第四十三話 聖域にて(2)
耳障りな音が、ラニアの鼓膜を刺激する。
今すぐにでも耳を塞ぎたかった。しかしその唯一の手段である両手は、後ろで拘束されている。顔を背けようとしても、すぐに骨張った長い指が彼女の顎を捕らえ、正面に――黒龍に戻されてしまう。
牙の隙間から魔法士のローブが見え隠れするたび、目を瞑った。口の端から血が滴るたび、小さく非難の声をあげた。それは間違いなく、ミリタムという人間の血であるからだ。
唯一の救いは、本格的に咀嚼したり嚥下する様子が見られないことか。遊びのつもりか嗜好なのか甘噛み程度に留めているようだが、それがいつ食事に変わるとも限らない。予断を許さない状況だ。
今彼女らのいる空間は、既に負の感情で溢れかえっていた。
ラニアが涙を流し魔法士の名を呼んでは、黒龍と背後で動きを封じている男を狂喜させている。
ラニアとしては即座に手を振り払って助けに向かいたいのだが、癪なことに頼みの綱である銃は小石と見紛うほど遠い場所に転がっている。仮に拘束から逃れたとして、そこに辿り着く前に男が飼っている獣に瞬殺されるのが落ちだろう。
今、また黒龍が一声をあげた。
実際にはそれほど大きな唸り声ではないのだろうが、巫女の森に張り巡らされている結界の効果か、それは木霊となって長く反響する。
魔法士の術が破られ、彼があの黒い化け物の餌食になったのはいつのことだったか。
それほど時間は過ぎていないはずなのに、何時間も何日もこの場にいるようだった。
『ここは間違いなく聖域ですから、魔族は入ってこられないでしょう。――』
それだけ告げて、イチカらと共に森の奥へ消えていった巫女の姿が急激に甦る。
(余裕で入ってきてるじゃないのよ)
そういえば、サトナは何処へ行った。案内だけで帰ってくるのではないのか。そもそも巫女ならば、どこにいようとこの禍々しい邪気に気づいて何らかの対応を取るものではないのか。
「くくく……愉快なものだな。魔法士と言えど、所詮は人間。気味が良くて堪らんな」
「最ッ低……」
サトナに対する憤りをままならない現状へのそれと受け取ったのか、獣配士は大層満足げだ。ラニアの小さな反抗が聞こえているのかいないのか、あとはただ冷淡な笑みを浮かべている。
(とにかく、この状況をどうにかしなくちゃ)
カイズやジラーは、と身動きが取れないラニアは目を動かす。強力な瘴気をまともに浴びたためか、遠目で見ても藻掻いているようには見えるが、起きあがる気配は毛頭なかった。期待は持てそうにない。はぁ、とラニアは瞑目する。
(あたしの一生もこれまでかしらね。それにしても最期の光景がこんなのなんてちょっとエグいわよ)
などと心の内で愚痴をこぼしながら、わざと後ろの魔族にも聞こえるように再度溜息を吐く。そして、意を決して手を振りほどこうと力を込め――
「【兎使法・白ノ発】!!」
聞き覚えのある、今の状況では懐かしくさえ感じられる声が負の気を払う。
反射的に開いた目が映したのは、苦しげに身をくねり悲鳴をあげる黒龍と、その足元に降り立った白い影。
ラニアはあ、と間の抜けた声を出した。
(白兎のこと忘れてた)
小屋で彼女を介抱していたのはラニアなのだが、それすら忘却するほど切羽詰まっていたとも言える。
とはいえ、もうもうと爆煙が上がるなか力強く立っている兎族の少女の姿は頼もしい。無意識のうちに輝く瞳は、もう一つの事実を映してさらに見開かれた。
さすがに魔星上位種の龍は、僅かな隙に口を開けただけであまりダメージも受けていないようだったが、口の中にあるモノを落とすほどの一瞬ではあったらしい。白兎が小脇に抱えているのは紛れもなく魔法士の少年だった。白い毛皮に血痕がべっとりと付いていて、まるで彼女がミリタムを半殺しにしたようにも見える。
「……あたいがいねェ間に、すげェことになってたみてェだな?」
濃紺のローブの上からでも分かる夥しい出血量を見れば、黒龍にとっての甘噛みでも人間とは桁違いの咬合力であることを思い知らされる。だが、ミリタムを抱える白兎には微かではあるが鼓動が伝わった。白兎は苦渋に満ちた表情を浮かべ、きっと黒龍を見据える。
「おうてめェ! あたいの下僕をこんな目に遭わせるとは良い度胸じゃねェか!」
(誰がいつあなたの下僕になったのよ)
ここ最近の態度は多少改善したかに見えていたが幻だったようだ。相変わらずの調子に目を据わらせるラニアだが、心中でのぼやきが通じるはずもない。
白兎の声に反応したのか、黒龍がぐおぉと低く唸る。白兎は「あァ?!」と眉間に皺を寄せると、ミリタムの首根っこを掴み黒龍に突き出した。
「こんな奴が美味かった、ッてか?! トップクラスのクセしてよくもまァそんなことが言えンな! ハッキリ言ってやるけどな、こんな根性悪なませガキが美味ェなんて言う奴はよっぽどの味オンチだぜ!」
「……白兎……それちょっと……酷い」
獣同士だからなのか理屈は不明だが、どうやら言葉は通じるらしい。ミリタムが息も切れ切れに不服の声を上げるが、耳に届いているのかいないのか彼女は無反応である。
黒龍が再びぐぉ、と発し、白兎が複雑な表情を浮かべる。
「……うッせェよ。コイツにはバカでかい借りがあンだよ。返さねェと気分悪ィぐらいにはな。別にあたいだって、好きで同行してるワケじゃねえンだ。人間共に手柄を横取りされたくねェだけだからな」
「手柄?」と首でも傾げるように短い咆哮が上がる。
「あァ。てめェら魔族を、ぶッ倒す手柄だ!」
白兎が不敵な笑みを浮かべて走り出したのと、黒龍が大口を開けて向かっていったのとは同時だった。
白兎としては意表を突いたつもりだったようだが、そこは高位の魔物。僅かな気の変化を読んだのかもしれない。
けれども白兎は、そんなものは誤差の範囲内とばかりに勢いをつけ高く跳躍する。黒龍の真正面だ。白兎はさらに獰猛な顔つきで笑いかける。
「よォ、三流ドラゴン」
どうやらそれが逆鱗に触れたらしい。地鳴りと聞き違うほどの唸りを上げ、顎が外れんばかりに口を広げ、獲物に食らいつかんとする黒龍。対する白兎は意外なことに避けもせず、完全に飲み込まれる。
黒龍はその肌と同じ双眸を丸くしていたが、次には森中に勝利の雄叫びを響き渡らせた。
白兎の登場に一時は歓喜したラニアたちも、あまりにもあっけない決着を見て拍子抜けするしかない。
「何しに来たのよ、あの子……」
ラニアは呆れと言うよりは困惑の表情を浮かべて、獣人の少女とは対の色を成す龍を見つめる。白兎を食えたことがよほど嬉しいのか、先ほどから不定期的に歌うように鳴き声をあげている。
(さてはあの龍、オスね)
半ば投げやりになりながら分析していると、不意に黒龍の歓声が止んだ。どこかおろおろと忙しなく動き回っている。
(今度はダンスでも始めたの……?)
非現実的な疑問を浮かべている間にも、黒龍の動きは見ている側が苛立つほど増えていき、ついには先ほどまでとは明らかに違う、苦しそうな慟哭まで上げ始めた。
「下手物だったワケ? 白兎って」
白兎がその場にいないのを良いことに、ぽつりと呟くラニア。どうせすぐ目の前まで死期が迫ってるんだから、ちょっとくらい悪口言ったって良いでしょ。という自棄気味な心情からつい口を突いて出た言葉だったが――
瞬間、黒龍の腹が弾けた。
大小様々な肉の断片や血が、次から次へと雨のように降り注ぐ。
支えを無くした黒龍の上体が崩れ落ちて、ラニアはようやく事態を把握する。
その影から全身を紅黒く染めた白兎と、とばっちりを受けたミリタムとが姿を現した。
「だから三流だッてンだよ」
黒龍の死骸に吐き捨てる白兎。彼女はこともなげに言うが、真っ向勝負ではまず勝ち目はなかっただろう。現に不意打ちで放った兎使法も、お世辞にも効いているとは言えなかった。
どんなに屈強で固い外皮を持っていても、内臓まで鋼鉄に覆われた生き物はおそらくいない。白兎はそこに賭けたのだろう。内側から兎使法を連発すれば勝機はある、と。
とはいえ、敵の体内に入るという発想は普通は湧いてこない。魔法ならまだしも武器攻撃ではあまりに無謀だし、かつての芋虫の臓腑でも全く役に立たなかった。ミリタムを巻き込んだのはよほど自信があったからだろう。単に手放すのを忘れていただけかもしれないが。
なんにしても、兎族である彼女でなければできなかった。
労りと感謝の視線を注いでいたラニアだが、逆に鋭い視線を投げられた。ミリタムを木陰に座らせてずんずんと近づいてくる。
ラニアは内心「マズイ」と焦っていたのだが、後ろの男は相変わらず手を離す気配がない。黒龍を倒したというのに、新手には目もくれないのか。
白兎の不機嫌そうな顔が目前に迫って、ラニアは思わず顔を引きつらせた。
その表情もだが、彼女の身体中にこびり付いている血が悪臭を漂わせているのも原因だ。強ばった顔面を、なんとかほぐして笑みの形にしようとする。
「あ、あーら白兎。ご機嫌麗しゅう……」
「なァにがご機嫌麗しゅう、だ。普段からそんなキャラじゃねェだろ」
目を据わらせたままの鋭い指摘に言葉に詰まるラニアだが、すぐに話題をかき集める。
「そういえば、随分元気になったのね? 神力の水で二日酔いみたいになってたと思うんだけど」
「あァ。喉元過ぎればじゃねェけど急に楽になったンだよ。耐性がついたのかもな」
頭から爪先まで血まみれなので混乱しそうになるが、それらは全て返り血であり彼女自身は五体満足。聖域が苦でなくなったのなら喜ばしいことだ。彼女にとっては忌まわしいことだろうが、人間に近い遺伝子が関係しているのかもしれない。
安堵して気が抜けていたラニアに白兎は更にぐっと顔を寄せると、そのままにたぁと笑う。
「ま、下手物は下手物なりに頑張ったつもりだぜ?」
(やっぱり聞こえてたのね……)
逃がさないとばかりに禁句とも言うべき言葉を敢えて強調する白兎。ラニアはもう血臭と殺気で倒れそうになるのを必死に堪え、愛想笑いを続けた。
白兎はフン、と勝ち誇ったように鼻を鳴らすと、ようやく顔を離す。
「まァいいや。てめェはとにかく後回しだ。問題は――」
僅かに強張ったラニアの肩を掴み、彼女の後ろに立つ男に殴りかかる。
男――獣配士は避ける間もなく白兎の一撃を受け、地面に転がり込んだ。
間髪入れず仰向けに倒れ込んだ獣配士の上にまたがり、その顔を連続で殴る。相当の威力があったのか、通算して四発程度だと言うのに彼の顔は腫れ上がり血だらけになっていた。
先ほどまでの余裕が嘘のように、されるがままになっている獣配士。そして、人間たちを縛り付けるような強烈な瘴気もいつの間にか薄れている。彼らが纏っている瘴気の濃度は、もしかすると体力と密接に関係しているのかもしれない。
(だとしても、いつの間に? もしかして、あの黒龍を従えることはこっちが思ってる以上に体力を消耗することだったの――?)
いずれにしても、未だに白兎にのし掛かられて動く気配のない獣配士からは特定できない。ラニアは彼らから距離を取り、暫く様子を見守ることにした。




