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第六十一話 逸香(2)

「なあなあ、にーちゃん何て名前?」


 無邪気に問い掛けてきた逆毛の少年の顔が、一気に引きつる。

 何故かと考えて、自らの眉間に必要以上の力が入っていることに気付いた。


 意識しているつもりはないのだが、やはり関連していることにはついつい殺気立ってしまう。

 出来る限り自制し、言い聞かせる。

 

 ここは『日本』じゃない。彼は自分の過去とは全く関係ない。『あいつら』じゃない。


「カイズ! ご、ごめんなさい。訊いちゃいけないことだったわよね……?」


 申し訳なさそうに謝る少女の表情も、先ほどとは打って変わって影が差している。


 自分の感情を出さない分、他人の感情の移り変わりには皮肉なほど敏感になってしまった。

 彼女の笑顔は引きつり、明らかに怯えていた。カイズと呼ばれた少年も、その隣りにいるモヒカン少年も、後悔と罪悪に駆られたような目で見つめている。


「いや、悪かった。そんなつもりはなかったんだ。思い出したくなかっただけで」


 ぎこちなく顔を見合わせる三人。

 そうは言われても、恐怖心は消えないのだろう。ほとんど殺意のような気を出していたのだから無理もない。


 参った。あちらを離れた途端に味方を失ったかもしれない。今の時点では味方も何もないが、話が分かりそうではあった。

 それなのに、どうにも疑り深い性格が邪魔をする。初対面時の印象はその後を左右するというのに、これでは信頼を得られるかどうかも危うい。


「逸香」


 自分で聞き取るのも難しいほど、小さな声だった。これまでどおり会話したなら、おそらく誰も聞き取ることはなかったに違いない。それほど微かに、独り言のようにぼそりと呟いた。


 彼らは皆、目を丸くしている。あちらの発音が聞き取りにくかったのか、それとももう一度という意味なのか、ただただぽかんとするばかり。

 これはもう一度言わなければならないだろうなと思いながら、再び内緒話でもしているような声で告げる。


「おれの名前だ。『逸香』と書く。書くもの、あるか」


 おずおずと差し出されたペンと羊皮紙。それを受け取り、使い慣れない筆記用具に手間取りながら、漢字と片仮名で名前を書いて見せる。

 三人は互いの顔をくっつける勢いで、眉間に皺を寄せて文字に食い入る。


 どれほど時間が過ぎたのか。

 いつまでたっても変化しないその状況を見て、一つの結論に至らざるを得なかった。


「読めないのか」


 こくり、と頷く三人の外国人。

 言葉が通じて文字が違うとはどういう仕組みなんだ、と喚きたくなったが、それならば向こうの名前を書いてもらった方が手っ取り早い。

 いずれにしろ言語の勉強は免れないだろうが、毎日が同じあちらよりは退屈しないはずだ。


「あんたたちの名前を教えてくれ。言語が分からなきゃ名前も教えられない」


 再び互いを見比べる三人。顔色はいくらか良くなっているが、最初ほどの「我先に」感はない。先ほどの空気が尾を引いているのだと感じる。でなければ、わざわざ顔を見合わせたりしないだろう。


 聞こえないよう小さく溜め息を吐いたその時。

 ペンを取り、慣れた手つきで名前を書いた者がいた。


 意外さに呆気にとられているところへ、真っすぐ突きつけられる紙切れ。

 達筆なのか癖字なのか、普通に見ていても読み取りは困難だと思われた文字だが、何故かそれには見覚えがあった。


「カイズ・グリーグ! フツーにカイズ、でいいぜっ!」


 逆毛の少年・カイズはそう言うと、ぐっと右手の親指を立てて見せた。


 そして文字。よく見れば冒頭はアルファベットの『K』に見えるし、そのまま読み進めても彼の言ったとおりの名前になりそうではある。

 つまりこれは――


(ローマ字か)


 確か小学校の中学年時に習ったか。羅列してあれば英語のように見えなくもないが、読み方は日本語に近い。

 複雑な心境ではあるが、漢字仮名交じりでないだけましというものだろう。


 無言でたった今貰った羊皮紙の下方にペンを走らせる。きっと今度は読めるはずだ。


 本当ならば、その名を呼ばれることにも抵抗があるのだが。


「イ……チ、カ……?」


 やや辿々しく読み、確認するようにじっと見詰めてくる色とりどりの瞳。

 小さく頷くと、それまでの躊躇いがちな表情はどこへ消えたのか、一気にそれらの顔に『笑顔』が戻った。後ろに控えていた少女と少年が、勢いよく名を書いてゆく。


「イチカっ、イチカっ、イチカ! うんっ、憶えたっ。あたしラニア・クラウニー! ラニアって呼んでね」

「オレはジラー・バイオスっ! よろしくイチカ!」

「オレの名前忘れんなよー!」

「……ああ」


 本当になんなんだ、この連中は。


 何度も名を呼ばれたが、全く嫌悪感を感じさせない。むしろ心地よくさえ思える。日本語とローマ字言語と、ここまで違うものなのか。それとも同世代で名を呼んでくれた人が、『ハルカ』しかいなかったからなのか。


 どちらにしろ胸の奥はわだかまりが無くなったようにすっきりしていて、すがすがしい。これを「嬉しい」というのかもしれない。

 名付け親すら呼ばなかった名を、唯一心を許せた『ハルカ』だけが呼んでくれた名を、他人に呼んでもらえたのが意外にも、嬉しかったのかもしれない。なんでもいいから偽名を名乗ろうかと思いかけたりもしたが、結果的にそうしなくて良かった。


 それから、彼らは怒濤の勢いで自己紹介の続きを始めた。


 ラニアの家は代々続く銃士一族で、彼女自身も腕が立つということ。

 十二歳という若さで既に婚約者がいるのだが、その婚約者がどうしようもなく女好きで困っているということ。


 カイズとジラーの二人はどちらも珍しい武器を持っており、強い戦士になるため武者修行中だということ。

 二人ともとても仲が良く、『漫才』でも見ているようだということ。


 ちらほらとあちらを連想させる言葉が飛び交うものの、彼らの会話が興味深く、不快さはほとんど感じなかった。


 数日も経たないうちに、この世界をほとんど学び尽くした。

 四百年前、『アスラント』を救ったとされる巫女の伝説。

 この世界の遙か上空には『魔星ませい』という魔族の住まう星があって、そこから彼らは絶えず侵略の機を(うかが)っているという論説。

 『兎族(うぞく)』やかつて存在したという『エルフ』といった、人間以外の生物について記した存在論。


 元々読書は好きだったため、本を読む機会が多くなった。ローマ字読みのため多少時間はかかったが、読むたびにこの世界のことを知った。その数だけあの世界を忘れていった。

 自分の中の常識が、この世界の常識に等しくなっていく。それ自体に何の抵抗もなかった。


 およそ半年が経ち、ラニアらから剣技を教わった。

 この世界では、老若男女問わず多くの人々に武術の心得があるらしい。野生の生き物に対処するためでもあるが、他にも低級の魔物や盗賊、暴漢が当たり前のように出没するからだという。


 剣を握った瞬間、何故か「出来る」と思った。


「なかなか良い線いってるわよ! ホントに日本から来たの?」


 最初の出会いの時点でこちらの出身地についてなんとなくは気付いていたようだが、はっきりとそう伝えたのはいつだったか。

 茶化すようなラニアの言葉が、内心の読みを確信に変えた。


「たまに、思うんだ。おれは何かの手違いで向こうに生まれついて、本当はこっちで生まれるはずだったんじゃないか、ってな」

「まあ、良くある話よね。でも」


 おもむろに腰の銃に手を伸ばし、空に向けて放つ。

 空気を割るような音が辺りに響き渡り、木々の合間から鳥たちが群れを作って慌てて飛び立っていく。


 どことも知れない異境に飛んでいく鳥と、腰に手を当て誇り高げに空を見上げる少女を交互に見詰め、やれやれと溜め息をひとつ。


「自然を大切に、って言葉があるだろう」

「今は別よ! イチカはイチカであって、イチカ以外の何でもないのよ。分かる?」

「……つまり?」

「いい? どういう形だってあなたは向こうの人なの。生まれる権利があったの。『あんな世界に生まれたくなかった』とか言ったところで、あなたがあなたであるっていう事実も、過去も変えられないのよ」


 なるほどな、と呟いて、大空を仰ぎ見る。

 こちらに来ないままあの世界で一生を終えたとしても、それは『ニホン人』としての人生だ。どんなに拒んでいたって、生まれた場所が「こう」と決められたらそれに従うしかない。

 自殺することを考えていたのだから、尚更生没が同じになってしまうところだった。生きているうちはどこに居ようと、この血が流れている限りは『ニホン人』なのだ。


「けど悪いな。嫌いなものは嫌いだ」

「そう言うと思って最初から期待してなかったけど」


 苦笑混じりにラニアが言った矢先、銃声を聞きつけてか、カイズとジラーが駆けて来た。


「あーねーさん! すっげー分かりやすいけどすっげー心臓に悪いその『喝』どうにかならねえの?」

「違う違う、射撃の練習してたのよ」

「ぜってぇウソだ……」

「ん? 何か言った?」

「ナニモイッテマセン」


 のらりくらりとカイズの問いをかわした所を見ると、これからも『喝』の度に銃声が響くことは避けられないらしい。


 少女らしい笑顔の奥に潜む仄暗い何かを感じ取ったのか、カイズもジラーもそれ以上口を開くことはなかった。


「あ、そうだイチカ! 面白いところあるんだ! 一緒に行かないか?」

あねさんは禁止な! 男だけの秘密基地だから!」

「あの湿原じゃないでしょうね?」

「ちげーよ! じゃっ、ちょっとイチカ借りるなー!」


 ジラーの提案の意味は果たしてあったのか。

 ラニアの追及をかいくぐって、いつの間にやら背後に回っていたカイズが背中を押し、半強制的に「あの湿原」へ赴く羽目になった。

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