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第六十二話 逸香(3)

 押され続けること数十分。

 よく分からないまま背から伝わる力に任せて歩いていたが、自発的に歩みを止めた。


 見事な湿原だった。草地の絨毯を這うように連なる木道が、背の高い木々の間へ消えていく。色とりどりの花が咲き乱れ、鳥のさえずる声が響く。


 自然を感じるにはもってこいの場所、と思いたかったが、それを上回る得体の知れない不気味さが漂っていた。

 こういった場所は日夜人が集うことはないにしても、あたかもこの湿原そのものが人間を拒んでいるかのような、異様な雰囲気だ。


「イチカ、気付いたか?」


 後ろから掛かる声にああ、と答え、周囲を見渡す。


 その異様な雰囲気の元は、人気(ひとけ)の無さだけではない。

 何か別の生き物が身を潜めていると、直感的に悟った。


 そしてそれが、野ウサギだのシマリスだの、そういう可愛らしい類のものでないことも。


(あね)さんが言ってたんだ。この湿原には魔物が出るから、迂闊に近寄らない方がいいって」

「冗談じゃなさそうだな」


 ジラーの言葉――ラニアの言葉だが――を聞かずとも、この一帯には異質すぎる空気が充満している。何かいるには違いないだろうと、相槌を打つ。


「しかもそいつが人を襲って、く、喰うとかなんとかって」

「魔物ならそれくらいするんじゃないか」

「ちょっとは危機感持てよーー!」

「その危機感を持つべき場所におれを連れてきたのはお前たちだろう」


 非難めいた声に釘を刺すと、ぐっと口を噤み、所在なげに視線を彷徨わせる。


「だ、だってさ、オレら今まで何回もここに来てるけど、何にも会ったことなかったし」

「それにほら、ここ結構綺麗だろ? もったいないじゃないか、そんなウワサぐらいで人が来ないなんて……」


 弁解している途中で、二人同時に「ヒッ!!」と声を上げた。

 湿地に身を潜めていたらしい何かが、ゆっくりと起き上がってきたのだ。


 姿を現した『それ』は、なるほど『魔物』の名にふさわしい形をしていた。


 頭部から空へ空へと突き刺すように伸びるモノは、よく見れば髪ではなく無数の蛇が頭上で踊っている姿。


 淡泊な顔に目の玉はなく、ただただ黒い空間が切れ長の瞼の中に収まっていて、口も耳も大きく吊り上がっている。


 更に目線を下げていけば、肉が削げ落ち骨が浮き出た痩せ型の上半身と、赤黒い下肢がとぐろを巻いている。その姿はあちらの世界の神話に聞く『メドゥサ』に近い。


「ほぅ、人間が三匹か。昨今は食に恵まれておるな」


 舌なめずりのつもりか、耳元まで裂けた口から鋭い牙と紅い舌がチロチロと覗く。呼称するならば「蛇人間」が妥当だろう。


「へ、へっ、蛇」


 まともに動揺しているらしい後ろの気配はとりあえず無いものとして、冷静に思考を巡らせる。


 この様子では戦えという方が無理な話だ。逆に返り討ちに遭うだろう。

 今この場で通常通り動けそうなのは自分だけだが、その当人は武器など持っていない。鍛錬に使っていた剣は、ラニアに預けたままだ。


 言ってしまえば、圧倒的にこの蛇人間が有利なのである。念仏でも唱えていた方が早いかもしれない。


「さて、どいつから喰ろうてやろうか」


 気ぜわしく舌を動かし、牙の内側から垣間見えるのは食にありつけるという意識の表れだろう、溢れそうな唾液が辛うじて堰き止められている。早くから自分の勝利を確信しているらしい。


 その気になれば一瞬で噛み付けるだろうに、焦らすのがお得意なのか、幼児の歩幅ほどの距離しか詰めてこない。明らかに遊ばれている。


 しかし、時間的猶予がある分、かえって他にも意識を向けやすい。

 蛇人間から極力目を離さずに周囲を見回し、正面、再び視線を巡らせた後に、ある物を見つけた。


「悪い。時間を稼いでくれ」


 一言二人に伝え、それに向かって走る。


「うぇ? ってちょっ、イチカ!? どこ行くんだよ?!」

「イチカーー!?」


 困惑めいた叫びが追い縋ってくる。


 無理もない。これだけの危機に瀕していて誰か一人抜けようものなら、そいつが仲間を見捨てたと思いたくもなるだろう。


 現にこの行動は裏切りに限りなく近い。

 だが、裏切りにはしない。


「裏切られたな、若いの。心配せずとも、儂の胃袋の中で逢わせてやる」

「ひっ……!」


 蛇人間の腕が伸び、図体に似合わぬ巨大な手のひらがカイズとジラーの胴を掴む。


 これは本格的にまずくなってきた。

 一刻も早くあれを――緑ばかりの景色の中で一際目立つ銀色を持った剣を、引き抜く必要がある。


 柄の下部と上部に赤い水晶が埋め込まれたその剣は、よほど古いものなのか錆び付いていた。

 目測で半分くらいは埋まっていそうだ。手間取らず無事引き抜けるのか、抜いたところで使いものになるのかと様々な不安はあったが、今はとにかく蛇人間から二人を奪還しなければ。

 そんな思いが全てを埋め尽くして、土に沈められた剣を引き上げる。


 手に取った瞬間、妙な既視感を憶えた。

 ほんの一瞬目の前をどこかの風景が横切って、消えてゆく。

 それが何かを理解するには、短すぎるくらいの。


 仲間が捕らえられていることとは別の胸騒ぎがしたが、早くしなければ本当に喰われてしまう。


 剣は手に良く馴染んだ。

 まるで元から自分のものだったかのように。


「うわーーん! イチカの裏切り者~~!!」

「往生際の悪い……ぬしから食ろうてくれる!」


 勝手なことを言ってくれる。詳細を伝えず飛び出したのだから、そう思われても責める立場にはないが、裏切ると言った覚えはない。


 走りながらそれらのことを考えている間に、蛇人間はいよいよ二人の身体を握りつぶそうとしていた。そこで冷静さを失うことなく、無防備な背に刃を突き刺す。


「がっ、は」


 ごふ、と口から血の塊が吐き出された。

 両手の力が抜けたのか、指の間からするりとカイズらの身体が滑り落ちる。荒い息をしてはいるものの、命に別状はなさそうだ。息をつく。


 獲物が自分から遠退いたのを見てか、蛇人間の注意は二人ではなく、こちらに向けられた。


「こ、の……餓鬼が……っ!!」


 人ではありえない角度まで首を捩った蛇人間の、研ぎ澄まされた爪が頭上に振り下ろされる。

 それよりも早く、横に薙いだ剣で蛇人間の胴体を切り離した。


 刹那、胴から上の部分は細かい塵となって空気に混じり、蛇としての下肢も、しばらくの間うごめいていたが胴体と同じような結末となった。


「すげぇ……」


 下方からの蚊の鳴くような声に気付き、視線だけをそちらに向ければ、カイズとジラーがきらきらとでも形容できる目をしながら見つめてくる。


「すごい」と言ったが、正直自分でも驚いているところだ。初めて魔物に遭遇したわりに妙に落ち着いていられた。

 それに、今まで剣など触れたこともなく、こちらに来てからようやく二、三日持っただけだ。

 それなのにあの剣は、妙に使い心地が良かった。自ら使い手に合わせてくれているような――


「あ、あの、兄貴って呼んでもいいかっ?!」

「しっ、師匠って呼んでもいいですかっ!?」


 耳を疑った。いきなり受け入れられるものでもなく、暫し唖然とする。

 しかし、明らかな尊敬の念が込められた口調と過剰に輝く瞳を見て、どうやら聞き間違いではないらしいことを悟る。


「何でも、好きにすればいい」


 そう返すのが精一杯だった。少しでも変わった呼び方が、表情には出せずともその時はとてもくすぐったく感じられた。


 翌日、『日本人』という肩書きの自分を捨てるために、ウイナーでもかなり名の知れた老婆が経営する雑貨店に足を運んだ。町民から慕われる彼女は準魔法の使い手であり、並の魔法士よりも腕が立つと噂が立つほどだ。

 

 そんな彼女が立ち上げたこの店には、一見何の変哲もない商品が並ぶ。それもそのはずで、彼女が売りにしているのはそれらではなく自らの特技。すなわち、購入した商品に一人一人の要望に合わせた準魔法を施すことで、願いを叶えられると謳っているのだ。実際に利用した人々の高評価も手伝って、少々値は張るものの、今や世界中から客が集まるほどだという。

 

 購入したのは、染髪剤と目薬。あちらでは一般的な黒の色素を完全に取り除くため、銀髪と銀眼にしたいと要望した。それは、「二度とあちらと干渉することのないように」という自分なりのまじないでもあった。三人は「もったいない」と嘆いたが、知ったことではなかった。





 長い、夢を見ていた。


 うっすらと目を開けると、みどり色の瞳と目が合った。


「起きたみたいだね」


 ミリタムが大人びた口調で声を掛けてくる。ああ、と生返事を返し、仰向けになったまま周囲を見渡す。


 狭い室内に、仲間が集合していた。

 思い思いの姿勢で眠っている者たちの中に、今最も気になっている二人はいなかった。


「自分が犯した罪を、悔いてるんだよ。尊敬すべき師に怪我をさせたことは、きっと何よりも心が痛むから」


 口に出さずとも察したのだろう。声の調子を落として語る声に目を伏せ黙り込んでいると、頭上で吹き出す気配がした。


「何がおかしい」

「右前腕骨骨折、内蔵機能の損傷、その他諸々の切り傷が数十カ所。以上が貴方の負った怪我。素晴らしいよね」


 何やら小難しい単語の羅列を並べていき、にっこりと微笑む。

 全部医者がなんとかしてくれたけど、と苦笑混じりに言いながら、わざとらしく肩を竦めて。


「本当に貴方って人は見かけによらず情に厚いというかなんというか」

「褒めているようには聞こえんな」

「安心して。褒めてないから」


 斬り捨てるような物言いに引っ掛からないではなかったが、それほど重大なことでもない。間を置かず、視線を逸らす。


「まあ、貴方が大怪我をしたおかげか何だか知らないけど、あの二人はほとんど無傷だったよ。お腹の傷は思ったより浅かったし」


 目を見開く。

 同時に、自らの内に張り詰めていた緊張感が和らぐのを感じた。心が凪いでいる。


 先ほどのミリタムの話から、どうやら立って歩けるらしいことは察していたが、ほとんど支障がないという。心の底から喜ばしいことだ。


「それと。宿の人たちだけど、奇跡的に死亡者はいなかったよ」


 続けざまに語られた朗報に、再び目を見張った。狙われた人々の生存は絶望的と思われただけに、死者が一人もいなかったというのは不幸中の幸いだ。


「その代わり重傷者多数、後遺症の恐れがある人、相当数。もちろん宿も追い出された」


 ということは、ここはどこか別のところで新たに取った宿なのだろう。

 

 死人はなくとも、多くの人々の日常を奪ったことには変わりない。

 人によっては、死よりも過酷な生活が待ち受けていることだろう。手放しで喜べる状況ではない。


「さて、と。それじゃあ僕は眠らせてもらうね。隣にいるから、何かあったら壁でも蹴って呼んでよ」


 あくびをしながら宣言した目元、うっすらと浮かぶ隈。


「待て。お前まさか、一睡もしていないんじゃ」

「あれ、よく分かったね。別にいいよ、三日くらいは寝なくても平気だから」

「……悪い」

「別にいいってば……貴方に謝られると逆に気持ち悪いよ」

「前言撤回する」


 そんな会話を繰り広げてから、ミリタムは部屋を出て行った。

 静まり返った室内は、微かな寝息が聞こえるばかりだ。


 自分の右腕を見る。

 ミリタムの言ったとおり、そこにはギプス包帯。動かそうと試みたが、激痛で指の一本も動きそうにない。

 

 使い物にならない右腕とは対照的に、左腕は何故か、とても温かく感じた。

 ずっと何かに包まれていたような安心感。程よい温もりが、再び眠気を催して。

 落ちてくる瞼に抗えず、意識を手放した。

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