第七十話 記憶(2)
自分ではない誰かのことなのに、見せつけられたその光景は酷く鮮明で。
例えるならそう、何かに噛み砕かれていくような感覚。
それ以上考えていられなくて、死にものぐるいで藻掻いて、藻掻いて。
ようやく光を見つけ、そこに飛び込んでいく。
イチカの目に映ったのは、必死だった名残か、高く上げられた右腕。
荒い息。汗ばむ身体。まるでその夢の全てが自分に起こった出来事だったかのように、身も心も疲れていた。
あれは夢だったのか。それとも、本当に起こったことなのか。
目が覚める直前に殺されただろう女は「ヤレン」と呼ばれていた。姿形は以前『巫女の森』で出会ったヤレンそのものだった。ということは、おそらく同一人物で、現実に起こったことなのだろう。
そういえば、無惨にも頭蓋骨のみとなってしまった男のことを、以前彼女は口にしていなかったか。
――『私はセイウ以外の魔族を憎んでいるさ』。
ヤレン。セイウ。そしてあの少女。
四百年前の真実を辿っているかのような今の夢は、一体自分に何を訴えかけているのだろうか。
居ても立ってもいられなくなって、ベッドから起き上がる。
“絶対安静”を言い渡されてはいるものの、数日寝て過ごしたことで痛みはほとんど無くなっていたし、傷口も塞がっていた。全く動いていない反動か、身体を動かしたくて仕方がないのだ。
あの二人の裁判はどうなっただろうか。無事に無罪で切り抜けられたのか。それとも有罪判決が下り、じきに刑執行となる身なのか。
自問しながら、すぐに自答した。彼らほどの凶悪犯罪はまれに見るケースだろう。普通の犯罪よりも刑が重くなりこそすれ、無罪など夢のまた夢。
それでも、助かってほしい。こんな矛盾する気持ちを抱くのは、人間だからこそ。
誰だって、大切な者はできる限り擁護したい。それがどれほど利己的な考えであるかもよく分かっている。
どことなく重い足取りなのは怪我のせいだけではない。この件についてはあまり考えないことにした。
前方から、賑やかな声が聞こえてくる。
知らず溜息が出る。どんな時でも騒げる彼らが、やはり少し羨ましく感じた。
「でねっ、ヤレンとその男の人が、きっ、きっ、」
「キスしたの?! それで?」
頭の片隅に微かに残っていた記憶と、聞こえてきた説明とが合致して。
気がついた時にはドアを開け放ち、中へ踏み込んでいた。
幾つもの視線を無視し、真っ先にそれを話した人物へと向かう。
この世界ではまず見られない漆黒の瞳が、戸惑いを色濃く示していた。
「あっ、おはよーイチカ……」
暢気な挨拶に連動するように上がった片手の手首を掴み、真後ろの壁に押さえつける。
イチカとしてはただ一点、彼女が同じ夢を見たかどうか、それだけを確認したいが故の行動だった。珍しく気が急いて、言葉よりも先に手が出てしまった。さらに言えば、片膝も碧が腰掛けるソファに乗ってしまっているが、深い理由はない。
だから彼は、周囲の目まぐるしい変化の意味に気付かない。
動揺していた者たちが完全に固まったことも。
それからすぐ、ある者は両手で口を覆い、ある者たちは目を点にし、またある者は意味深に目を細めていたことも。
「た、たたた隊長っ! 緊急事態が発生しましたっっ!!」
「前方二メートルいちゃいちゃしているカップルがいますっ!!」
「隊員たちはただちに下がるのよっ! ここは退くが勝ちっ!!」
「雰囲気崩さねェよーに!」
『了解!』
極力小声で作戦会議らしきものをしたあと、真剣な声色から一転、にやけながら部屋を出ていく四人。
「子供だねぇ」
年齢的には一番「子供」であるはずのミリタムは呆れていたものの、やはり興味深さが勝ったのか、それとも空気を読んだのか。彼もまたその場を後にし、なんとも形容しがたい空間に二人だけが取り残された。
これは、何なのだ。
いつものように眠ったはずなのに、不思議な夢を見た。自分のことなどどこにも出てこない、他人の話。
ただその中に、この世界に来たときから脳内に声を送り、その後も援助してくれた巫女がいた。
目が覚めてからも妙に落ち着かなくて、仲間たちに報告しようと思い、今に至る。
顔の横に、自分のではない逞しい腕。目の前には美しく端正な顔。
それらを見比べて、顔や全身が熱くなるのを感じる。
どこかで必ず見たことがある展開だった。
少女漫画や恋愛ドラマのワンシーンが急激に呼び覚まされて、碧は尚のこと混乱した。
何が起こったのかは承知しているが、まさか自分の身に起こるとは毛ほども思っていなかったのだ。
大体彼がそんな素振りを見せたことなど、ただの一度もないではないか。事故だ、そうに違いない。きっと何かにつまずいてうっかり碧の手を握ってしまったに決まっている。そのうちに嫌そうな顔をするか、ともすれば舌打ちしながら離れていくだろう――。
「見たのか」
予想の斜め上を行く反応が返ってきて、碧の思考は三度停止する。
いつも一定の距離を保っていた低い声が、それを放った唇が、思いのほか近い。
手首を拘束する少し冷たい指が、思いのほか細い。
それらを意識すればするほど心臓は高鳴り、全身の火照りは加速する一方で。
自分の身体を制御できない焦りをとりあえずは抑え込もうと、彼の質問に全神経を集中させる。
「っみ、見たって、何を……?」
喉が渇いてうまく発声できなかったが、なんとか伝わったらしい。憂いの溜息が碧の前髪を揺らす。
(~~っ、近いんですけどーー?!)
とても目の前の顔を、銀色の瞳を直視できそうになくて、あちらこちらに目が泳ぐ。
このままでは心臓がもたないので、早く離れてほしい。
そう願う一方で、触れられたのが嬉しくて、もう少しだけ離れないでほしいという相反する感情が拮抗していて――。
(って、ものすごく恥ずかしいこと考えてないあたし?!)
自らが抱いた感想に憤死しそうな碧の鼓膜を、イチカの詳細な問いが打つ。
「お前も、夢を見たのか」
室内ではようやく誤解が解けた。しかし、部屋の外に座り込んで成り行きを見守っていたラニアたちにそのことは伝わっていない。
それでも、彼らの体勢が先ほどと全く変わっていないことに気付いたのか、一斉に首を傾げる。
「なんか、あまりいい雰囲気じゃないわね」
「むしろ、何かすごく重大な話をしているような気がする」
「あっ、ポーカーフェイスが動いた!」
「こっちに向かってきてないか……?」
ジラーの呟きを合図に離れた直後、勢いよく開け放たれた扉。
何か言いたそうな表情のイチカがそこに立っていた。
各自目配せをする中、勇敢にも立ち上がった者が二人。
白兎とラニアである。
「あ~らイチカ、ご機嫌よう! 実はたった今ここを通りかかったところなのよ!」
普段よりもいくらか傲慢な口調で、明らかに様子が違う。
あまりの豹変ぶりに眉をひそめ、口を開こうとするイチカを制するように、白兎がわざとらしく割って入る。
「よォ久しぶりだな! 今風呂に行かねェ方がいいぜ! 混んでるからな!!」
無理がありすぎる設定に、カイズ、ジラーは目頭が熱くなるのを感じた。
なお、イチカの後ろで様子を窺っていた碧と四人から離れた位置にいたミリタムは苦笑している。
ここはレクターン王国での裁判が一区切りついた後、事情を知らない王都近郊ならば心配ないだろう、ということで新たに取った宿である。先に泊まっていたところほどではないが大浴場があり、それなりに宿泊客もいるため白兎の言っていることはあながち間違いではない。
カイズとジラーは判決が下るまでの間、「一日限り」という条件で仲間たちと会うことが許され、今朝帰ってきたばかりであった。
ラニアと白兎の熱演に心を動かされたのか、それとも呆れて物も言えないのか、イチカは暫し黙り込んでいた。そのまま頭を抱え込みそうな勢いで、絞り出すように言う。
「見え透いた嘘をつくな。さっきまでそこにいただろう」
何をしているんだ、と据わった目で五人の顔を眺めるが、『作戦会議』をしていた四人は引きつり笑いを浮かべるのみ。
まさか「いつもと違う行動に出たあなたがアオイに何をするのか気になって見守ってました」などと言えるはずもない。
「そういえば貴方たち、何の話をしてたの?」
頃合いの良い助け船に熱視線を送るラニアらだが、ミリタムは冷めた眼差しで彼女らを一瞥する。「別に貴方たちを助けたわけじゃないけどね」と言いたげだ。
イチカはああ、と短く答え、代わりに碧がそれに答える。
「イチカがね、あたしとおんなじ夢見たんだって」
それを聞いて、今度は五人が全員目を丸くした。
「“同じ夢”?」
「ってことは」
「コイツもあの」
「おもいっきり恋愛話的な夢を」
「見たってこと……?」
一同、固まる。時間さえ、凍えて止まる。
「だっはははは!!」
「ははっ、ごめ……はははっ!!」
全てが動き出したその瞬間、目尻に涙すら浮かべ、宿中に響くほどの大音響で笑い転げる仲間たち。
イチカの表情は変わらない。ただ、小さな小さな火種のように多少なりとも怒りは沸き起こっているのか、僅かに殺気が滲み出ている。側に剣でもあれば手に取っていたかもしれない。
それをすんでの所で止めたのは。
「あの、ね。あたし、みんながあんなに楽しそうに笑ったの、初めて見たかもしれない。だから……今だけは、そっとしておいてほしいなって、思ったの」
控えめな碧の主張に、ハッとしたような表情を浮かべるイチカ。
魔族が現れて、何の関係もなかったはずの、兄弟のような三人を巻き込んだ。
標的が分かってからも、平和な日常を過ごしていた二人をも旅の道連れにして、怪我さえ負わせた。
こんな安息の時間は、旅に出てから数えるほどしかなかった。
そして、これから先の休息は見込めない。
「……別に、元からどうこうする気はない」
ならばせめて、この瞬間だけでも。
未だ笑いが収まらない様子の仲間たちを後目に、イチカはついと視線を逸らす。
そんな彼に微笑みかけてから、碧は仲間たちに視線を戻す。
自身の都合に巻き込んでしまった責任はずっと感じている。だからこそ、ここまで同行してくれた一人一人に感謝と、少しでも長い安息を。
そう願いながら、巫女の名に恥じない慈愛に満ちた眼差しで見つめるのだった。




