第六十九話 記憶(1)
何故、我々は類無き砂ではいられないのか
何故、我々は自由に流れゆく水であれないのか
「もうダメかもしれねぇな……」
一筋の光も届くことはない鬱蒼とした森の中、一組の男女がいた。
男の忌々しげな声調に、しかし女は沈黙を守ったままだ。
何か考え事をしているのだろうか。その目は男も何も映してはいない。
「悪ぃなヤレン。おれ様の問題に巻き込んじまった」
男はそんな女の様子を見て、少し悔しそうに顔を歪める。女は視線を男に定めてから、小さく首を振る。
「いや、お前のせいではない。いずれこうなることは、とうの昔から分かり切っていたことだ」
男は自嘲気味に笑う女を悔恨の表情で見つめていたが、突如として現れた影を認め、すぐさま剣を構えた。
男の顔が、僅かに引きつる。
「へッ……よりによって、一番厄介なヤツを差し向けてくれたな」
男の呟きを耳で捕らえた女がその側に駆け寄り、素早く両手を重ね合わせて神術の構えを取る。
ふたりが見据える先、少女が佇んでいた。
年の頃は十代半ばだろうか。輪郭に沿うように緩いカーブを描く、顎下までの金糸。混じり気のない紅い瞳。
どことなく「血」を連想させる双眸に、たじろぐ者も少なからずいるだろうが――一見すればどこにでもいそうな表情の乏しい娘だ。
例えば雑踏ですれ違ったとしても、数分後には記憶から消えているような儚ささえある。
しかし、そんな心許ない存在に対し、男と女は一層警戒を強めた。
見た目がどうであろうと、足音一つ立てることなく、気配を察知させることもなく突然現れた。
その時点で、少なくとも「普通の人間」ではない。
「あら、私は歓迎されていないようね」
感情のこもらない平坦な声色がその口から発せられる。
にもかかわらず、戯けているかのような印象を受ける。
「グレイブ殿の妹君が、おれ様に何の用だ?」
「心外ね。察しの良い貴方なら、分かっているはずだけど」
男の刺すような眼差しを物ともせず、やはり無機質にそう答える少女。
同時に、凍て付くような殺気が森中に充満する。
発信元は少女だ。
正確に言えば、冷酷な闇を宿す真紅の瞳から。
「……あぁ、分かってるさ。あんたがこっち側についてくれたら、ちっとは喜んだぜ」
「そう」
少女は男の皮肉を軽く受け流す。
「惜しい生涯ね。あなたが『不義』を働かなければ、今頃は魔星一の剣士として名声を博していたでしょうに」
殺気を維持したまま紡がれた少女の憐れむような言葉を、男は一笑に付した。
「『不義』だぁ? 何の冗談だか知らねえが、魔星一の剣士として名を揚げることはもう終わったんだよ。おれ様の夢は二つ。一つがそれで、もう一つは『いい女を見つける事』。それが単に人間の女ってだけだ」
「セイウ……」
女が少し頬を染めて男を咎める。
聞き手の少女の表情に変化はないものの、不思議と馬鹿馬鹿しそうな視線を向けているように見える。
「何を言っても無駄なようね。出来れば同類は殺したくは無かったのだけど」
胸の下で組んでいた両腕を解き、右手を前に突き出す。
「今の貴方は同類ですらないようだから」
向けられた手の平に魔力が収束し、生温い黒風がその手の内から溢れてくる。
「はっ! それなら殺してくれよ。死んで、次はヤレンと同じ種族になってやる!!」
切羽詰まった心境からか、男は半ば投げやりに吐き捨てる。
次には女に、いっそ清々しいほどの笑顔を向けて。
「ヤレン。短い間だったけど、マジで楽しかったぜ。今度会う時は絶対に離さねえ。愛してる」
女の身体を引き寄せ、その唇に己のそれを重ねる。
男の突然の行動に驚き、頬を色づかせる女だったが、委ねるように瞳を閉じた。
唇が離れてから、女も男に微笑みかける。
「私もだ、セイウ。次こそは幸せになろう。お前に会えるなら、人間でも魔族でも構わない」
そして、互いに見つめ合う。
暗澹とした空間の中、そのふたりの周囲だけは澄み渡り、柔らかな光に包まれていた。まるで、互いの心の内を表すように。
「お別れは済んだ?」
冷徹な声が、ふたりを強制的に現実に引き戻す。
顔色一つ変えず、一部始終を見聞きしていた少女。その右手には、「暗黒」と形容するに相応しいエネルギーの球体。
「ああ、いいぜ。殺せよ」
「潔いのね。一つ教えてあげましょうか。――魔星最大幹部は貴方たちの幸せなど赦しはしない」
「!?」
男も女も目を見開き、少女を凝視する。
彼らの反応が自分好みだったのだろう、心なしか楽しそうに少女は先を続ける。
「驚いているようね。何度巡り会ったところで無駄なこと。その魂が息吹くところ、必ず絶望を与える。たとえそれが異世界であっても、ね」
男の頬を冷や汗が伝う。
たった今交し合った約束を、踏みにじられた絶望故か。
「へッ……」
男は肩を震わせた。しかし、嗚咽のそれではない。
全てを清算するような、極めて高らかな笑い声が響き渡る。
女はおろか、少女もこの時ばかりは目を見張った。
「それなら、むざむざ殺されるわけにはいかねえな。おれ様はてめぇを殺して、ヤレンとどっかに逃げる」
ふてぶてしく放たれた結論に、女は状況も忘れてただただ目を丸くした。
先ほどとは打って変わって、余裕すら見受けられる。尻すぼみだった瘴気にも勢いが戻っている。
「愚答ね、愚答だわ。確かに貴方の剣技は超一流と言っても過言ではない。けれど、浅はかで向こう見ず。私の力を知らないわけではないでしょう?」
「ああ、知ってるぜ。あんたの力も……あんたの言う“同類”に迫害されてもおかしくないあんたの境遇もな!!」
直後、それまで瞬き一つしなかった少女の表情が僅かに揺れた。
同時に放たれた殺気は、先ほどまでの比ではない。それに気付いた女が、焦燥に駆られた様子で男に小さく助言をする。
「セイウ、気を付けろ。奴の殺気、半端ではないぞ!」
「わあってるって。――あれがあいつの弱点なんだからな」
「何……?」
女の問いかけに答える前に、男は一歩、また一歩と少女に近付いていく。
「人間とのハーフってのは辛いよなぁ? 王族だから良かったものの、そうじゃなかったら今頃、あんた生きてないぜ?」
少女が身動き一つしないのを良いことに、嫌みたらしく、ねじ込んでいくように語りかける。
女は明かされた真実に驚きを隠せないようだ。
「人間と……魔族のハーフ、だと?! そんなことが……!」
「あるんだよ。こいつの父君は戯れに人間の女を抱いた。それでこいつが生まれたんだ。おれ様とヤレンが『不義』だってんなら、あんたは『不義』から生まれた『無』だぜ!!」
散々男が罵ったせいか、少女の殺気は見違えるほど薄れていた。もはや当初の目的を忘れるほど、男に“弱点”を突かれたのだろうか。薄暗い森の中、俯き加減な少女の表情を読み解くことは困難だ。
一方、勝利を確信した男は口角をつり上げ、少女に突進していく。
「終わりだ!!」
剣を振り上げ、その胴体を薙ぐ。
少女は失意のうちに塵となった――はずであった。
「が、っ……は……!?」
口から血を吐き、地に倒れ伏したのは男の方だった。
腹部に空いた大穴から、口腔から血が流れ、一帯は血の海となる。
男を見下ろす少女は、相も変わらず無表情でありながら、絶対王者のような風格を漂わせていた。
右手から上がる黒煙と、未だ燻る瘴気。
男の刃がその身に触れる僅差で、爆発的に発生した暗黒球によるものらしかった。
「貴方のようなヒトに、飽きるほど言った言葉なのだけど」
みぞおちの辺りで両肘を抱えながら、少女が淡々と語り出す。
虚ろな目でそれを聞く男。力なく崩れ落ち、青い顔でふたりを見つめる女。
「私はこの体質を嫌っているわけではない。実際、この身体のお陰で義兄様よりも強い魔力を持てた。別に義兄様に恨みがあるわけではないけれど、何かと便利なの」
僅かながら光が灯る紅の瞳。自慢話でもしているように、饒舌な語り口。
それはあたかも、彼女が「喜んでいる」ことを示しているかようだ。
「それともう一つ、同じ位そういう輩に言った言葉があるの。聞きたいでしょう?」
何かを察したのか、男は必死に首を振って懇願した。開ききった銀眼は血走り、涙が滲む。
這いつくばって額をすりつけるその姿には、もはや威勢も誇りも感じられなかった。
「【願わくば、汝の力此処に】」
少女はそんな彼に冷たい笑みを見せてから、その言葉を紡いだ。
瘴気が増した。
木々の合間を縫って、得体の知れない何かが、生温い風と共に姿を現す。
魔星の瘴風を纏った灰色の龍が数匹、押し合いへし合い獲物――男目がけてその巨大な口を開け。
急襲に為す術なく、男の身体は散り散りになった。
そのあまりにも凄惨な光景に、女は飛び出そうなほど瞼を開き、わななく唇に手を持っていくのがやっとのようだ。
灰龍は各々咀嚼を繰り返していたが、不意に一匹が何かを吐き出す。
白く歪な塊。
男だったモノの、頭蓋骨だった。
龍の群れは満足そうに雄叫びを上げると、目にも留まらぬ速さで森の奥へと飛んでいった。
「セ、イウ……? セイウ、セイウ!!」
我に返った女がおぼつかない足取りで立ち上がり、何度も転びそうになりながら、辛うじて残った男の面影に走り寄る。
震える手で抱き寄せたそれは、温もりのない、岩のような感触。それすらも、すでに粉塵へと変わり始めている。
女は堪らず、一粒の涙を落とした。
「莫迦な男ね」
女の真後ろで、少女が無感情ながらも吐き捨てるように呟く。その手には、男に致命傷を負わせたと思しき黒球を携えて。
「大人しく魔星で余生を過ごしていれば、こんな惨い死に方をせずに済んだのに」
まるで他人事のような口振り。
女は振り返って少女を睨みつけるが、当然のように少女の反応はなかった。
「さて、お喋りもつまらないわね。何か言いたいことでもある?」
少女は何の感慨もなく訊ねる。
女は優しい眼差しで頭蓋骨の「頬」を撫でていたが、やがて意を決したように少女を睨み上げる。
「覚えておけ。私は決して、お前たちに屈しない!」
盛大に放たれた誓いにも、少女は眉すら動かさなかった。
「辞世の句、とかいうものかしら。素敵ね。でも――さよなら」




