第七十一話 追憶の彼方(1)
愛などという言葉では足りない想いがあった。身体中の細胞が音を立て、硝子細工のような心は脆くも崩れ去る。
何者も、取り替えられない。それほどに。
「申し上げます。我らが同胞ヴァースト・マレイが、『結界女』一行に敗れました」
人であれば誰もが居心地の悪さを感じるような、陰湿な空気。
漆黒の闇ですら霞んでしまいそうな暗然とした部屋に、二つの存在があった。
姿形は人間のそれだというのに、彼らから発せられる気は禍々しい。
魔族だけが持つ邪悪な気――すなわち『瘴気』は、彼らが人ならざる者たちであることを端的に表している。
そして、建てられた日も目的も、全てにおいて不詳なこの古城もまた、奇怪な雰囲気を漂わせている。その同調具合は、まるで彼らの為に建てられた城であるかのごとしだ。
近すぎず、遠すぎず、二つの距離は保たれていた。
ひとつは、四角く切り取られた壁を背に置かれた金地の王座に座し、もうひとつはその目前で淡々と報告している。
どちらの年齢も二十代半ばほどのように見えるが、はっきりと特定することはできない。
「そうか……」
玉座に腰掛けている男が、短く遺憾の意を表する。
物憂げな表情を引き立てるような、緩くウェーブがかった金髪。
深い、紺碧の瞳は暗く淀み、どこかやつれているようにも見える。それがその齢にヴェールを掛ける一つの要因なのだろう。様々な角度から見れば老いても若くもなる。
髑髏の鎧に身を固めたその男は、俗世間の人間が恐れる、いわゆる『魔王』である。
「聖域に侵入する、というのは『忍獣』を持つヴァーストならではの作戦だ。敵を二分し、脅威となる魔法士を先に片付ける。獣人がいたというのは予想外だとしても、奴らはかなり苦戦したはず。何故敗けたのか……」
魔王は両手を組み、その上に額を乗せて項垂れる。
獣配士は、従えた獣の特性を最大限活かすことを使命としている。それが自らの力を示すと同時に、主と認めてくれた獣への敬意を表すことにも繋がるからだ。
ヴァーストがミリタムらを襲撃する際、瘴気に反応する聖域の結界すら潜り抜け、人間たちをあと一歩の所まで追い詰めることができたのは、姿と気配を無にできる『忍獣』の力があってこそだった。
魔王としては、その能力ゆえ見つけることすら困難な獣を従えた彼が、人間の子ども相手に後れを取るとは到底思えなかった。
「聖域には『裏切り者』『結界女』の双方を封印してあると聞きます。どのような仕組みかは分かりませんが、そのことがかえって、我々の気配を敏感に感じ取れるよう作用した可能性はあります」
相対するもう一つが、冷静に分析する。
腰まで届く濃紺色の癖毛を白布で無造作に束ね、鱗の鎧を身に纏った男である。
左右に一本ずつ計二本の剣を帯刀しているその姿は、一見すれば普通の人間とさして変わらないだろう。
しかし、人間界では無名であっても、彼らが住まう魔星において、その男は『二刀流』の使い手として名を馳せている。
「済まないな、ソーディアス。手間を掛けさせた」
いえ、と濃紺の男――ソーディアスは短く否定した。
「いずれにしても不慮の事故です。ヴァーストの作戦はほぼ完璧だった。条件が合えば二つ分の首を持ち帰っていたでしょう」
「そうとも限らないわよ~~?」
唐突に響く、その場の空気にはそぐわぬひょうきんな声。
それまでいなかった者が急に現れれば多少なりとも驚くものだが――魔王もソーディアスも、ただゆっくりと声の主に目をやっただけであった。
「クラスタシア」
ソーディアスが呆れたように仲間の名を呼ぶ。
女のような風貌と名前に惑わされた者は、魔星でも人間界でも後を絶たないらしい。
彼女――否、彼はたおやかに、いかにも不服そうな表情を浮かべた。
「予想通りのリアクションでガッカリだわ。たまには驚いてくれたっていいんじゃないのぉ? 『わぁ! びっくりしたなぁ!』とか」
「生憎と、おれたちはそれに慣れてしまってる。今更驚けるはずがない」
人間じゃあるまいし、と皮肉混じりに言い捨てる。
とりつく島もないソーディアスに、クラスタシアはちぇっ、といじけたように舌打ちし、思い出したように魔王に対して軽く一礼する。
「クラスタシア。先ほど“そうとも限らない”と言ったな。それはどういうことだ?」
魔王の真剣な眼差しを受け、人差し指を唇の真下に当て、視線を斜め上に向けるクラスタシア。
「んー。そう言えば、まだ魔王サマとソーちゃんに話してないことがあったのよねぇ。ヴァーストを【千里眼】で見てたんだけど、途中で銃弾受けて。そしたら、信じらんないんだけど……アイツの顔を護ってた『闇蜥蜴』が死んじゃったのよ~~」
世間話でもしているような軽い口調ではあるが、魔王もソーディアスも目を見張った。
『闇蜥蜴』とは、『忍獣』と同じく魔星に住まう生き物である。
以前ヴァーストがミリタムにけしかけた黒龍の配下にあたり、魔族の階級で言ってもまずまずのランクに位置する。
「仲間内にそのような手強い銃士がいるとは……」
重い溜息と共に、これ以上無いほどの落胆を示す魔王。人間相手に手こずっているという事実が、焦りとも苛立ちともつかぬ感情を生み出したのだ。
「そいつの外見は?」
「知らなぁい」
「……要するに女か」
見ていたと言っているにもかかわらず「知らない」ということは、口にも出したくないのだろう。そっぽを向いてしまったクラスタシアに呆れた眼差しを向け、ソーディアスは作戦を練り始めた。
元々『一魔王の僕』の参謀的役割はヴァーストが担っていたが、今はいないためその穴を埋める必要がある。ソーディアスは若いが知略に長けている。任せきりにしても問題はないだろう。
そんな部下を後目に、魔王は新たな感慨にふける。
こちらの世界では、あと半年も経たないうちに雪が降る。それまでにこの遠征が終われば、想いを断ち切ることができるだろう。
終わらなければまた、自らの選択を悔やみ、『彼女』を想い続けるのだろう。
自己満足ではない。だが善心でもない。今思えば本当に、気まぐれだった。
こんなにも大きな存在になるなど、思いも寄らなかったから。




