に、怪訝そうに眉をひそめるミリタム。クラスタシアはただ、娼婦のように艶めかしく微笑んでいるだけだ。
だが、彼の瘴気がミリタムへと流れていることに気付いたのは白兎だけだった。
「ミリタム!」
「アンタの首から上だけ、頂いてくわ」
「――っ?!」
ちょうど同時に、風が強くなる。
その危険な宣言を実現しようとするかのように。
「救われよ同類・怨を持ちて滅びるがいい! 【滅獣】!!」
危ういところで碧の詠唱が響き渡った。
術名のみでも【滅獣】の威力が削がれることはないが、詠唱を加えればより強力な魔法となる。対獣用魔法ではあるが、魔族にも効果は期待できる。
碧の手のひらから飛び散った無数の光弾は、やがて目標を定めて爆ぜるだろう。
皆が勝利を脳裏に描いたとき、サイノアが動いた。と言っても、先ほどのように右腕を上げて手のひらを光に向けただけだったが――瞬間、全ての光が跡形もなく消失した。
突然の出来事に一斉に目を見張る碧たち。
(コイツ、無詠唱で……?!)
白兎は絶望感に苛まれ、悔しげに舌打ちした。
魔族の存在はお伽話となりつつある現在、人間界に住まう者たちにとって、魔法は詠唱ありきのもの。魔族が無詠唱で魔法を使用できるという事実は、ヤレンの伝記を読み込めばその記述があることに気付くのだが、貴族の中でもよほどの読書家でなければそれを目にすることもない。
故に、特殊な事例――とりわけ『半魔』という人間との混血種は、ある例外を除いて詠唱なしに魔法を発動させることはできないことも、一般には知られていない。
その例外というのが、サイノア・フルーレンス。
前魔王の血を引き継いだ影響か、幼い頃から低級魔族を無意識のうちに滅ぼしてしまうほど魔力が高かった彼女にとって、無詠唱で魔法を起動させることも不可能ではないのだ。
ただしそれにはやはり制約が付きまとって、ごく限られた、威力の小さな魔法しか発動することができない。
裏を返せば、詠唱しなくても【滅獣】程度は防げるとサイノアは判断したということになる。
それを知るはずもない人間たちは、ただただ驚愕するばかり。
(そういやアイツ、百砲二波を消したときも、こっちへのカウンターも、無詠唱だった)
百砲二波が消滅したことに気を取られて頭が回っていなかったが、あの時白兎の耳は誰の声も捉えていなかった。すでに手の内を見せられていたのだ。ギリ、と奥歯を噛み締める。
「貴方の相手はこちらよ、『結界女』。もっとも私は、貴方一人と戦う気は全くないのだけれど」
血のように紅い瞳を冷徹に細めて、碧を一瞥するサイノア。
まるで、その程度では相手にならないと言っているように。
「そこのおふた方。悪いけれど私と戦ってもらえないかしら?」
サイノアは碧から視線を外すと、白兎とラニアに声を掛けた。
「三体一になって卑怯だとか抜かさねェだろーな」
「構わないわよ。私の役目は貴方たちの相手をすることだもの」
涼しい顔で白兎の凄みを受け流す。
「あら怖い顔。でもこれだけは譲れないのよ。彼らを二人きりにさせてあげなさいな」
サイノアは碧から完全に注意を逸らしているが、碧がその隙に攻勢に転じる気配はない。それもそのはず、クラスタシアよりも強い瘴気をまともに浴びたのだ。見えない重圧で押さえ込まれ、動きたくても動けないのだろう。
「クラスタシアにとって貴方たちは微生物以下の存在。いいえ、生物とすら思っていないでしょうね。今だって彼のことしか眼中にないわよ。物好きなこと」
高位魔法の詠唱に入るミリタム。迎え撃つように手刀を繰り出すクラスタシア。
サイノアの視線を辿った先で、二つの存在が激突している。
「はっきり言わせてもらうわ。仮に貴方たちが私を倒したとしても、彼に勝てる確率はゼロ」
「……どうして?」
サイノアは思い出したように碧を振り返った。ようやく絞り出したのか、声が震えている。
「あたしはヤレンの生まれ変わりだから、あなたたちに殺されても仕方ないのかもしれない。でも他のみんなは関係ない。イチカだって……! どうして、関係ない人まで狙われなきゃいけないの?」
「関係が“ない”?」
碧の言葉を反芻し、意外そうに訊ね返すサイノア。
「惚けて言っているのかしら? それとも……本当に知らないのか」
詮索するような紅い瞳に怯んだ様子の碧だが、疑念を抱かれるようなことを言ったつもりはない、というのが本心だろう。
サイノアは暫し碧を、碧の瞳を見つめていたが、不意に「そう」と呟いて視線を逸らした。
彼女の眼にも、碧が苦し紛れの嘘をついた訳ではないと映ったようだ。
「予想外の収穫だわ。どうやら本物の結界女は、貴方たちに真実は伝えていないようね」
相変わらず感情のこもらない声質だが、どことなく弾んで聞こえるのは人間たちの気のせいだろうか。
「真実……? 何を、言ってるの……!?」
「お聞きなさい、哀れな迷い人。貴方とあのイチカという少年がこの世で出会ったのは偶然などではない。一つの大きな意思によって、不運にも巡り会ってしまったのよ」
初めて聞く事実に、碧はもちろん、白兎とラニアも驚きを露わにする。
魔族の、敵の言うことに耳を貸す必要はない。
心ではそう思うのに、耳は勝手に少女の無感情な声を招き入れる。
「貴方の前世である『結界女』。人間である彼女は浅はかなことに、同じく浅はかな私たちの同胞と恋に落ちた。けれど所詮は報われぬ恋情。だから彼女は生まれ変わりに全てを託したのよ。自分たちと違い、同じ種族で結ばれるように、とね。
そうして彼女は願望の赴くまま、魂を持ち別世界に生まれついた二人を巡り合わせた。いったいどんな神術を使ったのか、何故わざわざ危険の多いこの世界へ召還したのか、理解に苦しむことだらけだけれど」
サイノアがそれ以上説明することはなかった。これで分からないはずはないと思ったのだろう。
そして彼女の読み通り、碧たちは一つの答えに辿り着いた。
しかし、到底信じられるものでもなかった。
特に碧は、動揺を隠しきれない。
自らの趣向も、退屈だと思う感情も、その時期も、決められていたものだったというのか。
そして、「望んでこちらの世界に来た」はずの彼の立場はどうなるのか。
「まさか……でも、そんな……」
サイノアの瞳が、初めて面白そうに細められた。




