第五十八話 紅の剣(1)
強く願っても拒んでも、暗殺を覚えている腕は止まらなかった。
もう何人攻撃しただろうか。逃げ惑う人間の背中がひどくちっぽけに見えて、こんなことは止めたいと願う心とは裏腹に、歯止めの利かなくなった足と腕が、もっと血を見たいと叫ぶ。
脳で判断するよりも先に身体が動き、刹那、悲鳴も上げることなく緩やかに倒れるヒト。
そうしてまた、飽きるほど続く、飽きのこない風景が繰り返される。
いつになれば、この生き地獄から解放されるのだろう。
本体が四肢に支配されている異常な状態は、いつになったら終わりを迎えてくれるのだろう。
――いっそのこと、殺してくれ。
誰でもいい。何人がかりだろうと構わない。
そうすればこの悪夢は終わる。何の罪もない人々が、一個人の勝手で負傷することもなくなる。
意思に反する『索敵』の合間、今の状況では酷く懐かしくすら思える気配とかち合った。
苦笑するしかなかった。もっとも、こんな顔では苦笑していることなど分からないだろうが。
彼ならきっと、この壊れた人格を消してくれる。
予感にも似た期待は、されど一瞬にして黒く塗りつぶされた。
自らが弾き出した、『強敵』という評価によって。
考えてみれば、いつも彼を見るときは後ろ姿か横顔ばかりだ、と碧は思う。
正面からその顔を見たのは殺されかけたときくらいだろう。
思い起こされる、憎悪の表情。
見下ろす瞳の、なんと冷たかったことか。
今助けてくれたということは、あのときほど負の感情を抱いているわけではないのだろう。しかし、まだ全てを知ったわけではないし、気を許してくれたわけでもない。その冷たくも美しい顔と向かい合って会話できるのは、まだ当分先のことになりそうだ。
そこまで考えて、聴覚を刺激する違和感に気がついた。
どこかから水音がする。
今まで音と言えば、目の前で三人の少年が噛み合わせている武器のそれぐらいだったからか、余計に気に掛かる。
それほど遠くではない。周囲を見渡し、ある一点に視線が定まる。イチカの両足の間であった。
そこには黒っぽい何かでできた水溜まりがあり、どこからか不定期にこぼれ落ちている。音の正体はそれらしかった。
碧はようやく悟った。
状況は思っていたよりずっと深刻なのだ、と。
「イチカ、怪我して……!!」
「黙っていろ」
彼に起こっている事態を理解し狼狽える碧の悲鳴は、しかしイチカの冷静な声により遮られる。
幸か不幸か、それまで静止していた少年らは碧の声を合図としたか、暫しの睨み合いの末後方へ大きく跳んだ。
対峙する師弟。
今までと違うのは、これがただの手合わせの一コマではないということ。
「奴の思惑通りになったわけだ」
自嘲気味に呟かれた言葉には、諦めに似た感情が込められていた。
この状況に対する台詞だとすれば、「思惑」というのは先ほどまで戦っていたあの青年のものだろうか。それならばつじつまが合う。
今だけではない。イチカが咄嗟に飛び込んで碧を助けたときも、それ以前にも、彼らの殺気は止むことを知らなかった。それどころかより一層その気が増した気がする。兄貴分、もしくは師だったはずのイチカを見上げる二人分の双眸は、揺らぐことなく吊り上がったままだ。
「お前たちがやったのか」
どこに目をやっても石のように転がる人々。あるものは貫かれ、あるものは叩き潰され、血塗れになった者たち。
問い掛けたところで答えが返ってくるとは思えなかったが、それでも訊ねずにはいられなかったのだろう。現実を直視してもなお、「彼らがやったのではない」と信じたいのかもしれない。
当の被疑者たちは、やはり口を閉ざしたままだ。言い訳でも良いから経緯を語ってほしいと、イチカをはじめ皆が願っているだろう。想いは届かず、敵意も殺意も変化がない。彼らにはもはや、何の反省も後悔も期待できないだろう。
「……そうか」
それでも、少なくとも理解はしてやろうとしたのか。黙して語らぬカイズらの顔、瞳を見つめたまま、イチカはぽつりと呟いた。まるで彼らが口に出さずとも「自分たちが犯人だ」と肯定したかのように。
様子見のような対峙は束の間だった。
かけがえのない仲間の姿が一瞬にして掻き消え、イチカへと迫る。重量も形状も異なる二つの武器を器用に一本の剣で受け止めながら、イチカは両の足で踏ん張る。血だまりがまた増える。
(どうしよう。イチカが)
焦燥感を募らせる碧とは対照的に、イチカは終始落ち着いていた。
「覚えておけ」
くっ、と支えた状態から僅かに持ち上げた剣に左手を添える。
瞼を閉じて、剣に注ぎ込むように、願うように。
「お前らの兄貴分はしぶといんだ」
銀の双眸が開かれたとほぼ同時、刀身が赤く染まっていた。
「あれは!?」
「分からない。けど何か、特殊な作用があるみたいだね」
碧よりもさらに後方で見守っていた白兎の叫ぶような問いかけに、しかしミリタムは目を伏せる。魔法のことならば自負するほど詳しい彼だが、一般の武器にはあまり関心が無いせいか疎いようだ。
「殺気を武器に練り込ませるような剣なら聞いたことがあるけど、あれはちょっと型が違うし。前から思ってたんだけど、イチカの剣ってどこで買ったの? ねえラニア」
「――えっ?! あっ、と、ちょっ、まっ……痛っ」
いきなり話を振られ、柱に隠れるようにして屈み込んでいたラニアは立ち上がろうとして――しかし身体がついていかず、後ろ向きにひっくり返った。それでも頭と膝は地面に付いているのだから、柔軟性が高いのだろう。
それを偶然とはいえ目撃してしまった白兎とミリタムは暫し唖然とした後、口を開いた。
「へえー、やっぱり銃士は派手なリアクションが売りなんだね」
「銃士って言うよりァ劇団やってる方が似合ってねェか?」
「おーきなお世話よ」
頬を赤らませながら起き上がり、ぱんぱんと身体中を叩く。彼女らなりに気を遣っての言葉だったのだろうが、かえってラニアの羞恥心に拍車をかけてしまったらしい。
「で、なんだったかしら。……ああ、イチカの剣ね。どこかで拾ってきたみたいだったけど、よく分からないの」
思わず顔を見合わせる白兎とミリタム。拾ってきた剣にあれほどの特殊効果があるとは、と言わんばかりだ。
その視線は自然と、再び戦い始めた少年らに注がれる。
金属の弾き合う音が不快なほど、耳によく残る。
互いを削り取るような感覚。全て擦り切れた方が事切れる。
こんなに激しくて息の詰まるような苦しい闘いなど見たくなかった。どちらが勝っても、振り払えそうにない沈痛な空気。
叶うならば、仲裁に入りたい。しかし、無言で打ち合いを続ける彼らが心で告げている。「手出し無用」と。
「……だ」
だからといって、そのまま行く末を見守るのは碧にとっては困難なことだった。今すぐ駆けだして、彼らの戦いを止めたい心。それをさらに制止しようとする体が、危ういところで均衡を保っていた。
「いやだ……」
だからこそ、これ以上は見るに堪えなかった。
この闘いを止めてはいけないことは分かっていた。一部始終を見ていたらいつか必ず足が動き出してしまいそうで、怖かった。けれど、目をそらすのはもっと嫌だった。
「いや。いやだよ。こんなの、いや……!!」
「そんなら、止めさせてみっか?」
独り言に近い叫びに、誰が応えると思うだろう。
場違いなほど陽気な声に振り向くと、そこには場違いなほど明るい柑橘色の影があった。
見覚えがあった。それもそう昔のことではない、ほんの数十分前。
その人影は確かに、イチカと戦っていた青年だった。




