第六十三話 芽生え(1)
綺麗すぎる。
あり得ない。この世のモノ、否、この世の人とは思えない。どのような親から生まれたらこんなに整うのだろうか。その端正な寝顔に、まず碧は絶句したことだった。
時に、瞬きも惜しいと言わんばかりに、まっすぐ前方を見据え。
時に、視線だけで相手を刺し殺しそうな眼力は、今はなく。
いつもはどこか大人びていて、しかしそれが妙だとは思えないほど似合っていた彼が、今だけは幼く見える。
思えば彼の――イチカの寝顔を見たことはなかったように思う。だから尚更意外性があって、常日頃とのギャップに戸惑った。
碧の脳裏に、ふと昨晩の会話が呼び起こされる。
「手は尽くしました。傷口も全て塞いだ。あとは彼次第です」
一行にそう伝えた医師の後ろのベッドには、穏やかな眠りについているイチカ。
数時間前まで苦痛に歪んでいたその表情も、今は幾分か和らいでいる。
さほど重傷でないように見えるが、あと一分でも遅れていたら打つ手はなかったらしい。顔色は青白く、体温も下がり、死と隣り合わせの状態が続いていた。
出血量はもちろんのこと、精神的な負担によるものも大きい、と医師は分析する。
すなわち「大切な者と戦わなければならない状況」が、極限まで彼の心身をすり減らし、命に関わる重篤なダメージを与えたのだ、と。
それを聞いて真っ先に駆け寄っていったのは、彼の弟分たちであった。
「兄貴、ごめんな……! ごめん、な……っ」
「謝って許されるようなことじゃないけど……でも、本当に……!」
いつもの明るく元気な姿からは想像もできないほどぐしゃぐしゃな顔で、イチカの顔や服に涙が染み込むのも構わず涙を流し続ける二人。
碧も、ラニアも、白兎ですら目尻に涙を浮かべ、彼らを見守っていた。イチカが目覚めるその瞬間を心待ちにしながら。
彼らの師はそれを知ってか知らずか、それから何時間経っても起きる気配はなかった。
息はある。脈もある。にもかかわらず、彼は目覚めなかった。頑なに双眸を閉じて、二度と起きまいとするようにぴくりとも動かない。
「貴方は冷静だね」
皆が焦燥感を募らせ落ち着きをなくしている中、一人静かにイチカを見つめている碧に気付いたミリタムが、興味深そうに問い掛ける。
「あっ……なんか、ごめんね」
「別に謝ることないよ。一人ぐらいはそういう人が必要だろうし。何か分かるの?」
碧は答えに窮する。
「分かるっていうか、夢を見てるんじゃないかなって」
「夢を?」
「うん。イチカの気がね、そよ風みたいなの。たまに感じたことがある……いつだったかな」
いつの間にか全員が、碧の言葉に耳を傾けている。注目を浴びるとかえって焦りそうなものだが、意外とすんなり思い出せた。
「二人といるときだ! ねぇ、カイズ、ジラー。イチカの手、握っててあげて。イチカはきっと二人の夢を見てるんだよ。二人と過ごした頃の夢を」
唐突に指名されたことで顔を見合わせていた二人だったが、程なくして力強く頷く。
イチカの側に跪き、左手をそれぞれ柔らかく握る。
目を閉じ、生気を送るような祈りは長くは続かなかった。彼らは突如として立ち上がりその場をあとにしたのだ。
碧は理由を訊ねようとしたが、ラニアに遮られる。
「そっとしておいて。何か、考えたいことがあるのよ」
誰にでも、放っておいてほしい時はある。碧もそれを理解していたから、深追いはしなかった。
結局翌朝になっても、二人は姿を見せなかった。
捜しに行こうと話し合っていた矢先、警察官が訪ねてきた。
二人が自首したこと、身柄を拘束していることを告げられ、任意で事情を聞きたいという。
突然のことに驚いたが、やましいことは何もない。彼らの決断を無駄にしないよう、碧らも誠心誠意応じることにした。
事情聴取は無事終わったものの、他の仲間たちを待つ間、暇を持て余していたこともあり。
碧は一人、イチカを見舞いに来たのだった。
(二個上、だっけ)
その話をいつ聞いたかは覚えていない。ただ、ラニアといいイチカといい、実年齢の割に落ち着いているなぁとぼんやり思った記憶はあった。
けれども、耳を澄まして辛うじて聞こえるような小さな寝息を立てて眠る顔は、思いの外年相応だ。
あまり見られないからか、ゆっくりじっくりその顔を眺めてしまう。
(キレイだなぁ)
どれだけ見ていても飽きない。
――『じゃあ、好きってこと?』
昨日のラニアの問いが蘇って、顔が熱くなる。
(~~っ、明海ー、佐保ー!)
ここにはいない彼氏持ちの親友たちに助けを求めようとするが、返事が返ってくるはずもなく。
肩を落としてから、そういえば、と思い当たる。
(明海たちは、もっと楽しそうだよね)
彼女たちも相手のことを「好き」になったから付き合っているわけだが、恋愛に関して思い悩んでいるように見えなかった。
恋が楽しいものならば、この気持ちは恋ではないのではないだろうか。
一方で、恋は辛いものと聞いたこともある。明海や佐保が苦しんでいるように見えないのは、そもそも両想いだからなのだろう。相手の気持ちが分からないからこそ、浮き沈みがあるのだ。
(でも、苦しいとか辛いとか、そんな気持ちじゃないし)
「かっこいい」も「綺麗」も、所詮外側を見ているだけに過ぎない。
花や風景を見た感想と変わらないそれを、恋と呼べるのだろうか。
(頭、痛くなってきた……)
――『急いで結論出しても、それが正しいとは限らないから。しばらくは一緒にいることだし、その間にもっと仲良くなっちゃいなさい。そのうち、答えが出るかもしれないわよ?』
(うん、そうだよね。焦らないでおこう)
ラニアの提案を思い出し、一人大きく頷いてから、再び真下の寝顔に意識を向ける。
(仲良く、か)
同じ世界の、同じ国で生まれ育ったのに、生い立ちは真逆で。
壮絶な過去が、その距離を縮めることを許してはくれない。
(こんなに近いのにね)
透けるような白い肌。
細いが骨張った指。
程よく筋肉質な二の腕。
指通りの良さそうな銀髪。
形の良い眉。
長い睫毛。
整った鼻筋。
薄すぎず、厚すぎない唇。
(……って、見過ぎだよあたし!!)
度の過ぎた変質者のような自分に嫌気が差して、一度は目をそらした碧だが、「見てはいけない」と思えば思うほど視線は逆戻りする。
「う、ん」
思考と視線がちぐはぐな中、イチカが小さく身じろぎをした。
銀色の瞳が、ゆっくりとその面積を広げていき、おもむろに碧に向けられる。
寝起きのためか、いつもなら数秒と保たない視線が思いのほか長い間突き刺さり、妙に居心地が悪い。
「お、おはよう」
碧だと気付いていないのだろうか、と思い声を掛けると、ああ、と小さいながらも返事が返ってくる。
「あいつら、は」
少し掠れた声が問い掛けてくる。
考えるまでもなく、弟分たちのことを訊いているのだと分かった。
「……もう怪我も治って、すごく元気だよ」
起きて早々に彼らのことを案じる優しさに内心感嘆しながら、碧は心苦しくてならなかった。
彼らはここにはいない。勾留され、いつ戻るのかも分からない。
嘘をついたわけではないが、おそらくイチカが最も知りたいであろう核心には触れなかった。
彼はきっとそのことに気付いている。
けれども、「そうか」と言ってついと視線を逸らすだけだった。
「左手、あったかかったでしょ? ずっと二人が握ってたんだよ」
碧の投げかけに、切れ長の瞳が見開かれる。
「……そうか」
何かに気付き、自分の中で納得して。心から安堵しているような、そんな声。
左手を持ち上げ、穏やかな眼差しで見つめ続ける彼を見て、碧も思わず頬が緩んだ。
その一方で、心の一部分に巣くう「寂しさ」。
今までに比べれば考えられないほど優しげな表情を浮かべている、そのことが受け入れられないかのように。




