第六十七話 紙一重の善悪(1)
悪あるものには鉄槌を 善あるものには祝福を
悪は戒めし存在であり 善は祝福すべき存在であれ
ウオルクは蛙のように地面にへばり付いていた。
身動きを取ろうにも、どこの神経も反応せず、指先一つ動かせない。余すところなく全身を押さえつけられているかのようだ。
首から上は辛うじて動いたため、目の前に立つ少女を盗み見た。
それを見計らったように、光が雲を押しのける。
年の頃は十五前後だろうか。細めの体躯で、濃灰の腰まで届く髪は、首の付け根でおさげにしてある。前髪は眉にかかるか、かからないかくらいの位置で切り揃えられていて、その生真面目そうな性格を表しているかのようだ。
可愛らしい顔をしてはいるが、息を呑むほどの美しさはない。
一見どこにでもいそうな少女ではあるが、その身を包む煌びやかな紅白のワンピースは、彼女が巫女であることの証。
そしてもう一つ、大の男が為す術もなく地に伏しているこの有様こそ、彼女が相当以上の『神力』の持ち主であることを物語っている。
(この歳でこの威力の『神術』……この娘、一体何モンだ?)
一種の「任務」で、彼は『巫女の森』ほどではないが聖域に赴いたことがある。
そこにもやはり同程度の神術を扱う巫女はいたが、彼女は中年の域に差し掛かっていた。
「才ある者でもこれを修得するには十年近く掛かる」。
口癖のように言う彼女の顔は、実年齢よりも老けて見えた。やつれるほど過酷な修行を続けてきたためであろう。ウオルクはまだ幼かったが、そのことだけはなんとなく察しがついた。
「『闇に紛れし邪・辰巳の方角より神聖を壊す』――貴男の事でしたか、ウオルク・ハイバーン。最も邪悪にして忌まわしき集団、ガイラオ騎士団員」
あらかじめ神託を受けていたのだろう。少女・サトナの憎しみさえ込もった呟きを受け、ひゅう、と口笛を鳴らすウオルク。
「やけにオレに詳しいじゃねーか。ファンクラブなら大歓迎だぜ」
「愚問に付き合う私ではありません」
一瞥が投げられる。
完全なる憎悪。その表情に名を付けるなら、それが最も合うだろう。
依然身体は動かないが、首と声帯だけはよく動くので、ウオルクは顔を傾ける。
「つれねーお嬢さんだな。じゃあ、なんでオレがこんな目に遭ってるのかぐらいは教えてくれねーか?」
「当然の報いです」
サトナはこれにははっきりと答えた。それだけでは意味が分からず、ウオルクは再び首を傾げる。
その心情を汲んだのか、サトナは歌うように言葉を紡いでいく。
「分かっておいでですか、ご自分がおやりになったことを? 貴男方外道が行っていることはすなわち、生命の著しい減少を促しているのです。世の混乱、人々の悲愴を招いて、何が楽しいのですか」
「そこまで言われると……」
サトナの言い分は少し行き過ぎているようにも感じるが、なるほどその内容は納得できるものだった。
ウオルク自身、行き場がなく飢え死にを待つのみだった幼い頃、当時の団長に拾われ入団した身だ。
やるべき「仕事」を聞いて、初めは困惑したのを覚えている。
しかし、条件を呑まなければいずれは朽ち果ててしまう。やむを得ず頷き、気が付けば馴染んでしまっていたのである。
道徳心のある行動ではないが、成功すれば報酬が貰える。生きる道を一歩辿ることができる。
そのことに感謝しつつも、心のどこかに罪悪が残っていたのは確かだ。
(確かに良いコトじゃねぇよなぁ。でも報酬は捨てがたい……)
一方のサトナは、そんなウオルクの心情などつゆ知らず、先ほどの彼の発言にぱっと表情を輝かせていた。
「そうでしょう? そのような非情な行いをして何になると言うのでしょうか。貴男の人生は、貴男自身で変えてゆけるものなのです。これからの行く末は、貴男の善行によって開かれるのです」
巫女というよりは宗教家のような口調だが、当のサトナ本人は真剣に訴えかけているようだ。
その説得を聞いたウオルクは僅かに唇をつり上げる。彼のチャームポイントである、人懐こい笑みだ。
彼をよく知っている者ならば、それが何かを企む表情だということに気付くのだが。
「今からでも、遅くねぇのか?」
「もちろんですわ。貴男の人生はまだまだ長いのですから、改善の余地はあります」
「そんなら、抜けるかな~~。オレの人生は始まったばっかだしな~~」
力強く頷くサトナにつられるように、うんうんと顔を上下に動かすウオルク。わざとらしい言い方であるのに、初対面で見抜かれることはほとんどない。ウオルク・ハイバーンという男の特性なのかもしれない。
「まぁ、めでたく脱退したワケだし。この神術解いてくんねーかな」
「あ、すみません! 今解いて差し上げますね。【済】」
手のひらを向けられたと同時に、ウオルクは身体から一切の重みが消えたのを実感した。
立ち上がり、手足の動きを確かめる。
思ったより動きが滑らかだ。関節の節々にかなり響いたと思っていたのに。
「ありがとな。で、あんたの名前は?」
ウオルクの問いに、僅かに眉をひそめ疑問符を浮かべたサトナであったが、すぐににっこりと微笑んだ。
「サトナ・フィリップですわ」
「そう、サトナか。よろしく」
右手を差し出す。
サトナは彼の顔と差し出された手を見比べ、あからさまに戸惑った様子を見せた。
アスラントの巫女は生涯を外界と遮断された聖域で過ごすため、人々との交流はほぼない。
――というのは昔の話であり、今ではいかに聖域といえど一般人の出入りは自由であるし、聖域を放棄していわゆる「普通の人間」として暮らす選択肢もある。
ある事情によりサトナが聖域を放棄することはできないが、巫女の森への訪問者は四百年前の「伝説」のこともあり途絶えることがなく、この森の成り立ちなどについて説明を求められることもしばしばだ。
とはいえ、握手を求められるようなことはただの一度もなく。
それでも、いつまでもその状態で待たせるのも悪いと思ったのか、おもむろに右手を伸ばす。
互いに握り合ったのは一瞬だったかもしれない。
「――!?」
一方が勢いよくもう一方の手を引いたことで、互いの距離が縮まる。
僅かな時間に、流れ作業のように事は進行していった。
一瞬、頬をかすめるように触れ。また一瞬、離れてゆく。
「挨拶代わりにちょっと頂いたぜ」
自らの頬を指差して、悪戯っぽい笑顔を浮かべるウオルク。
それでもサトナは、何が起きたのか理解することができなかったようで。
「何を、ですか?」
今度はウオルクが呆けた表情をする番だった。
次には困ったように後頭部を掻いて、視線を彷徨わせている。
「なんてゆーかな……ああ、そうそう。お近づきの印ってヤツだ。仲良くしようぜ。団から抜ける気はねえけど」
「はい! こちらこそ仲良く――」
“団から抜ける気はない”。
「悪の頂点」ガイラオ騎士団から抜ける気はない。
サトナが真意に辿り着くのは時間の問題だ。その時にはまたあの神術をくらう羽目になる。
ウオルクは足早に巫女の森の鳥居をくぐる。
絶叫が響いたのはその直後だった。
「う、嘘をつきましたね……? 許せませんっ、戻ってきなさい悪の化身っ!! 成敗しますっっ!!」
サトナの叫び声は、『巫女の森』外の街道を爽やかな気分で走り去るウオルクにももちろん届いていたが、当然のごとく戻ることはなかった。
全ての出来事から数週間が過ぎた。運命の、王国裁判の始まりだ。
レクターン王国裁判所にて、カイズとジラーに対する審理が行われる。
彼らの罪は、日本では『最低最悪の凶悪犯罪』とでもいうのだろうか、と碧は思う。
あの事件がなければ、カイズたちの過去を知る機会はきっと訪れなかっただろう。
もちろんそれでも信頼が揺らぐことはなかっただろうが、あの一件を経て、互いの結びつきが一層強固になったように感じられる。
大っぴらに「良かった」とは言いがたいが、決して「最悪」でもなかった。
イメージでしかなかった裁判所を見上げながら、碧は暫し言葉を失う。
「裁判所」と名が付くからには極力地味でシンプルな見た目なのだろう、と思っていたが、今目の前にそびえ立っているこの建築物は、明らかに遠方――丘の上に見えるレクターン王国城に負けず劣らずの外観である。
レンガ造りのそれは、小規模な城ほどの高さはあるだろうか。建物には窓代わりか、四角く大きな穴が等間隔に空けられている。無人の入り口は大きく開け放たれ、どなたでもご自由にお入り下さいと言わんばかりだ。
やや低めの凹凸の塀に囲まれた屋上には、この国の国旗であろう青地の旗が、風に揺られて大きく波打っている。
「第二の城ね」
ラニアが興味深そうにその『第二の城』を眺めて言った。
先ほどまでとは打って変わって、いつもの彼女らしく落ち着いている。碧は人知れず胸をなで下ろす。
先ほど――と言ってもほんの二時間ほど前だが――ネオンと、王国騎士隊長兼彼女の世話係でもあるオルセトと再会したときのこと。
開口一番、「幸運は一度だけじゃないってね」と意味深な言葉を発したネオン。
彼女によると、今回カイズとジラーが事件を起こした宿は、レクターン王国領最西端であり、そこを一歩でも出ていたらレクターン王国で裁判が行われることはなかったという。
それを聞いた途端、ラニアは堰を切ったように泣き出し、しばらくその場を動けないままでいたのだ。
今はまだ落ち着きつつあるが、これで無罪放免になったら今度はどうなるか分からないななどと思いつつ、碧はゆっくりとその中へ歩を進めた。
開放的な入り口の通り、裁判は一般国民が傍聴しても良いことになっている。
「そういえば、イチカ大丈夫かな? 一応結界は張ってきたけど」
「防御魔法も部屋全体にかけておいたし、心配ないよ」
人間側の事情など魔族の知ったことではないのだから、いつ襲撃されてもおかしくはない。
全員で行動を共にした方が良いのだが、イチカはまだ本調子ではない。下手に動かしては治りが悪くなることもあり得る。
苦肉の策として、宿の守りを最大限固めることになったのだった。




