第七十三話 闇の胎動(1)
心の内を吐き出す方法は、多岐にわたる。
そのまま口に出す、いわゆる愚痴。
泣く・怒るといった感情表現。
あるいは黙々と運動に励む、食べる、睡眠を取るなど、無関係な事柄で昇華させてしまう方法もある。
いずれにせよ、普段どおりのまま、不満や苦しみを外に出せる者はなかなかいないであろう。
そして、何一つ行動を選択しないまま内に溜め続ける者もまた、ごく少数であろう。
吐き出せないのだとすれば、それ相応の理由があるからだ。
大っぴらにするには躊躇われるような、大きな問題が立ちはだかっていて、笑うことも叶わなかった、というような何かが。
「あっはははははは!! はっ、は……」
「はははっ、はぁっ、はぁっ……」
「いつまで笑っている」
「安心して。もう笑い疲れたわ」
腹を抑えながらのラニアの発言に引っ掛かりを覚えたものの、具体的にどう引っ掛かったのかを説明できないため、イチカは黙認せざるを得なかった。
その代わり、発想の転換に尽力した。
これだけ笑えるような時間はこの先数秒もあるか分からない。
ならば、大切な仲間たちが「笑いたい」と思ったときにこそ、黙って見守っていよう。この瞬間が、いつか振り返った時に「かけがえのない思い出」として胸に刻まれるだろうから――。
と、できるだけ自分に言い聞かせる。
正直なところ違和感しかないが、それはそれである。『大切な仲間』というフレーズは間違ってはいないのだ、一応は。
涼しい顔の向こうで、静かに自分自身と戦っているイチカの横。
仲間たちが落ち着いたのを見計らって、碧は改めて夢の続きを説明した。
「で、夢はそこで終わってたんだけど……イチカも同じ?」
頷く姿を確認し、確信を新たにする。
「何か理由があるんだと思うの。二人も同じ夢を見たんだよ? それにヤレンが出てきてるし。何か伝えたいことがあるんだよ、きっと」
何人かが「同じ夢」の部分で吹き出しそうになっていたが、イチカが一睨みしたことにより冷や汗を垂らして瞬時に固まった。蛇に睨まれた蛙のごとしである。
碧の言葉に賛同し、頷く者もいた。そのうちの一人、ラニアが挙手する。
ただし、あまり真剣な顔ではなかったが。
「二人でもう一回寝てみたらいいと思いまーす」
「!? らっ、ららら……!!」
突拍子もない意見に顔を紅くし、口を意味もなく開閉させて抗議の意を表する碧に、ラニアは心なしか不服そうな顔をする。
「あたしはマジメに言ってるのよ? せっかく【思考送信】があるのに使ってこないってことは、“夢でしか伝えられない”ってことなんじゃないかしら? もうちょっと遡れるなら遡って、できる限り情報集めた方がいいんじゃない?」
「そうかもしれないけど、なにも一緒じゃなくても……」
「アオイ、あたしは“一緒に”なんて言ってないわよ? もう一回寝てみたらって言っただけよ?」
どこか意味深な笑顔を浮かべるラニアを見て、勘違いをしていたことに気付き顔が熱くなる碧。もっとも、ラニアの方もミスリードを狙っての発言だろうから質が悪い。
反射的にイチカを見るも、いつも通りの表情。
反発するわけでもなければ、恥ずかしそうに頬を染めることもない。彼が何か発していたとしても、「くだらん」の一言で片が付いただろう。
(いいなぁポーカーフェイスって)
と、別の意味で感動する碧だった。
「イチカ、そのままでいて」
どこへ行く素振りもなかったが、引き留めるように立ち上がったのはミリタム。そのまま彼の所へ歩み寄り、右手をイチカの骨折部分にかざす。
真摯な表情がやがて深刻なそれに変わり、仲間たちは心配そうにその様子を見守る。
しかし、彼が呟いたのは、一行の予想に反した全く逆の言葉で。
「腕、もう完治したんだね」
「嘘っ?!」
どよめきと喜びが入り交じったような声が沸き上がる。
視線は一気に張本人へと――イチカへと注がれる。
一斉に幾つもの視線を受け、彼にしてはいつになく気まずそうに口を開いた。
「実は……お前たちがレクターンに行っている間、暇で……悪いとは思ったんだが素振りをしていた。その時にはもう支障はなかった」
「へぇ。“暇で素振り”? ふぅ~~んそう」
オウム返しするミリタムの目は、誰から見ても据わっている。「怪我人は絶対安静って言われてたでしょう」と碧色の瞳は語っていた。
それを理解したから、イチカは少しばつの悪そうな表情を浮かべ、一言「すまん」と呟いた。
「まあ、別に構わないけど。貴方の治りが悪くなって悲しいのは僕じゃないし」
言って、「ね」と碧に視線を投げるミリタム。彼に倣うようにイチカ以外の視線が向けられ、皆の視線の行く先に気づいたイチカも不思議そうに碧を見やる。
全員の視線が集中し、いよいよ碧は叫ぶように取り繕った。
「み、みんな悲しいよっ!」
顔を真っ赤にして抗議する姿に、イチカを除く五人は揃って苦笑するのだった。
話題は変わり、出発の日程について話し合う。
カイズとジラーは共に旅には出られない。それを悔しく思う一行だったが、悲しみに暮れることはなかった。
きっとまた、七人揃う日が来ると信じていたから。
再旅立ちは翌朝。二人の力強い見送りを受け、宿を発つ。
もう後戻りはできない。昨日のあの笑顔は大切にしまっておかなければならない。
行く末には、残りの魔族との戦いが待っているのだ。
「兄貴、みんな。もし死刑になったら、オレらの武器形見に持っててくれな」
「お願いします」
どことなく殊勝な面持ちのカイズと、深々と頭を下げるジラー。
普段の雰囲気とは真逆の様子に戸惑う一行だったが、そこに一歩踏み込んだのはラニアだ。
「なにバカなこと言ってるの! 死刑になんかならないわよ!」
「そうだよ! みんなちゃんと分かってくれてたよ! だから……そんな悲しいこと言わないでよ……っ」
「ほら見なさい! あなたたちが弱気だからアオイが泣いちゃったじゃない」
「ぅえっ?! わ、わりいアオイ、そんなつもりじゃねえんだよ!!」
「カイズが全面的に悪いなぁ。あんまりリアルな話持ち出すから」
「ちょっと待てジラーお前なあ! お前だって“お願いします”とか深刻そーに言ってたじゃねーかっ!!」
「カイズのバカもう知らない……!!」
「やっぱオレのせいなのーー!?」
(楽しいなあ)
最初は確かに泣きそうだった。
でも、そんな気持ちはどこかへ飛んでいってしまった。
今はただ、この朗らかな空気に浸っていたい。
みんなの笑顔が満ちていて、楽しい。
まるでずっと前からの親友のように、笑い合える空間が大好きだ。
「なんだアオイ、笑ってるじゃないか」
ジラーの言葉に「嘘?」と慌てて碧の顔をのぞき込むカイズ。
「えへへ、ごめん。ちょっとお芝居しちゃった」
「むっちゃくちゃ心臓に悪かったんですけど……」
これから判決下るのにさぁ、といじけたようにカイズが呟くと、誰からともなく笑い声が上がった。
数日前には無かった笑顔がそこに咲く。
打算的でも、無理やりでもない。誰もが、心の底から嬉しさが溢れるような自然な笑顔を浮かべていた。
「骨ぐらいは拾ってやる」
「えええーー?!」
ただ一人、笑うことも声を上げることもなく黙って傍観していたイチカが、唐突にそんなことを言い出したものだから、困惑の空気が漂う。
「冗談だ」
「お前、冗談とか言えたンだな」
無表情のまま放たれた呟きへの白兎のツッコミが、皆の心情を代弁していた。
「万が一死刑になったら……おれがどんなことをしてでも覆す」
「兄貴ぃ~~……」「師匠ぉ~~……」
真剣な眼差しとその響きに、じぃぃぃん、と感動する二人。やがてカイズもジラーもぴんと手を挙げて、元気よく手を振る。
そんな二人に微笑みかけながら、一行は宿を後にしたのだった。
自分ではない何かになりきるのは、そう簡単なことではない。
一時だけならまだしも、それを維持し続けなければならない事情がある場合、慣れるまでには相当に苦労することだろう。
しかし、ある日を境に、それまでの困難が嘘のように板についたことを実感できる。
そして、なりきった状態が常に続いていれば、本当の自分がどちらだったのかさえ分からなくなる。
たとえそれが、自分自身嫌っているものだとしても。
「これで本当に男なのか、甚だ疑問だな」
「ほっといてちょーだい」
声の方は見ないまま、不機嫌に返す。
実際、鏡の前で真剣にポニーテールを結う姿は、『彼』が嫌う女そのものだ。
「で、何か用事あり? ソーちゃん」
彼――クラスタシアは振り向きもせず訊ねる。
鏡に鱗の鎧が映っているから、というのもあるが、それ以前にソーディアスの気配を感じ取っていただろう。
彼らにとって神出鬼没というのは、まさに日常茶飯事なのだから。
「“臨時集会を行う。半刻後には集合していろ”。グレイブ殿からの伝言だ」
「はぁ? 臨時集会って、いつも臨時みたいなモンじゃない」
依然思い通りにならない髪に苛立ちながら、クラスタシアが文句を垂れる。
仲間でつるんで行動する魔族はあまりいない。魔族は基本、単体で行動するのだ。
無論、一隊ではあるが、『フィーア・フォース』の者たちもその傾向が強い。
故に魔王は、部下たちの一人を【思考送信】――奇しくも巫女のそれと同じ名称・用途である――で呼びつけ、伝言を伝えさせる。
どこにいて、何をしているのか分からない仲間たちを呼び寄せるのにかかる時間は計り知れない。
その意味も含めて、『定例』とは言わず『臨時』で通しているのだ。
入隊時から常々そのことは伝え聞いているはずだが、クラスタシアの沸騰した頭の中からは抜け落ちてしまっているらしい。
「とにかく半刻後だ、今回の召集は遅れるなよ。敗戦続きで気が立っておられる時に、火に油を注ぐようなことだけは避けておくべきだ」
「はいはい心得てますー」
あまり心得てなさそうに返事をする。
先日の報告時といい、どうやらクラスタシアは遅刻の常習犯らしい。その理由の大半は今回の通り髪型に時間をかけているからか。どこか絶対的なものにはルーズである。
ソーディアスはそれだけ告げると、用事は済んだとばかりにくるりと踵を返した。
――否。
「それと、」
室内の空気が一変する。立ちこめるそれは、紛れもない殺気。
空間ごと切り裂くような瘴気が、中途半端な殺気ではないことを物語っている。
二つの軌跡が、瞬間とも言える速さで弧を描いた。
それに相対するように、研ぎ澄まされた刃のような直線が迎え撃ち、かち合う。




