第七十六話 刹那の咆哮(2)
瘴気はなかった。殺気も、人の気配すらもしなかった。
それなのに、その声は聴覚を経由して脳に直接響いた。
あれだけ警戒していたのに。あれだけ自信を持っていたのに。
まだ魔族だという確証はなかった。大層鍛えられ、気配を無くすことのできる人間がいてもおかしくはない。いつかの暗殺者のように。
「……連れが日射病で倒れちゃったのよ」
「あら。それはお気の毒に」
その声に感情は皆無だった。「気の毒に思っている」という体を装っただけの、ただの『作られた』声。意味すら知らずに使っているのかもしれない。
真に感情がないとは、こういうことなのだ。吹き荒ぶ嵐に晒されているような恐怖。
ラニアの身体から溢れる汗は、いつの間にか冷や汗になっていた。
「良いところ、教えてあげましょうか」
ぽつりと少女――声の高さと口調から判断して――が言った。
良いところと言う割には、あまりにもその声色は冷たい。
「へえ? どんな?」
挑発的に訊ねた。
おそらく後ろの少女は魔族であろう。確信めいた思考が過ぎる。
二言ほど会話しただけだ。まかり間違って相手が人間ならば相当に失礼な発想をしていることになるが、この勘に関しては外れない。そう思った。
ちらりと腰に備えた銃を確認する。そして、意を決して、振り向いた。
血のような赤色が、最初に映った。
暑さを象徴するような色なのに、感じたのは雪山にいるような戦慄。
「みんなで一緒に行けるところよ」
初めて殺気を感じ取った。
反射的に身構え、距離を取るが、闇はもうラニアを絡め取っていた。
「【願わくば、汝の力此処に】」
少女の唇が薄く弧を描いた。
極暑の空が黒い波に呑まれ、消えていく。
そこから現れたのが灰色をした龍だと分かったときには、鋭利な牙が目前に迫っていて――
「【塞】!!」
来るべき衝撃を覚悟し反射的に閉じた瞼を、ゆっくりと開く。
引き裂かれたような痛みはない。むしろ、温かな何かに包まれているような感覚を覚えた。
(毛布みたい……)
一瞬だけ筋違いなことを考える。
眼前にいた灰龍は弾き飛ばされたのか、あまり離れていない所で横たわっていた。
「貴方が『結界女』ね」
両手を突き出して神術の構えを取る碧を見て、冷気を纏った少女が呟いた。
訊ねる、というよりは自分で確かめるような口調だ。
「成る程生まれ変わりだけあって神力は絶大ね。その若さでよくやる、と褒めてあげたいところだけど」
抑揚のない声の一つ一つから例えようのない重圧が伝わってくる。
可憐な見た目と声に惑わされそうになるが、言葉だけでこれほどの恐怖と威圧感を与えてくる相手はそういない。
だからといって、恐れてばかりはいられない。
真紅の瞳、輪郭に沿う顎までの金糸、灰色の龍。
紛れもなく、碧とイチカが夢で見た少女だ。
それも、ヤレンとその恋人を手に掛けた、高レベルの魔族。
「その結界じゃあ彼らを防ぎきることは出来ないわよ」
少女の双眸が妖しく輝き、再び周囲が凍てつく。
ラニアを護る結界に亀裂が入ったのも、それと同時だった。ぴしり、と耳障りな音が響く。
天が黒く渦巻き、今度は五つの影が垣間見えた。生温い風を纏って、一斉に降りてくる。
結界が砕け、無防備となったラニアへと。
「ラニア!!」
「任せな! 【兎使法・白ノ発】!!」
叫ぶ碧の横から飛び出す白い影。
両手に溜めたエネルギーを引き延ばし、力任せにぶつけると、最もラニアに接近していた二匹に直撃した。鳴き声を上げ、のたうち回っている。他の三匹は予想外の襲撃に怯んだのか、一瞬動きが鈍る。
「ッしゃあ! 次来い次ィ!!」
ぐっと拳を握りしめる白兎は、その僅かな隙を逃さず二匹、三匹と打ち倒していく。
「白兎すごーい!」
「コイツら見てると無性に腹が立ってくるからな!」
対ヴァースト戦での話であろう。巫女の森で碧がヤレンから神術を伝授されている間、黒龍を相手取ったという。そこまでは武勇伝で済んだ。問題はその直後、魔が差してしまったのかヴァーストからの勧誘に応じかけたことだ。危うく袂を分かつところだったし、何より嫌悪感を抱いていた相手に付こうとしてしまったことが彼女自身許せなかったようだ。
当時の顛末を後から耳にした碧はなんだか申し訳なく思い、それ以上褒めることはなかった。
表向き有頂天な白兎は、難なく灰龍を片付けていった――ように思えたが。
その真後ろに巨大な黒い影があった。
白兎は未だ気付かない。
仲間に迫った二度目の危機に、碧は結界を張ろうと試みて。
銀の軌跡が弧を描く。
イチカだ。
間近に聞こえた断末魔でようやく気づき、白兎は驚きを隠せないでいた。その気になれば兎族の聴力さえも欺けるのだろう。やはり油断は禁物だ。
「あらあら」
灰龍が倒れても眉一つ動かさなかった少女が、その光景を見て呆れたように呟いた。それさえもどこか感情が乗っていないのだが。
「いいのかしら、あの子の側を離れて?」
少女の声はイチカに向けられているようだった。真意を探るように視線だけを少女に向け眉をひそめる刹那、短い悲鳴が上がる。碧に二匹の灰龍が迫っていた。
上空にはまだ黒い渦がある。これが魔星とアスラントを繋ぐ橋のようなものだとすれば、何匹出てきてもおかしくはない。
ラニアのときと同じだった。結界が頼りなげに割れる。酷く微かな音。
唾液を垂らした灰龍がその身に牙をむく。
――間に合わない。
イチカは無我夢中で走りながら、自らの内に浮かんだ悪い考えを必死に取り消す。
必死に、必死に――。
【なんでそんなに必死になる?】
誰のものかも分からぬ声が、突然脳裏に響いた。
一度も聞いたことのない声だ。
否。たった一度だけ、聞いたことがあった。
【お前にとって、あのコは何だ?】
(……護れと言われた。だから護っている)
【そう決めたってか? 護れ、って言われてイヤイヤやってんだろ?】
かつての白い少女とのやりとりを知っているらしい声に疑念を抱かないではなかったが、それよりも向けられた問いに答えなければならない気がして、イチカはつらつらと胸の内を語る。
(そうかもしれない。だが、約束を反故にしたくない)
【カーッ! やめちまえよ、そんなモン。要は単なる自己満足じゃねえか】
吐き捨てるようにその声は言った。馬鹿馬鹿しいと言わんばかりの口調だ。
(『自己満足』か……)
そうだと言われれば、きっとそうだろう。ただの正義感と言われても、否定はできない。あの時はただ、白い少女にかつての自分のような思いをさせたくなかった。
それに、生まれ変わりだからというだけで命を狙われる。そんな理不尽さから彼女を護ることで、自己の存在証明になり得たのも事実だ。
だが、それの何が悪いのか。
(――おれは、)
多くの時間は要らなかった。
イチカの手が、標的を葬っていた。
凶暴な口を切り落とすように、刃を振るう。
まるでその瞬間だけ、人格が入れ替わったように。
灰龍へ駆けたとて、間に合わない距離。明らかに、灰龍が碧を食い殺す方が早い。その場の誰もがそう思ったことだろう。
それが、どういうわけか全滅している。
「おれは、」
赤黒い血が顔に吹き付けるのも構わず、イチカはどこともしれぬ方向を見据える。
「誰が何と言おうとおれの信念で動いている。口出しするな」
敵か、味方か、そんなことはどうでもいい。ただ、伝えておくべきだと思ったから、イチカはそれだけ告げた。
声はもう聞こえなくなっていた。
碧は、目まぐるしく変化する状況に追いつけていなかった。ただ、身体だけは恐怖心が抜けず、震えが止まらない。座り込んだまま立ち上がれそうになかった。唯一の救いは、黒く渦巻く空は健在ながら、灰龍の姿が見えないことだろうか。
「万策尽きたッてか?」
イチカに助けられたことは棚に上げて、あくまでも強気に少女を挑発する白兎。少女の表情には揺らぎ一つない。不気味な静寂が続く。
「いいえ。少し驚いてしまっただけ」
少女は感情のこもらない声で返す。
「けれど、これではっきりしたわ。貴女たちは可及的速やかに処分しなければならない。回りくどいことは終わりにしましょう」
静かな声調とは裏腹に、右手を突き出した少女の殺気は今までの比ではない。異常な瘴気が満ち溢れ、世界を覆い尽くす。
灰龍か、いや、灰龍以上の殺気や瘴気が襲いかかる。
少女の背後に異形の影が立ち上がる。
――来る。
誰もがそう思い、構え。
突如、その瘴気は跡形もなく消えた。
イチカも、碧も、ラニアも、白兎もミリタムも目を疑った。
一番動揺したのは、おそらく少女であっただろう。僅かに見開かれた瞳、その視線が自身の右手に注がれている。
少女の右手の甲に、もう一つ別の手が重なっていた。
「ふー。ギリギリセーフみたいね」
少女の手をそのまま後ろへ引きながら、重ねられた手の主――クラスタシアは緊張感なく微笑んだ。




