第七十五話 刹那の咆哮(1)
「あー」
鬱陶しい季節というものがある。
特に、じめじめと湿潤な『梅雨』や『夏』、『秋』の入り口はそれに当たるだろう。
「あーー……」
他方、『秋』が深まれば紅葉し、質素な風景を鮮やかに彩る。多少、肌寒くはなるが、そこは多欲の季節。気がつけば通り過ぎていた、というのはよくある話だ。
音もなく軽やかに降り積もる結晶は、『冬』の訪れを告げる代表的なものだろう。繊細で儚げでありながら、その白い粒は一夜にして地表を埋め尽くす。広がる銀世界を前に、何らかの感慨を抱く者も少なくはない。
しかし前述の通り、鬱陶しい季節は『梅雨』。もしくは『夏』が主流であって――
「なァ。今一番言いたいこと言っていいか?」
「言うな。余計鬱陶しくなる」
「ンなこと言ったッてよォ。我慢ならねェぞ、これは……」
率直に、暑いのであった。
アスラントにも四季はある。といっても、日本のように『春夏秋冬』という概念はない。
一年のほとんどは、その人その人に合った気候、というのがアスラントの特徴的な気象なのだが、一年に二度、そうもいかない時期がある。
日本の言葉で言えば『真夏』と『真冬』。そして今、アスラントは『真夏』。
暑い者には暑いのである。
「一番涼しそうな奴が何を言う」
特にイチカは全身甲冑の重装備とまではいかないまでも、胴体を覆う丈夫な鎧を身につけている。鎧は外そうと思えば外せる仕様になっているが、結局持ち歩かなければならないし、かえって危険を被る。汗を掻こうがムレようが痒かろうがどうにもならないのである。その点では、軽重はあれど鎧なるものを着ているイチカと碧は我慢している方であった。
「兎族はなァ……年中涼しいトコに住んでンだ。そりゃ普通の平地に比べりゃ寒いかもしれねェけどな、アレだ、雪が好きなんだよ。ガキなんかは毎年雪が降ると、外で騒ぎやがンだ。要するによォ、寒いのが好きッてことだ……」
「逆にうっとーしいと思うのはあたしだけかしら?」
イチカは答えない。しかし、その無言こそが端的な肯定であることを悟ったから、ラニアはそれ以上追及しなかった。
素直に「暑い」と言わせればよかったのだ。
もっとも、どちらにしろ士気は下がっただろうが。
「ミリタムを見ろ。お前よりはるかに厚着をしているのに、文句一つ言わない。少しは見習え」
イチカの後ろ、碧の前。
ミリタムはただ黙々と歩いていた。
上から下まで陽光の熱を吸収する濃紺のローブ。当人の髪型もお世辞にも短いとは言えないものだ。光合成でもしていそうな緑の髪は、規則正しく左右に揺れている。
さすがに心配になってのぞき見た碧だが、「あ、大丈夫そうだ」と即座に思い直した。息を呑むほど凛々しい表情だったのだ。それこそ、これまで見たことがないような達観した顔だった。
力強く、力強く地面を踏みしめる。今ここを歩いているぞと言わんばかりの、力強い足取りだ。
頼もしい限りだ。誰もがそう思い、期待した直後。
突然その重心がぐらつき、つんのめって、頼りなげに顔面から地面に伏した。ぴくりとも動かない。
ただ、それがあまりにも突然の出来事であったため、皆すぐには気付かなかった。最後尾を歩いていた白兎が倒れたミリタムのローブを踏んづけて、ようやく理解されたのである。
勇者は倒れた。『真夏の直射日光』という大敵によって、戦闘不能に陥ったのだ。
「ミリタムがぶッ倒れたーー!!」
「どっ、どどどどーしようっ?!」
「運べ! とにかく近くの日陰に運べ!!」
それまで水気のなかった渇いた大地に、程なくして雀の涙ほどの汗が染み込む。
どうやら有名魔法士一家のご子息は、やせ我慢をしていたらしい。
皆が――一部、例外もあったが――弱音を吐くことなく堪えている。そんな中で自分だけ音を上げてしまっては悪いと、あくまで平静を装っていたのだろう。
じりじりと刺すような熱気は今、ほんの少し前に出てきたものではない。かれこれ二、三時間は歩き続けていただろう。よく今まで持ち堪えたものである。
それが本当にただのやせ我慢なのか、貴族の意地なのかは知る由もない。
「そりゃ、あれだけ分厚いローブ着て歩き続けてれば、そうもなるわよ」
あたふたしている他の三人を木陰から涼しい目で眺めつつ、ラニアはそう呟いた。
実際はここまで冷静になれるほどの気温ではない。人間の体温に迫る勢いの、蒸し暑い空気。
肩に掛かる金髪を億劫そうに手で避け、熱を放出するように溜め息を吐く。それまでの動作の最中でも、容赦なく噴き出し、流れる汗。
(気持ち悪いったらないわ)
げんなりしながらも、ラニア自身気は張っていた。
それは他の仲間も同様だろうが、倒れた魔法士に動揺し、普段ほど警戒しきれていない。敵側からすれば、これ以上の隙はない。
だからこそ、隙を突かれないよう、いかなる状況であろうと最低一人は冷静であり続けることが必要なのだ。
ここ数年、その役目は自然とイチカが担っていたため、ラニアは内心拍子抜けしていた。とはいえ、嬉しくもあった。
何が起ころうと表情一つ変化しなかった彼が、あれほど感情を露わにしている。三年前ならば想像もつかなかったことだ。
(あの子のおかげ、かしらね)
顔を覆えるほどの広さの葉をミリタムに向けて扇ぐ、異世界から来た少女にちらりと目をやる。
出会い頭に殺そうとしたことはいただけないが、同じ世界の、違うタイプの人間に接することで、良い刺激を受けたのかもしれない。本人は絶対に認めないだろうが。
今のところ、魔族特有の瘴気も、殺気もない。
とは言え、聖域にすら侵入できる魔族もいる。いつ現れてもおかしくはない。
それでもひとたび瘴気を感じ取れば、一発くれてやるくらいはできる。
ラニアにはそれくらいの自信があった。
幼い頃、亡き父に嫌々教え込まれた射撃は、今や彼女の誇りであった。
そう――
お調子者の父と、穏やかな母。
剣士になるという志を貫こうとしていた弟。
優しく、身体的にも精神的にも強かった家族。
彼らの仇を討つために存在していると言っても過言ではない。
魔族は、碧とイチカだけの敵ではない。あの日、家族を殺されたあの時から、ラニア自身の敵でもあるのだ。
「何か困っているみたいね?」
「――っ!?」
真後ろで声がした。
一瞬、呼吸が止まる。思い出したように速まる拍動が、自らが生きていることを教えてくれる。死を覚悟するくらいには、対処が間に合わない距離だった。
疑問形だというのに感情のこもらない静かな声質が、ただの気まぐれで生かしているだけだと伝えてくる。
振り向かなければ、という覚悟と、振り向いてはいけない、という叫び。
全く異なる二つの決意が共存していた。




