第九話 黒い瞳(1)
「……ィ……アオイ、アオイ! 朝よ! イチカに置いてかれるわよ!!」
「ぅん……?」
目の前にいたのは、長い金髪に薄紅色の瞳の美しい女性。
碧は一瞬誰かと思ったが、夢のような現実で出会った彼女の顔は、そう簡単に忘れられるはずがない。半分覚醒していない状態でも、瞬時に浮かんでくる名前。
「……あ、ラニアかぁ。おはよ~」
「早くしないと! みんなもう外に出てるのよ!!」
へにゃっ、と暢気に微笑む碧の肩を引っ掴み、前後に揺さぶるラニア。
それだけされても、碧の頭の中はまだ寝ていた。状況だけはめまぐるしく変わるので、与えられた情報を処理すべく渋々脳内も働き始める。
(どうしてラニア、こんなに慌ててるんだろ。えっと、なんだっけ。イチカに、置いていかれる……?)
昨日の出来事が急激に再生される。
友人たちに夢を否定された帰り道。光に呑まれ、荒野に放り出され。長年憧れていた漫画のような世界、出逢った少年たち。向けられた殺意。虚ろな瞳の男たち。襲い来る大芋虫。明かされた真実と、拒絶。
一通り思い出して、鉛が詰まったように胸が重たくなる。
(置いてってくれればいいのに……)
あんな殺意と憎悪を浴び続けるのはもう懲り懲りだ。ラニアがいるこの部屋は、あの宿の一室である。ということは、ここは引き続き異世界『アスラント』であり、碧は日本に帰れていないことを意味する。
朝起きて日本に戻っていなかったら、自ら別離を申し出ようと考えていたはずだ。
碧はやおら起き上がって、両頬を両手のひらで叩いた。目の前で瞳を瞬かせているラニアをしっかりと見て、口を開く。
「ラニア。あたしやっぱり抜け、」
――『離れることは勧めない。死ぬことになる』。
何者かの穏やかでない声が急速に再生され、血の気が引いた碧はその先を紡げなくなった。唇を「け」の形にしたまま固まってしまう。警告の後半が、事の重大さを突きつけるように永続的に頭の中で鳴り響き、冷たい汗が身体を滑り落ちていく。
(た、ただの夢だよ。きっと、もうちょっとファンタジーな気分に浸りたかったからあんな夢を見たんだ)
言い聞かせてみても、少しも説得力がない。自身を安心させるための思考はかえって不安を煽り、心臓を高鳴らせる。
「アオイ?」
「……なんでもない」
訝しげなラニアの視線に居たたまれなくなり、碧は渋々身支度を始めるのだった。
「おっ、来た来た。アオイー! 姉さーん!!」
宿の外では、カイズたちが地面に腰掛けていた。そのだらけ具合から「待ちくたびれた」と言われている気がして、碧は心の底から申し訳なくなる。
「ごめーん!!」
「師匠、来ましたよ……って早いよ師匠ーー!!」
ジラーが振り返って呼びかけるも、そこに姿はなく。
まさか、と視線を遠くへ投げれば案の定、イチカの後ろ姿が豆粒ほどの大きさになっていた。
「あ、兄貴ーーっ?!」
リーダーに追いつかなければという一心で、一行は一目散に銀髪目掛けて駆けていった。
慌ただしく出発した五人を笑顔で見送り、宿主は屋内へ戻っていく。次の客を迎え入れる準備が終われば、ひとまず彼女の仕事は終了だ。
一方、大部分の人々はこれから仕事である。店先の鎧戸を引き揚げる人、屋内から商品の入った木製荷車を引っ張り出す人、朝どれの野菜や果実を並べる合間、隣近所と雑談を交わす人――それぞれが淀みなく動き出す。もう少し日が高くなれば、客の呼び込みも始まるだろう。
さて、イチカに追いつくべく走りに走った碧たちは、区画をいくつか跨ぎ、街道に出るところだ。
先ほどの宿は郊外にあるため、イチカらが生活の拠点にしているウイナーの中心部へは三十分ほど歩かなければならない。
景色はと言うと、まばらに立つ樹木と澄み渡った青空ぐらいで、比較的都会で暮らしていた碧はあまりの建造物のなさに落ち着かない。
視線を戻すと、ラニアが前方を鋭く睨み付けている姿が目に入り思わず戦々恐々とする。
「ら、ラニア……? どうしたの?」
「あいつよ、あいつ。女の子を泣かせといて謝りもしないんだから」
イチカの後ろ姿にぶつけられた文句には、苦笑いを浮かべるしかない。
確かに碧の心は傷付いたし、出会ったばかりの相手にあそこまで目の敵にされる謂われはない。けれども、虐待、いじめ――壮絶な過去を背負っている彼が、それを少しでも想起させるような人間を目にしたときの心中は計り知れない。
だからといって、攻撃されることを受け入れたわけではない。他の三人のように打ち解けることも難しいだろう。
刺し殺さんばかりの眼力でありながら、やはり均整は保たれている美貌に碧は何度目かの憧れを抱きつつ、殺伐とした雰囲気を少しでも変えようと話題を振る。
「イチカ、いつ帰ってきたんだろうね?」
「あの後、わりとすぐに帰ってきたみたいよ。でも明け方近くにまた出て行ったって聞い――」
不自然に切れた言葉と、険しく眇められ横に流れた瞳。ホルスターに伸びる手。その理由を訊ねようとして、碧も気づいた。
自分たちを取り囲むように渦巻く殺気に。
「大勢だぜ」
「ええ。さっきから気配が増えてるとは思ってたけど」
側に寄りながらのカイズの言葉に、ラニアが頷く。ジラーもそう遠くない場所で武器を構えており、全員が臨戦態勢を取っている。
「二、三十人程度だ。だが……」
取り出していた剣を収め、何事か伝えるように視線を一方へ投じるイチカ。皆がその視線の行く先を追って、ラニアが悲鳴のような声を上げた。
「なっ……! マテリカ!?」
「シェスタ……ウィズさんまで……!!」
包囲していたのは、ウイナーの住民たちのようだ。碧以外の面々にとっては旧知の間柄らしく、特にラニアは幼なじみがそこにいることもあり酷く動揺している。
「おそらく誰かに操られている。逃げるぞ」
イチカは瞬時に判断し、勢いよく駆けだした。荒野に出没する鉤爪男たちとは微妙に違う瞳のくすみに気付いたのだろう。
一片の光もない淀みに支配されている彼らに対し、ウイナーの人々の瞳は僅かだが光が灯っている。それは、まだ自己を捨てていないという抵抗の証――すなわち自分の意思ではなく、他人の意思に従わされていることを意味する。
たとえ殺意を持たれても、それが他からもたらされたものならば無闇に戦うわけにはいかない。ましてやそれが仲間の友人・知人ならば尚更だ。
「追ってこないよな……?」
風景が一変するほどの距離を全力疾走して、ようやく立ち止まる一行。膝に手を当て中腰になりながら、ジラーが不安げに後ろを振り返る。ラニアやカイズも、戸惑いを隠しきれない様子で走ってきた方向を見つめる。
ウイナーの人々は行く手を阻むように立ち、捕まえようと手を伸ばしてきただけだった。振り払ってしまえばそれ以上の脅威ではないが、もし彼らが武器を持って襲いかかってきていたなら、おそらく今以上に精神的ダメージが大きかったことだろう。
「追ってこないとも限らない。あそこの小屋に入るぞ」
冷静に仲間たちに促し自身も小屋に向かおうとしたイチカだが、一瞬動きを止めたかと思うと、意外なことに碧の前に歩み出た。
「い、イチカ?」
狼狽する碧には目もくれず剣を抜いたかと思うと、切っ先を最小限ながら数度動かし、見えない何かを完膚なきまでに切り捌く。
直後、碧らが見たのは、イチカの足下に落ちている黒い羽根の残骸。ただの羽毛のようだが、よく見れば凶器になりかねない鋭い棘が幾つも生えている。
「あ……ありがとう」
イチカが庇ってくれなければ、あの羽根に刺されていたのは自分だった。そのことを想像し真っ青になりつつ驚きが先立つ碧はもちろん、他の三人も彼の行動に目を丸くしている。
「……勘違いするな。助けたくて助けた訳じゃない」
イチカは斜め上方を睨み据えたまま、無愛想に告げた。羽根が飛んできた方向から、生い茂る木々のどこかに射手がいるはずと読んだのだろう。二射目、三射目を警戒しているのだ。
一方の碧は、今尚命の危険に晒されていることに怯えながらも、まるで事情が変わったかのような彼の口ぶりに気を引かれる。
「どういうこと?」
「詳しいことは中で話す」
イチカは半ば押し込むように小屋へと誘導する。状況に変化が見られないことから、今のうちに比較的安全な屋内に逃げた方が良い、と判断したようだ。
開かれたドアの先に机や椅子はなく、ただただ木目の床が広がるばかり。その上、五人入れば窮屈なほど狭い。部屋の中央付近であぐらを掻くイチカを囲むように、腰を下ろす四人。
全員が座ったのを見計らって、イチカはぽつりぽつりと話し始めた。
時はそれから少し遡る。
木から木へと音もなく飛び移り、一行を追う黒い影があった。
(くそっ。朝からツイてない)
烏翼使忍者・烏女。俊敏な動きからは想像もつかないが、イチカらが宿を出たことに気付かずつい先ほど起きたばかりである。
しかし、『忍者』の名に違わず彼女の行動は早かった。寝起きとは思えないほどの判断力で、ウイナーの住民を手駒にしたのだ。
それを可能にしたのは、魔星にのみ生息する魔烏の羽根を特殊加工した笛の音。抵抗力の弱い人間の思考回路に侵入し、支配してしまう代物である。
「……さて」
幾本の木々を踏み台にしただろうか。標的を捕捉した烏女は枝の上で立ち止まり、髪に挿していた烏の羽根を手のひらに載せ、片方の手をかざす。
「死の烏翼」
その言葉を紡ぐと、手の上にあったはずの羽根が消えた。正確には、今し方彼女が発した魔法によって見えなくなったのだ。
口の高さまで手を持ち上げ、ふっと息を吹きかける。姿なき羽根は風を纏い、矢のように一直線に目標へ――焦げ茶色の髪の少女へと突き進んでいく。
少女もその周囲も気付いた様子はない。烏女は任務達成を予感し口角を吊り上げた。
「?!」
予想外の出来事に目を見張る。銀髪の少年がちょうど少女を護るようにその前へ踏み出したかと思うと、目にも留まらぬ速さで羽根を切り裂いたのだ。
(なっ……! 殺気と羽根の姿は完全に消えていたはず!! なのに何故気づいた……!?)
「ハッ。所詮てめえの実力はその程度ってこった」
後方から心の内を読んだかのような嘲笑が飛ぶ。この男は昨日も先ほど寝坊した際も雌豚と罵ってきた。烏女とていい加減堪忍袋の緒が切れる。
「なによ! ならあんたはできるワケ、クラスタシ……っ?!」
頭に血が上った烏女の挑発は、彼女の首に伸ばされた男の手によって強制的に遮断された。
「出来損ないの分際でこのオレの名を呼ぶんじゃねえ」
静かな、しかし隠しきれない侮蔑と怒りの声調が、手指の力を増していく。背丈の違いから、烏女の足が宙に浮く。
どうにか首に回された指を解こうと渾身の力を込めて引っ掻く烏女だが、圧迫感は一向に緩まない。それどころか一瞬、呼吸がままならないほど強く締め上げられて。
「ぐ……うっ……!」
「汚ぇ手で触んな。ったく、魔王様のご命令じゃなきゃへし折ってんのによ」
男が愚痴と同時に手に込めた力を急に抜いたため、華奢な身体が木の枝にすとん、と落ちる。
堪らず咳き込み、荒い息をしながら、烏女は男を睨み付ける。男は微かに傷が付いた手の甲を、嫌悪感を露わにして木の幹に擦り付けているところだった。
「このことがあの方に知れたらどうする気だ? クラスタシア」
その声は、烏女ではなかった。
男は表情から険を消し、新たに現れた影を見やる。
「ヴァーストか。魔王様に報告するか?」
「いいや、そんな気はないさ。オレはただ様子を見に来ただけだが……この有様か」
ヴァーストと呼ばれた男は、烏女を冷ややかな眼差しで見下ろす。
くすんだ抹茶色のマッシュヘアと水藻色の瞳。不健康そうな青白い肌。ほんのり暗く隈が載った下瞼。両頬に二つずつ刻まれた古い切り傷。そして横に大きく尖った耳。淡い緑のローブを纏ったその存在と烏女の間にもまた、埋めようのない温度差が見受けられる。
「っ……まだ失敗したと決まったワケじゃない!」
「どう取ろうが個々の自由だが……二度目はないと思え」
声を張り上げて反論する烏女に一瞥を投げ、ヴァーストは霧のように消えた。
「あー汚ねえな……オレも帰るとするか」
またもや悪態をついているクラスタシアと呼ばれた男。烏女の首を絞めた方の手のひらを忌々しげに見つめた後、木の上から音も立てず飛び降り、眼にも止まらぬ速さで走り去った。
「くそぉっ!」
あとに残された烏女は拳を木に打ち付け、血が滲むほど唇を噛みしめた。自身の無力さを嘆くかのように。