第四十二話 聖域にて(1)
森が、木々が揺れ始める。今そこで起きている『緊急事態』を互いに語り合うように、注意し合うように。
それは、人間では聞き取ることの出来ぬ超音波を発し、警告し合う動物に似ていた。
『彼ら』は落ち着いていた。本来ならば在るはずのない瘴気がそこにある時点で、通常ならば突風が吹いたようにざわめき出すはずである。
けれどもずっと昔から――この世界が創世された頃からその場に立っている老木たちは、まるで日常茶飯事だと言わんばかりに、囁くほど小さく語り合っているだけであった。
普段ならば全く無口な彼らだが、このときばかりは語り出さずにはいられなかったのだろう。
内容は至って取るに足りない、しかし見過ごすわけにはいかぬ事柄。
一つは、異世界の少女から立ち上る光の柱。
もう一つは、森の入り口付近に現れた強大な力を持つ魔族。
後に救世した巫女がこの森を治めてからというもの、客人が増え始めた。最初は流浪する旅人、数日後には巫女の力を聞きつけた見習いの者。それが数日ではなく、数時間おきに変化したのは間もなくのことである。
彼女が現れてから、この森は生気を持った。
彼女が来てから、森は聖域として知らしめられた。
彼女が滞在するようになってから、『彼』が訪れた。
【もう、四百年も昔になろう。あれが来なければ、この世は今少し安定していただろうか】
【あの戦がなければ、彼女は無駄な感情に傷つき、衰えずに済んだろうか】
【意識として尚存在する必要もなければ、異国の少女を喚ぶこともなかったのだろうか】
【考えても無駄であろう。動き始めた時は、二度と止まらない。例えそれが間違っていても】
【歴史と言う歯車は、なんと扱いにくいことか……】
木々は、光の柱が吸い込まれてゆく空を見上げた。
どこまでも青く、褪せることのない空。どこまでも果てのない空。
果てがあると知ったら、この世の者たちはどんな顔をするだろうか。
同じように、空を仰ぐ少年がいた。
澄まし顔の木々とは裏腹に、少年の顔は僅かに強張っていた。
突然だった。一瞬、光が降り注いだように頭上が明るみを帯びたのだ。
どんな光よりも眩しいそれを見上げた途端、彼は硬直した。
光は降り注いでなどいなかった。明らかに地上から、それもそう離れていない、この森のどこかからそれは伸びていた。
さながらそれは、空と地上を結ぶ『道』。
「なんだ……?」
何故か、声が震えた。喉の奥が渇いて、うまく発声できない。自分ではない誰かの口のようだった。
たかが光。それが少しばかり集束し、増幅しているだけだ。何を恐れることがある。
何度心で唱えても、無駄な努力だった。何か見てはいけないものでも見てしまったような、後悔。それが心の片隅にこびり付いて離れない。
(そもそも、何故いきなりあんな光が現れた?)
疑問を思い浮かべた途端、先ほどまであった恐怖心は嘘のように掻き消えた。
まるで、その答えに辿り着くことを自分自身待ち望んでいたかのように。
自分が自分でないような違和感を抱えながら、突如伸びた光の柱を見据える。
(何がある? あそこに何がある? おれはどこから来た?)
いつの間に歳を取ったのかと思うほど、一瞬で思い出せない記憶。子どもの落書きのようなぐちゃぐちゃな何かが、思考回路を悉く遮断する。
散らかった情報を紐解く合間、一人の少女が脳裏を掠めた。
まさしく光と闇。明と暗。自分とは全てが正反対なのに、確かに同じ世界にいた少女。
「まさか」
『マサカアイツニナニカアッタノカ』
誰とも知れない声が内を支配する前に、彼は走り出していた。己の意志などまるで無視して、身体がそちらへと向かう。
『もう一人の自分』に抗うことができない歯がゆさを感じながら、彼は冷静に考える。何かがおかしい、と。
あの世界の全てが嫌いで、あの世界の人間が嫌いで、彼女も殺したくなるほど嫌いだった。それなのに、どうしてこんなに必死なのだろう。
(馬鹿馬鹿しい)
本来の自分を取り戻した感覚と同時に、抵抗もなく止まる足。
冷めた眼差しを空に向ければ、いつの間にか光の柱は消えていて、どこから発生したのか全く分からない状態だ。そもそも、柱と少女に因果があるかどうかも定かではない。
もし仮に、あったとしても。
(おれには関係ない)
引き返そうとしたそのとき、視界の隅に何かが映った。無意識にそちらを向く。
僅かに見開いた切れ長の瞳が映したのは、まさしく異国の少女だった。意識がないのか、重力に従い後ろ向きに倒れていく。
何か考える暇があっただろうか。気づけば少年は、自らの腕で少女の華奢な身体を支えていた。
直後に響いた草木を踏み分ける音。殺気を放つも、そこにいたのは少年が警戒していた魔族ではなかった。
「まぎらわしい出方をするな」
「そんな事まで気にするような男では、女に退かれるぞ」
刺すような殺気の中でも平然とした面もちの巫女――ヤレンは、イチカの非難めいた発言を軽く受け流した。碧を支えているのも忘れて、イチカは露骨に迷惑そうな顔をする。
「あんたの知ったことじゃない。それよりなんだ、さっきの光は。あんたがやったのか?」
「私がやった……か。あながち間違いではないな」
言いながら、碧に手を伸ばす。
実体を持たないはずの彼女の手のひらは、しかし柔らかな焦げ茶の髪に乗せられた。先ほども草地を歩く音を立てていた。生身の人間でない以上、いわゆる幽霊のようにすり抜けるものと思っていただけに、イチカは戸惑う。
そしてそれ以上に彼が驚嘆したのは、ヤレンの表情だった。まるで自分の子供でも見ているような、本物の親のような眼差し。
ヤレンは碧の頭を軽く撫で、ゆっくりと手を離した。但しその双眸は、碧に向けられたままだったが。
「あの光はいわば、私の神力だ。久方ぶりに力を解放してみれば、自分でも気づかない内に気柱になるほど増幅していただけのこと。それをアオイに還した今は、あれほどの柱は立つまい」
(“力を還した”?)
何を言っているのだとイチカは思った。元々力があったのはヤレンで、後世の碧はそれを受け取る立場のはずだ。
「難儀な事を考える必要はない」
イチカの心の内を読みとるように、ヤレンは諭してみせた。顔を上げた先には、僅かに微笑む彼女の顔。
そこで初めて、イチカは碧を支えたままであることに気がついた。驚きはしたものの、責任感が勝り突き放すようなことはしなかった。
「お前は余計なことを考えず、アオイを護っていればいい。魔族の手に掬われてはならない。掬われたとき、この世は終わりへの道を辿り始める」
「……何を――」
深まる疑問を問いかけようと口を開いたとき、不気味な感覚が彼を襲った。根拠の無い大きな不安感と、それを裏付けるように立つ鳥肌。
イチカはこれを幾度も経験していた。こちらの世界に来てから――否、碧が来てから感じ取れるようになってしまった、邪悪な気配。
「この気配は……!」
責任感はどこへやら、放り出すように碧をその場に残しイチカは瘴気の方向へと一目散に駆けていく。風が足を持ち上げ、加速させる。草木が、少年の走り抜けた方向に傾く。
決して居心地の良くない草原の上でも身じろぎひとつしない碧を見下ろし、ヤレンは小さく溜息をついた。続いてイチカの消えた方角を見遣り、その目を眇める。
「気づいたか」
その双眸に映るのは、緑で覆われた視界一杯の空間ではなく、遠い昔の風景。
忘れようにも忘れられない、彼女にとっては苦く後味の悪い記憶。
その目は忌まわしいものでも見るかのように、ただその方向だけを睨みつけている。
「余程の手練れでなければ、肌にすら感じぬほど微弱な気配のはずだが」
一瞬、脳裏を過ぎる影。それを思い出す度、彼女は反射的に目を瞑る。
もう、思い出したくないというのに。
「余程の手練れということか。お前も」




