第五十四話 Pathos-パトス-(2)
「あいつも強くなったなー」
碧に支えられたカイズの後ろ姿を見送ってから、ウオルクが感慨深そうに呟く。
イチカは右手に抜き身の剣を携えたまま、瞬きの一つもしないでウオルクを監視している。
つい先ほどまで『死闘』を繰り広げていたとは思えないほど緊張感の欠片もない相手にも、警戒心を緩めるようなことはない。どんなに小さな兆しであろうと、「戦う意思」を感じ取ったその瞬間、一瞬で相手の首筋に刃先を宛がうだろう。
「昔は雛みてーにオレの後ろを付いてきてたってのに……やっぱあいつら才能あるわ」
一人うんうんと頷いていたウオルクは、ふとイチカに目をやったかと思うと溜息を吐きつつ肩を竦めた。殺気が強化されたことに気付いたようだ。
「そういきり立つなって。オレは何一つ嘘はついてねーよ」
「信用できんな」
言葉通り、不信感を前面に押し出した低い声を発するイチカ。それを受けて「おカタいヤツ」と明後日の方向に目をやりながら呟いたウオルクだが、この静かな空間では遮られることなくイチカの耳に届いている。
しかし、彼にとってそんな陰口はおそらく些事にすぎない。鋭い眼光は、弟分たちを斬りつけられたその時からずっとウオルクを突き刺し続けている。
そのような状況下では多少なりとも居心地の悪さを感じそうなものだが、ウオルクはやはりどこか余裕のある表情のまま、それでいて隙らしい隙も見せない。
暫し何事か考える素振りを見せた挙句、無垢とすら言える笑みを向けて。
「あいつらが団を抜けた理由、教えてやろうか?」
「聞きたくもない」
名案とばかりに放たれた問いを秒速で、当然のごとく吐き捨てる。
元々イチカはこの青年を信用していない。どんな事情であれ、自分の仲間を傷つけた人間の話に傾ける耳はないのだ。
その上「暗殺集団に所属していた」前提の話など、イチカからすればたとえ作り話であろうと不愉快でしかない。
全身から拒絶反応を示すイチカの感情を逆なでするように、ウオルクはわざとらしく大声を上げ語り出す。
「そーか聞きたいかぁ! 五年前、カイズとジラーは団長も認める優秀な人材になってた。そこで団長は、ひとつ条件をつけた」
聞いてもいないのに話し出したことに対して不快感はあるものの、それ以上の感情はない。自身とは真逆の性質を持つ人間にはどうしても苦手意識が湧く、ただそれだけだ。多弁なら好きなだけ喋らせておけば良い。何を言おうがどうせ虚言なのだから、聞き流してしまえばいい。
イチカはそう心に決め、やり過ごす――つもりだった。
「『街に出してやるから一人でも多く暗殺して来い。信頼できる仲間っていうのが、一番殺し甲斐があ――」
全て話し終える前に、ウオルクが背を預けていた木が音を立てて倒れた。
頭頂部からほんの僅かな隙間を残して、決して細身ではない幹が両断されている。
イチカはその場から動いていない。
真実を物語るのは、比較にならないほど膨張した殺気と、右手に持つ剣の角度。
彼は一歩たりとも動くことなく、剣圧だけで木を切り倒したのだ。
ウオルクもそれを理解したらしい。多少目を見開いていたものの、相変わらず飄々とした口調で不平を垂れる。
「危ねーなー。オレは何一つ嘘はついてねえって、」
またしても言葉は続かなかった。橙色の瞳が斜め下方に向けられる。
首筋に銀色の切っ先が当てられていた。
「それ以上ふざけたことを言うようなら次は貴様を斬るぞ」
「おいおい、これじゃあオレが不利じゃねーか」
低く紡がれた最後通牒にも、怯むどころか不服の声を上げ続けるウオルク。
「フェアに行こうぜ? お前もこういうのは好きじゃねーんだろ? せめてオレに武器くらい取らせな」
イチカは黙したまま剣を引いた。
不本意ではあるが、ウオルクの言い分は的確だった。
圧倒的有利な状況にもかかわらず殺さなかったのは、そもそも命を取ろうとまでは思っていないからだ。本当に殺す気ならば、警告や寸止めなどせず勢いのまま、その首を落とせばいいのだから。
年老いたようにのろのろと立ち上がり、大剣を取りに行くウオルク。カイズの技は、優に数十キロはある武器が吹き飛ぶほどの威力だったらしい。
ようやく剣を手に握ったウオルクは、溜息混じりに肩に担ぐ。
「何度も言うけどな、オレは正直者なんだ。あいつらは確かにガイラオ騎士団員だった。いや、今もガイラオ騎士団員だ」
「馬鹿げているな。たとえそうだったとしても、カイズやジラーはあんたを拒んだ。戻る意志が無い証拠だ」
カイズは確かに武器に手を掛けたが、一瞬だった。ジラーにおいては終始気の迷いは無かった。
仮にもし人殺し集団の一員だったとしても、揃って反抗の意思を示したのは事実。今更かつての師が現れたところで、結果は同じだろう。
「――どうかな?」
ウオルクはそれだけ言って、意味深に唇をつり上げた。
「……貴様、何を――」
言い知れない危機感を覚えたイチカが問いただそうとしたその瞬間、宿から轟音が響いた。
響き渡る、恐怖と困惑が入り混じった叫び。
そして、突如膨れ上がったふたつの気配。
そちらへ目をやり、唇を噛み締める。
「何をした……?!」
殺気だ。それも、イチカにとっては弟同然の。
怒りの矛先は当然の如く、長大な剣を携えた青年に向けられた。
しかしウオルクは、戯けた口調で返すだけ。
「オレはなーんにもしてねぇよ? あいつらがやっと目覚めたんだろ」
「くそっ!」
こいつの相手などしていられないと宿へと駆け出すイチカだが、光のように目前に現れた影に行く手を阻まれる。
ウオルクだった。
イチカは異様な物でも見るような目で彼を凝視した。
否、異様に決まっている。あれだけ離れていて、あれだけ巨大な剣を持っているというのに、反応速度が尋常ではない。
「お前の相手は、オレだろ?」
冷酷な笑みすら浮かべ、ウオルクはそう囁く。
間髪入れず、大剣による重圧が襲いかかる。
イチカはただ、歯を食いしばるしかなかった。
舞い上がる鮮血。倒れてゆく人々。膨大な殺気。
何故こうなったのか、分からない。
きっかけなどない。突然突き飛ばされ、再び視線を向けたときにはそうなっていた。
目の前に倒れ伏している人がいた。ぴくりとも動かない。
目に映る風景はただ、赤一色。
「なに、これ?」
それでもなお、碧の脳は事態を理解していなかった。
否、理解しようとしていなかった。彼女自身が理解を拒んでいた。あるいは、夢なのだと。決して信じられるようなものではない。
逃げ惑う人々を刺し、殴っているのがカイズとジラーであるなどと。
「何かの、間違いだよね? これ、夢だよね?」
確認したくて、安心したくて、隣で同じように立ち尽くしているラニアに苦笑を向けるが、彼女は呆然と二人を見つめたままだ。
「どうかしたのか!?」
「今の音は……?!」
緊迫した声とともに、魔法士の少年と兎族の少女の姿が視界に映る。
ああ、と碧は確信した。
(夢じゃ、ないんだね……)
「お、オイ??」
碧の頬に伝った涙を見て困惑する白兎。
ミリタムも黙り込んでしまった二人に戸惑った様子だったが、瞬時に後方を振り返った。殺気をまとった何者かの気配を感じ取ったらしい。
その主が、つい数時間ほど前まで会話を交わしていた者たちと分かると唖然とした表情を浮かべる。
白兎もその赤い双眸に彼らを、血の滴る武器を映し、事態を察したのだろう。動揺を隠しきれない。
「どうしちまったンだ、あいつら? まるで、別人みてェに」
「……まさかとは思うけど」
白兎もミリタムも、事の経緯は知らないが――目の前に広がるこの惨事を見て、『誰がやったのか』は嫌でも理解したようだ。
何よりも物を言うのは、彼らから放出されている溢れんばかりの殺気。
僅かな黙考の末、両手で三角形を作るミリタム。魔法の起動だ。
「其は灼熱の化身・烈火の象徴・全てを焼き払え! 【火蜥蜴】!!」
徐々に開けた三角形から、火を纏った巨大な蜥蜴が飛び出す。
火蜥蜴はその胸を大きく膨らませると、次の瞬間、大量の炎を吐き出した。
熱線の行き先がカイズとジラーであることに気づき、白兎が慌てふためく。
「おっ、お前、仲間を殺す気か!?」
「心配無いよ」
どこが心配無いンだ、と叫ばずにはいられないはずだ。既に炎は二人に、二人だけに命中し、そこだけを焼き尽くしている。避ける時間など欠片もなかっただろう。
なおも喚き立てていた白兎だが、ミリタムの面持ちがより神妙なそれに変わったことに気づいたようだ。その視線を辿り、愕然とする。
炎は確実に、彼らを捕らえていた。
にも関わらず、炎の中うごめく影があった。
そればかりでない。油を注いだかの如く燃え盛り、勢いを保っていた火力に変化が現れた。
目に見えて、威力が落ちている。




