第六十五話 夜明け前(1)
重いものか。軽いものか。
『掟』。破れば然るべき処罰を受けることが大半だ。一方で、心がけ次第でいくらでも守り通せるものでもある。その内容に納得がいくいかないは別だが。
(あいつらは納得がいかなかったんだろーけども)
重いものか。軽いものか。
気持ちとは裏腹な、明るい橙色の髪を持った青年は迷っていた。『あいつら』のことではなく『掟』について。
あいつら、つまり五年ほど前まで青年の弟子であり、弟のような存在だった少年ら。
彼らは所属する――と言っても、自ら望んで志願したわけではなく強制的にだが――暗殺集団の『掟』に背き、兄貴分である青年を敵に回してまで脱走した。
それまで否定の意思など全くと言っていいほど示さなかった彼らが、ある日突然、脱団を試みたのだ。そのときには少年らの意思は、『掟』よりも絶対的上位に位置していたのだろう。
「『依頼主及び団長の命令は絶対』」
それ以上に重要なものは、自分たちには存在しないはずだった。
今も、過去も。
五年前のあの日も。
砂地を踏みしめる音が響く。
予想通りそこには、早朝だというのに、頭部から足先まで全身を暑苦しい鎧で固めた人物――この団を統括する男が立っていた。
すぐに、戦いの残り香を嗅ぎつけてきたのだと直感した。
視線がこちらに説明を求めている気がしたが、妙に情けなくて、偶然を装いたくなる。
「あぁ、団長。今日は一段と朝焼けがキレイだぜ」
「その傷は」
意図は見通されていたらしい。本題に触れたくないこちらの心に、土足で踏み込むような詰問。
冷たいように見えるが、それが彼のやり方だ。最初からではないが、もう十年以上はこうなので慣れ親しんでさえいる。今更そんなことに怒りを覚えたりはしない。
それに、おそらく彼は「誰と誰が戦ったか」まで気付いている。
その上で、自らの推測が正しいかどうか、答え合わせのために訊ねている。
長年の付き合いから、それらのことも瞬時に理解した。
「団長、オレ甘かったわ。アイツらに足洗いたいって言われたら、なんとかしてやりたくなってさ。それがこの結果だ。結局、故郷には戻ってねぇみてーだけど」
自嘲気味に吐き出して、空を見上げる。
声をかけられるまで崖の下を見るでもなく見ていたが、それらしき人影はここからは確認できなかった。あの格好で帰ろうものならあらぬ誤解を招きかねない、先に鎧を捨てに行ったのだろう。
あの二人が、内心羨ましくて堪らなかった。自分から教えたとはいえ、こんなにも簡単にふるさとを感じられる。親の記憶はなくとも、帰る場所が分かっている。
捨て子だった自分には、そのどちらも困難なのだから。
「なるほど。つまりカイズ・グリーグとジラー・バイオスはお前の制止を聞かず「家出」したということだな」
「……え?」
感傷に浸っているところに思いも寄らぬ解釈が返ってきて、思考が停止する。
間違ってはいない。間違ってはいないが――
「あれぐらいの歳なら反抗的になるのも無理はない。それほど「依頼」に不都合があるわけでもない。気が済むまで好きに遊ばせておくことだ。五年も経てば少しは落ち着いてくるだろう」
それだけ告げて、踵を返す。
「その代わり、五年経っても戻らなければ少し強めの灸を据える必要がある。その時は責任を持ってお前が連れ戻せ」
なかったことにされている。
あの二人の意思も、それを生身で受け止めた自分の意思も。
鎧の足が動きを止める。
「ウオルク・ハイバーン。掟はどうした」
「掟……」
「掟に勝るものなど何もない。掟の前にはお前たちの意思は機能しない。個を捨てよ。団の利益のため全てを捧げよ。――もう一度問う、掟はどうした」
何もかもを見透かし、その全てを叩き潰すような問い。
それでも憤りは感じなかった。
親に棄てられた自分に価値を与えてくれたこの組織に、感謝こそすれ恨みなど湧き上がろうはずもなかった。
それに、分かっていたからだ。
意思など持っていたところで、何の役にも立たないと。
気が付けば、口が勝手に言葉を紡いでいた。
「“依頼主及び団長の命令は絶対”」
「何やってんだかなぁ、オレ」
青年は、その絶対を自ら無効にしてしまった。
何故だろうか、あの二人を、現在の兄貴分だという銀髪の少年を見ていると、彼らを引き離そうとしている自身が赦されざる存在に思えて。
結果的に、見て見ぬふりをしてしまった。
逆にそれは、青年の首を絞めることにもなった。
「責任」を果たせなかった以上、団長に合わせる顔がない。
団に戻れないということは、帰る場所もない。
現在の所持金はゼロ。
まさに窮地に陥っていた彼の目の前に、それはそびえ立っていた。
その異様さに気付き、青年は思わず顔を上げる。
昔の古傷を強調するようにさらけ出された左腕は、冷え込んだ夜の空気に当てられて寒々しい。
真紅の血液がそのまま建築物に塗りたくられている、という表現が一番合っているかもしれない。暗闇でもなお「真紅」と言い切れるその門は、『鳥居』と呼ばれるものだ。
そして、真紅の門はこの世界でたった一つしかない。
「はぁーん。これが噂に聞く『巫女の森』か。どーりでさっきからピリピリするわけだ」
この世界に幾つもある聖域の中で、この森ほど特殊な場所はないという。
指で数え切れないほど点在している聖域だが、そのほとんどは無人であり、巫女の高齢化も著しい。そんな中でも『巫女の森』だけは、たった一人の少女が治めている――正確には護っている――として有名である。
青年の口調からして、真に心に汚れのない者だけが安堵を感じることができる、という噂どおり、「清き心の持ち主」以外にはどうにも不快なようだ。
「ま、鎧外せばドコの誰かなんて分かんねーだろ」
青年は気楽に呟きながら、鳥居の内へと踏み入った。ひとまずここで夜を凌ごう、くらいの軽い気持ちだったのだろう。
「っうッ!?」
瞬間、地面から迸るような刺激。踏み込んだ足の裏から全身に回り、たまらず地に倒れ伏す。
それを見計らっていたように青年の目に映ったのは、紅白の衣装。
「今すぐ団から抜けると誓えば、その呪縛は解いてあげましょう。忌まわしきガイラオ騎士団員、ウオルク・ハイバーン」
小鳥のさえずりのような声でありながら、視線が合った相手を図らずも押し黙らせてしまいそうなその眼を細めて、少女――サトナ・フィリップは青年を見下ろした。
巫女の森での出来事から二週間後。
ここでもやはり、緊迫した空気が漂っていた。
否、“緊迫した”という表現は適切ではないだろう。
思い詰めたような、それ以上はないほど苦渋に満ちた表情を浮かべ、『彼ら』は仲間の顔を一通り見やった。
その仲間たちは誰もが彼らを凝視している。何か一言あるなら「なぜ、どうして」という困惑を口にするだろう。
色とりどりの瞳に浮かぶ焦り。そしてそれは、やがて一つの言葉を生んだ。
「それ、本当なの……?」
生まれた言葉をラニアが代弁する。疑いをかけるように、口元には小さく笑みを浮かべて。
口を開こうともしない彼らを見て、彼女は再び言葉を探した。
「まだ、分からないのよ? 死罪とか長期間の懲役とか、ネオンがバックについてるんだから重くは、」
「もう、決めたことなんだ」
ラニアの言葉を遮り、彼ら――少年らの一人、ジラーが蚊の鳴くような声で呟いた。
一瞬は和みかけた空気が、再度凍え出す。
「死罪でも懲役何年でも関係ない。オレたちは、」
普段の無邪気さは押し殺し、感情のこもらない声でカイズがジラーの言葉に続けた。
次に来るのはおそらく、先ほども彼らの口から出た決意。
事故とはいえ過ちを犯した彼らの、せめてのもの償い。
「兄貴やみんなから、この旅から、外れることにしたんだ」
それから何時間が経ったか。
カイズらはイチカが目を覚ましたという知らせを聞き、彼が休んでいる部屋の前へ来ていた。無論、決断を師である彼に伝えるためだ。
しかし、やはりすぐには言い出せないのだろう。
これといって意味もなく、扉の前でぐるぐると回っていた。
静止、決意、行動、断念、徘徊。
そんな堂々巡りに終止符を打つかのように、問題の扉が開いた。
思わず身を固くする彼らの前に現れたのは、決意の旨を告げようとした相手ではなく、焦げ茶色の髪の少女だった。
少女――碧は二人の顔を交互に見やり、小さく苦笑する。
「イチカがね、用があるなら入れって。気配が消えてないから、ぐるぐる回ってるの分かるって」
カイズもジラーもつられて苦笑したのは言うまでもない。
碧は二人に向けていた視線をイチカがいる部屋に戻し、「あたしは出ていくから」と告げてラニアたちがいる部屋に向かう。彼女なりの気遣いなのだろう。
それを理解した彼らは、今まで何をしていたのだろうと思い直す。何を恐れているのかも分からずに。
扉は既に開かれた。中に見えるのは銀髪の、おびただしい量の包帯をその身に巻かれた少年。
過去故の物悲しげな容貌は窓の外に向けられていたが、不意に二つの視線と銀色の視線とが交わった。
逸らしたかった。しかし、逸らしてはいけないと自縛していたから、二人は現実をしっかりと見据えた。そして一歩、また一歩と踏み出す。
次第に縮まる距離を意識しながら、遠すぎず近すぎない距離で立ち止まった。
この瞬間までイチカは、二人から一瞬たりとも視線を外さなかった。
ただ、普段ならば全く見せることのない穏やかな表情で見守っていた。
呼吸を整え、お互いの視線を合わせ、自分たちの胸の内を全て伝える。
そうした手はずだったのに、いざ本人を目の前にすると唇は開かず、声も出ない。開いても震えてばかりで、まともな発声もできそうにない。
その様子を見かねたのかそうでないのか、イチカが小さく溜め息を吐いた。
たったそれだけなのに、肩が、震えた。
「怯えるな。おれは怒っていないし、お前たちを恨んでもいない。むしろ、感謝している」
慎重に言葉を選んでいるような口調に、耳を疑った。
今のは幻聴だったのか、それとも。そう言わんばかりに互いを見交わす。
考えていることは同じだったようだ。互いの瞳が輝き出す。『幻聴なんかじゃない』と、目の奥で、意識の奥で頷き合う。そうして、理解する。
――拒絶されるのが、怖かったんだ。
再び銀色の双眸と視線を合わせる。
人工的であるにもかかわらずその目は、元からそうであったように自然な色を宿している。緩やかな目元だ。普段ならばそれこそあり得ないほど、優しい目だ。
そしてそれが、顔全体にも及んでいて。
「うぁ、あ、兄貴……?! それ……あ、いや、なんていうかそれ……!」
「しっ、ししし師匠の顔が、ほころびて……!!」
「?!」
ジラーの言葉に驚きを隠せないのか、反射的に手を頬に持っていくイチカ。
いつもは強張っている顔面が緩んでいることに気付き、再度目を見張る。
「し、師匠! 『笑ってる』んですよそれ!!」
「え、『笑顔』ってゆーんだぜ、それ!!」
慌てふためき、しかし喜びを隠せないカイズとジラーの様子を見てまた表情が緩んだのか、「あーーー!!」と指さし声を上げる二人。
それまで半信半疑だった様子のイチカも、さすがに二回も同じ現象が起これば信じざるを得ないようで。
「おれは、笑って……いるのか……?」
二人は顔を見合わせ、次にじっとイチカの顔を見つめ、微笑んだ。
「そうだよ! こんなこと言うの変かもしれねーけど、兄貴は“今”人間になったんだ!」
「師匠はようやく、感情を持てたんだ! 笑えるんだ! だからきっと、泣けるようになるんですよ!」
笑うこと。泣くこと。怒ること。喜ぶこと――。その全てが『感情』に直結する。
今、笑えた理由はおそらくイチカ自身も分かっていない。けれど、長年彼を苦しめていた呪縛は、今日を境に少しずつ解き放たれていくだろう。
そんな確信めいた気配を感じ取ったのか。
「……ありがとう」
イチカがそう口にした。初めて聞いただろうカイズもジラーも、当のイチカさえも自らの発した言葉に戸惑いを隠せない様子だ。使い慣れていない謝辞への違和感かもしれない。
イチカは目線を下げ、言葉を探す。
「うまく、言えないんだが……本当に、お前たちには感謝している。あんな状態になってもおれを殺さなかったのは、自分で言うのも変な話だが――おれを信頼してくれていたから、なんだろう。それならおれは、仮にお前たち二人に殺されていたとしても恨まなかったと思う。自分の信用している弟分に殺されるのは、何というか、本望だからな」
彼にしては落ち着きなく視線を動かしていて、二人からしてみれば夢でも見ているかのような光景だろう。けれども、間違いなくイチカが発した感謝の言葉なのだ。
出会って三年間、片時も離れたことのない声だ。
同時に、三年間一度も聞いたことのない声だ。
それを言わせた、否、彼が言うきっかけを与えたのが自分たちなのだ。
そう考えると、こそばゆくて。照れ臭くて。感動して。
ぽつり。ぽつり。雨のように降るそれは、涙の雫。
「きの……兄貴の……っばかやろぉ……っ!! なんか前が曇って見えねーーっ!!」
「お、おい……」
ようやく視線を上げたイチカは露骨に驚き、珍しく狼狽えたような様子で二人を交互に見やる。
顔中ぐしゃぐしゃにして、涙か鼻水なのか分かりかねる状態のカイズと、そんなカイズとは対照的だが目元をごしごしとこすり、静かに泣いているらしいジラー。
床に、衣服に、握りしめた拳に丸い透明な液体が降りかかっている。
震えて、上下する肩。絶え間ない嗚咽。
おそらく、イチカとしてはそこまで泣かせるようなことを言ったつもりはない。しかし、結果的に弟分たちは号泣している。どう対応するか悩みに悩んだ末、とりあえずは落ち着かせようと思ったのか、二人の肩を自分の方に引き寄せ、ぽんぽんと背中を叩いてやる。
堰を切ったように本格的に泣き始めた二人に、イチカは今度こそ混乱した様子で、しかし暖かい眼差しで見守っていた。




